第60話 指導
翌早朝からヒルダへの稽古は始まった。
とはいえ、裕次郎が日課とする早朝ランニングのペースを落として帯同させただけだ。
何はなくとも体力が重要であり、そのためにはスロージョギングだ。
はじめはゆっくりとしたペースに軽口をたたいていたヒルダも、丘を過ぎ、農村への道も半ばを過ぎた頃には顔を青くしていた。
長距離を走って体力を着けるという行為は、特に古流の武術家において軽視されがちな鍛錬法である。古い文献をあさっても長い距離を走れるというのは特技として記される程だ。
だが、それではダメなのだ。競技性から外れるほど、戦う者は当然に長距離を走れなければならない。体力の不足は長期戦の中で思考を乱し、走力の不足が戦略の幅を狭める。
逆に言えば、体力に自信があるのなら走って逃げ、長期戦に持ち込むだけで戦いは有利になるのだ。
「さすがに、従者よりは体力があるな」
ヒルダは裕次郎の教えを守り、三名の従者を連れて来ていた。
しかし、早い者は王都を出る前に。よくもった者でも五キロ地点で脱落していた。
要因は靴の善し悪し、武術経験の有無、それに食事の内容というところだ。
普段走らない人間は突然走らせるとかくも走れないものである。
「先生……」
あえぐ様に息をするヒルダが、哀願の目を裕次郎に向ける。
休憩したいのだろう。しかし、授業の途中である。
「よし、早足の歩行に切り替えろ」
ヒルダはゼェゼェ言いながら立ち止まった。
「足を止めるのはダメだ。足を動かせ」
裕次郎の言葉に、ヒルダは歩き始めた。
案外と素直な子だ。
「いいかね、ヒルダ。俺と君が五分の実力だと仮定して、今すぐに殴り合えばどちらが有利かな?」
無言のまま、ヒルダは裕次郎を指し示す。
そりゃ、そうだろう。
辛そうなヒルダとむしろ体が温まって好調の裕次郎では比較するだけ空しい。
「だが、悲観することはない。十日か二十日も走り続けたなら、君も君の従者たちも涼しい顔をしていられる様になるだろう」
長距離走を続ければ体力というのは確実に着く。カンもセンスも必要とはしない。特にヒルダの様に年齢が若ければ体が順応していくのも早い。
「そ……そうなれば、もっと実戦的な技術も教えて貰えますか?」
呼吸を尋ねながらヒルダが聞いた。
思わぬ質問に裕次郎は笑ってしまった。
なるほど、ヒルダはこの基礎鍛錬の先に剣の振り方であるとかそういう技術があると思っているのだ。
「もちろん、教えよう。俺は弟子に教え惜しんだことはない。だが、勘違いしないでくれたら嬉しいんだが、走るのも十分に実戦的な技術だよ」
ヒルダも体力は消耗している様だが、流石に若い。
既に呼吸も整いつつあった。
「その証拠に、しばらく走って来ただけで君を守る筈の従者たちは居なくなってしまった。四人組の連中と一人で対峙するときにはこれで数の不利も無しだ」
裕次郎が来た道を示すと、ヒルダは驚いた顔で振り向いた。
「確かに……これが実戦だったなら、なんて私は考えもしなかったです」
詭弁にそこまで驚かれると困る。あくまで体力錬成に走らせただけなのだ。
裕次郎自身、常在戦場の精神など不要だと思っていた。
「まぁ、本番で力を発揮できるよう鍛錬を積むというのは置いておいて、さて。詰まるところ俺の教える極意とは『常に相手より優位を築け』だ。相手より体力面で優位に立ち、人数で優位に立つ。もちろんそれにかまけて技術的な積み上げを怠るのは論外だが、少なくともいつでも意識していなさい」
もちろん、適当な言葉で精神的に優位に立ったりといった技術もある。
そういうのはおいおい教えて行こう。
「さて、それじゃあそろそろ呼吸も整ったことだし、また走ろうか」
裕次郎はそう言ってヒルダを促した。
ヒルダも走ることに納得がいったからか、嫌な顔もせずに続いた。
※
農村から折り返し、途中でヒルダの従者を拾い、都市についた頃には昼を既に過ぎていた。
裕次郎はヒルダに、食事の際に食うべき物とそのおおよその量、同じ物を従者にも食わせることを指示して解散した。
一人なら文字通り朝飯前の行程に随分と時間が掛かったが、久々に弟子を育てるというのは楽しかった。
これからの指導計画を練りながら帰路を歩いていると、怒号が耳に入ってくる。
昨日の少年たちだ。ピンときた裕次郎はすぐに騒ぎの方向へ走り出す。
現場は近くの市場だった。
やはり薄汚れた格好の少年たちが露天の商店主に暴行を加えていた。
人の物を奪うのは最もシンプルな経済行為である。そんな経済行為にいそしむ少年たちを通行人は関わり合いにならないよう距離をとって遠巻きに眺めている。
「ちょっとゴメンね」
野次馬をかき分けると、ちょうどばら撒かれた金を拾い集める少年の尻が目に付いた。
考えるよりも早く裕次郎の足がその尻を蹴りつけていた。
圧縮バット三本を纏めて折る下段蹴りに、少年は声もなく沈む。
強盗はあと二人。
店主に暴行を加えている少年の股間を後ろから蹴り上げると、こちらもうめき声を上げて崩れ落ちた。
「なんだテメェ!」
最後の一人が裕次郎に気づき大声で喚いた。
なるほど。
裕次郎は感心した。
もしかするとこの少年たちの方がヒルダよりも戦いの中で生きているのかもしれない。
裕次郎が身をかわし、一瞬前までいた場所を木材が叩いた。
一人が大声で注意を引き、背後から別の要員が奇襲。その手段はいいが、引きつけ役の視線が襲撃を教えていたので、その点は減点である。
木材を柔らかく踏むと、木材を手放すことも出来ずに襲撃者は体勢を崩す。
跳ね上がった裕次郎の足がその顎を掠め、襲撃者はどうと倒れた。
しかし、最後の一人はその間に逃げ出している。
逃走に迷いがないのもいい。
裕次郎は逃げた少年を追いながら、これもまた堪らない嬉しさを噛みしめるのだった。
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