第55話 逃走本能

「いや、あの……タヌキにしては気品が溢れてるな、とは」


「フォローになっとらんわ、バカたれ!」


 リンデルは喚きながら裕次郎を蹴り飛ばした。

 その様はいつも通りの堂々としたもので、なんならその大声とふんぞり返った姿勢は竜に見つかることさえ恐れていない様だ。

 慌ててリンデルの口と頭を押さえた裕次郎は岩陰からそっと竜を窺った。

 巨大な竜の登場に、混乱に押されて飛び出してきた人影は竜を仰ぎ見て更に混乱を増してる。

 距離も問題で微かに、時間をずらして叫声が聞こえて来るが、竜が身じろぎしたあと少しして破裂音が伝わってきた。


「今のは……」


「トンボが爆発したかの。あの体格でここからわかる程に体を動かせば、貴様の棒きれなんぞ比較にならんほどの威力になるじゃろ。しかも誰かさんと違って見苦しく吹き飛ばされたりもせん」


 リンデルは嫌みったらしく言うものの、吹き飛ばされたのは二人して同じであり、自らの首も絞めているのではないかと裕次郎は思う。

 しかし、そんなことは当然おくびにも出さない。

 この、傲岸不遜でやや間抜けな少女は自分が仕える主人であるからだ。

 

「そんなことよりリンデル、例の薬をくれよ。念のために」


 裕次郎の言葉にリンデルは表情をしかめた。


「貴様、もしかしてあの竜と戦うつもりか? それならやめておけ。いかに偉大なワシの力を借り受けようとも、あいつには勝てんぞ」


 そんな忠告を受けずとも、裕次郎だって流石にあの大怪獣と取っ組み合いをするつもりは露ほどもない。

 

「別に相撲で勝負をしてる訳じゃないんだ。戦うのだとしたらいつか勝てる準備をしてからやるよ。そうじゃなくて、逃げるのさ」


 あの濃密な時間圧縮の中で、裕次郎は他のすべてを置き去りにして動き回ることが出来た。

 

「うむう、あれは確かに竜の鼻に引っかかりにくい様に調整をしておるが……」


 などと会話をする間にも断続的にトンボが爆発する音が響いている。

 逃げまどう者、驚いて腰を抜かす者、走り出てきた神殿に再び駆け込む者など様々であるが、竜は時々身震いをしてはトンボを爆発させ続けている。


「なあ、リンデル。本当にあのトンボで竜は倒せるのかね。まるで利いている気がしないが」


「そうさな、竜の鱗は鋼よりも遙かに硬い。それで大抵の攻撃を跳ね返すのじゃが、ああやって身震いしているところを見ると、嫌がってはおるのじゃろう。あのトンボ、顎だけはやたら頑丈に作りこんであったからのう。もしかすると鱗を咬みちぎるくらいは出来るかもしれん。とはいえ、術士が赤砂のイラでないのだから、それが限界じゃな」


 リンデルの話を信じるのであればイラはあの竜を三頭も道連れにしたという。興味深い話だ。

 と、竜が神殿に向けて口を開いた。次の瞬間、口の奥から目映い光の柱が神殿へと延びる。

 光線の直撃を受けた石造りの神殿は目映い光に変じ、周囲にいたグロウダッカの信徒たちは余波を受けて一瞬で燃え上がった。


「あ、マズい」


 裕次郎は咄嗟にリンデルの服の襟から手をつっこみ、内部をまさぐる。

 リンデルが開いた口から何かを言うよりも早く目的のものを見つけると、引っこ抜いて、包みを開けるのももどかしく口の中に流し込んだ。

 目眩と耳鳴りとが一度に訪れ、全身に鳥肌が立つ。

 それを我慢して飲み下すと、リンデルの動きが止まった。

 薬が効いたのだ。

 極度に遅くなった時間の中で、後ろを振り向けば竜はまだ光線を吐いており、エネルギーの余波が熱となって拡散していた。高地に咲く背の低い草が次々に燃え上がって熱波の接近を知らせる。

 その速度は猛烈で、裕次郎はそっとリンデルを担げ、ゆっくりと逃げ出した。

 前回経験した、足下の摩擦問題もあり、また、急制動をかけるリンデルの体を心配しての事だ。

 しかし、不可視の熱塊がどんどんと近づいてきており気は逸る。

 あと数メートルの距離まで火が近づいて来た時点でようやく裕次郎は速度を出し始めた。

 熱も、膨張する大気も、あるいはグロウダッカも置いて裕次郎は走った。

 一歩ごとに跳躍距離が伸びていき、あっという間に山を下ってく。

 魔獣の枝であるオムニアは半不死の存在だというが、あの火力なら十分だろう。

 マブヤブも、他のグロウダッカ構成員たちも、岩を蒸発させる様な熱量の前では等しく消滅して終わりである。

 なるほど、これが魔法か。

 逃走を続けながら裕次郎は舌を巻いた。

 恒星から汲みだしたかのごときエネルギーを吹き付ける術。

 そんなものを持っていれば他者が同様の技術を持とうとするのを許す筈がない。

 ほとんど山の麓まで降り、巨大な岩の塊が目に入った。

 裕次郎は加速と同じように徐々に減速していき、再び迫る熱波に捕まる直前、岩の陰に入った。

 次の瞬間、熱が周囲を吹き抜けて行った。

 数キロ、下手すれば十キロは離れ、さらに遙か低い場所でこれである。

 裕次郎はリンデルを抱き込み、背中で熱から庇うと、自らも息を止めた。

 広範囲に拡散した熱量は、それでも裕次郎の肌をジリジリと灼き続けるのだった。


 ※


 薬効が切れ、リンデルから数発殴られたあとに岩陰から出ると、巨大な山の頂上は形が変わっており、内包していた水蒸気が遙か上空で急速に雲を形作るところだった。

 

「見つからんで済んだかな?」


 その雲を割って飛び去る竜を見つめ、裕次郎は傍らのリンデルに訊ねる。


「さて、な。あるいはワシの威光に驚き慌てて逃げたかもしれんぞ」


 そんなわけがない。

 しかし、いつか彼らに取って代わることを望む少女にとって、脅威としてみなしてもらえなかったのかもしれないなどとは絶対に口にだせない事だった。

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