第2話
中庭では気持ちのいい風が吹いていた。
気分が悪くなるほど吸い込んだ香水のにおいを忘れるように、深呼吸をする。
とはいっても、腰をきつく締め付けるコルセットのせいでちっとも息が吸えた気がしない。
伯爵に挨拶をしてさっさと帰りたいものだと、気の早い夏虫の声に耳を傾けながら思う。
伯爵自慢の庭は、闇の中に沈んでいた。所々でかがり火がたかれているが、中庭全てを照らし出すほどではない。
昼間であれば整然と刈り込まれた庭園にため息をこぼしただろうが、今はその全容を見渡すことができずひどく残念に思えた。
しばらくしたら会場に戻ろうと考えていると、ふと近くに植えられている低木ががさがさと音を立てた。
何事かと振り返ると、そこには明らかに人の――それも男の影があった。
夜のせいか、いつの間にか距離を詰められていた。
偶然――ということはないだろう。男の目は明らかにこちらを見ている。
「やあ、いい夜だな」
その声を聴いて、嫌な予感を覚えた。
私の記憶に間違いがなければ、その声は先ほど私が奴隷商人の娘だと知って侮蔑を吐き捨てた声だったからだ。
「そうね」
「よかったら、俺と一緒に散歩しないか?」
男の顔は見えなかった。
しかしたとえ顔が見えたところで、その誘いを受ける気にはなれなかったに違いない。
「残念だけれど、失礼しますわ。連れが探していると思うから」
実際のところ連れなどはいなかったが、自分が探されていると印象付けることで少しでも男の気をそらせたかった。
そのまま距離をとって足早に男の横を抜けようとする。
しかし男とは反対側の木から腕が伸びてきて、私の手首を掴んだ。
姿を見せた男に気を取られて、後ろに男が二人いることに気づかなかったのだ。
私は歯噛みした。
どう見ても、三人仲良く散歩しましょうという雰囲気ではない。
「商人のくせに、お高くとまってるじゃないか」
からかうように、私の手首を掴んでる男が言った。
「いたっ」
その握力は痛みを感じるほどで、とても振り払えそうにない。
私はどうにか、逃げ道を探した。こんなところでこいつらに思い通りにされるなんてまっぴらだ。
「やめてください。ひとを呼びますよ」
彼らは体面を気にする貴族だ。こういえば少しくらい躊躇うかと思ったのだが、掴まれた腕が解放される様子はない。
普段ならばからまれても股間を蹴るなり目つぶしするなりして逃げ出すのだが、相手は腐っても貴族だ。
何があろうと、こちらから暴力に訴えるわけにはいかなかった。
自分だけがとがめられるのならば構わない。
けれど相手が貴族であれば、家ごと――家族どころか世話している奴隷たちも、どんなひどい目にあわされるか分かったものではなかった。
私は冷静になろうと自分に言い聞かせて、どうにか助かる道はないかとあたりを伺った。
その時、二階から張り出したテラスに人影が見えた。
「助けて!」
とっさに叫ぶ。
するとすぐに、大きな男の掌が私の口をふさいだ。
「うぐー!」
悔しさを覚えその掌に嚙みついてやろうかと思うが、相手が貴族だと思うとどうしても思いきれない。
男たちはそんな私をあざ笑うかのように、低い笑い声をあげた。
「無駄だ。パーティーの中庭なんて、逢引している貴族がそこら中にいるんだ。中にはやんごとなきお方もいる。警備兵だって下手に突っ込んできたりしないさ」
そういえば、出かけるときに中庭には出てはいけないと、何度も注意されたのだった。
話半分に聞いていた私は、今になってその言葉を思い出してた。
かすかな希望をもって先ほどのテラスを見ると、先ほど見えたはずの人影はそこから消えていた。
面倒ごとに関わり合いになることを避けたのか、あるいは酔っ払いの戯れだとでも思われたのか。
みぞおちのあたりから、かっかと燃え滾るマグマのような怒りがわいてくる。
職業柄クズは見慣れているが、一番手に負えないのは不相応な権力を持っているクズだ。
「へへっ、それじゃあ味見といこうじゃないか」
私の手首を掴んでいた男に羽交い絞めにされ、声をかけてきた男の顔が迫ってくる。顔にかかる生ぬるい息が非常に不愉快だ。
男の指が私の胸元に伸びてきて、ドレスをずり下した。
小山が二つまろび出て、月明かりに白く浮かび上がる。
胸が大きくてよかったことなんて、今まで一度もない。こんな風に男たちには絡まれるし、重いし肩こりもひどい。
いっそ振り回して男の顔を引っぱたければいいのにと、私は屈辱の中で考えた。
そんなことでも考えなければ、心が折れてしまいそうだ。
背後の男が喉を鳴らした。
目の前の男の手が乳房に伸びてくる。
いっそ頭突きしてやろうかと考えたその時。
「何をしている!」
暗闇の中に、鋭い声が響き渡った。
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