第54話 逃げ隠れ行き違い
悲鳴が溢れる居住スペースを通ると、無人の部屋が一つ目につく。
住人はトンボに追い立てられ、トンボは獲物を追って空になった部屋で裕次郎は机の脚を蹴り折り振りやすい長さの棒を入手した。
裕次郎たちを追って室内に入って来た一匹のトンボに向けて、裕次郎は棒を振るう。この狭い部屋で一匹なら撃ち落とすのも造作はない。
「あ、バカ者!」
悲鳴に近いリンデルの叫びが裕次郎の脳髄に届いて静止させるよりも棒がトンボに直撃する方が早かった。
瞬間、目の前が真っ白になり裕次郎は部屋の隅まで吹き飛ばされていた。
「痛った……」
怪我をした背中から壁に叩きつけられ、目がチカチカする。
見れば手にしていた棒はどこかへ飛んでいき、部屋の中も無茶苦茶になっていた。
「どけ、どけい!」
顔をしかめて呆然としているとくぐもった声が尻の下から聞こえてきた。
耳もキンと鳴り、体と頭はぼんやりとしか動かないが記憶は浮かぶ。
近くで爆弾や砲弾が破裂したとき、物陰に隠れていてもこんな状態になったものだ。
なんという現象だったか、そこまではたどり着けないが、アルコールに酔ったときの様に世界が飛膜の向こうに感じたものだ。
ということは目の前で何かが爆発したのだ。はて、なにが。
思考は纏まらず声を出そうにも呻き声しか出ない。
だが、習性は簡単に抜けないものだ。裕次郎は無意識に全ての指と主要な筋肉が動くのを確認していた。
「どけというに、大バカ者め!」
背後から押しのけられ、裕次郎は皮膜を突き破ったような気がした。
世界の音と色が一気に近づき鮮明になる。
勢いに押され立ち上がり、思わず自分の顔を押さえて深い息を吸った。
呆けていた。その隙に殺されなくてよかった。
後ろを振り返れば額を赤く腫らしたリンデルが涙目で怒鳴っていた。
なるほど、担いでいたリンデルは吹っ飛んだ時、壁に頭からぶつかったのだ。おかげで自らのダメージは少しだけマシになったのだろう。
「オマエ、案外と首が丈夫だねえ」
勢いからして首が折れてもおかしくはなかったが、しかしリンデルも常人ではない。
裕次郎は自分の耳や鼻、唇の欠損がないことを確認しながらぼんやりと思う。
「ああ、まだ調子が悪いな」
緊急時、脳は痛覚を鈍くする。それは人体のありがたい所でもあるが、自力の麻酔には違いない。効果が解けるまで少し時間か掛かる。
「うっさいわボケ! 考えなしにトンボを叩きおって。あれはエネルギーそのものじゃと言うたろうが。道中で撃ち込まれた、あの火砲と同じだけの力を秘めておるんじゃ!」
リンデルは立ち上がると勢いをつけて裕次郎の脛を蹴りつけた。
薄められてもなお強烈な痛みに裕次郎は顔をしかめる。
「二度とやるなよ!」
余程腹に据えかねたのか、リンデルは目を吊り上げて怒鳴った。
頼まれてもやるものか。
内心では舌を出しつつ、大人であるので裕次郎は申し訳なさそうに頷いた。
「しかしそうなると、あのトンボは本当に逃げるしか手段がないんだな」
耳の横で指をこすり、鼓膜が破れていないことを確認しつつ裕次郎は呟く。
そもそも、捕まえたり撃ち落としたりだって困難なのに、それをやったところで爆発するのだ。おとなしく距離をとって燃料切れを待つのが正解であろう。
せめて、素手で撃ち落とそうとしなくてよかった。もしそうなら間違いなく腕が吹っ飛んでいた。
※
混乱をすり抜けて建物から出ると、後ろを走っていたリンデルは裕次郎の服を引っ張った。
「裕次郎、裕次郎!」
トンボに対する手段を考えていた裕次郎は振り向いて驚いた。
リンデルはまるで雨に打たれたのかというくらい大汗をかいていたのだ。
「どうしたんだ?」
いつも泰然自若として恐怖という感情など無縁に見えた少女は明らかに怯えていた。
唇はワナワナと震え、歯の根もガチガチと音を立てている。
「マズい、マズいぞ。気づかれた、来てしまう……」
オムニアやマブヤブを前にしても尊大な態度を崩さなかった少女だ。それに類する存在への恐怖でないのはすぐにわかった。
「来るって、ひょっとして……」
リンデルが恐れるものなど、裕次郎は一つしか知らない。
「ジジィが来る。逃げねば」
言葉とは裏腹にリンデルは目を閉じその場にうずくまってしまった。
その様はまるで、直視しなければ恐怖の原因が消えはしないかと祈っているようでもある。
「ジジィとは、オマエの古い同種とかいう連中か?」
リンデルはひどく震えていて、頷いたのかどうかも裕次郎にはわからなかった。
裕次郎は周囲を見回すがそれらしい存在はどこにも見当たらない。
「迂闊じゃった。封じられた魔獣の使い魔に封じられた魔獣の魔法、それにわずかながらワシも魔力を使っておる。一つ一つなら気づかれんかったろうが、合わさって勘づかれたのか……」
呆然とリンデルは言った。あの傲慢な少女はすでに消え去ってどこにもいない。
裕次郎は即座に行動目標を変えた。もとより最優先課題は常にリンデルの護衛である。
それに比べればグロウダッカも、赤砂もどうでもいい部類の話だった。
「じゃ、飛んで逃げるか」
裕次郎は腕輪に力を込める。
他の魔道具は燃料代わりの赤砂がトンボに化けてしまったが、これはリンデルの魔力が注いであるため使えるとのことだった。しかし、その腕輪をリンデルの手が抑えた。
「やめてくれ! ここまで近づかれるとそれも嗅ぎつかれる可能性がある。アイツらはひどく鼻が利くのじゃ!」
彼女の力とつながった裕次郎だからわかる。絶対的な尺度に照らせば彼女は純然たる強者であり、普段の態度もその力に鑑みれば非常におとなしいものだということが。
その彼女がこれほど怯える圧倒的な存在が来るのだという。
「リンデル、爺さんとやらはどっちから来るのかね」
裕次郎が尋ねるとリンデルは神殿の向こうに広がる空を指差した。
裕次郎の眼にはないも映っていないが、リンデルにはわかるのだろう。
「もうすぐ来る。一分もかからん。ああ、もう消えてしまいたい」
すっかり貝のようになってしまったリンデルを裕次郎は抱き上げた。
つまり一分近くは時間があるわけだ。裕次郎は全速力で走り、二百メートルほど離れた窪みに飛び込む。
上手い具合に岩の陰に隠れて神殿を覗くことが出来る場所だった。
神殿の方を振り返ると虚空に点が一つ浮いているのが見えた。
点は見る間に影えと変じ、あっという間に全身がはっきりと見える距離まで近づいてきた。虚空を戦闘機のごとき速度で飛び来るそれは巨大な怪獣だ。その体は巨大な神殿よりなお、大きい。
金色の鱗を持った怪物は神殿の上部でふっと停止し、ゆっくりと地面に降りてきた。
てっきり宝船を模した乗り物に乗って七福神の様ないでたちの連中がやってくるのだと思っていた裕次郎は面食らってしまった。
「なぁリンデル、あれって……竜だよな?」
裕次郎は小声でリンデルに問いかけた。
巨大な怪物はどう見ても狐や狸には見えない。それは物語に出て来る、俗にいう西洋竜の姿をしていた。
「あれも狸が化けているのか?」
裕次郎の問いに、恐怖に固まったままリンデルは怪訝な表情を浮かべる。
「え、だってリンデルの正体は白ダヌ……」
自分がずっと思っていたことがどうも違ったらしいと言葉の途中で気づく。
「タ……ヌ……キ。裕次郎、もしかして貴様、ワシのことをずっと狸の化生と思っておったのか?」
その事実があまりに衝撃的だったのだろう。
リンデルの表情からはすっかり恐怖の色が消えていたのだった。
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