第22話 早朝散歩

 裕次郎は日の出前に目を覚ますと、布団から身を起こした。


「おい、リンデル。朝だぞ」


 隣の布団で寝息を立てているリンデルも声を掛けると、こちらもむくりと起き上がる。

 リンデルに仕え始めて一月が経過していたが、互いに気を使うでもなく主従というよりも老夫婦の関係性に近い。

 二人で連れだって一階に降りると、洗面などを済ませて裕次郎は雑嚢を背負った。

 

「じゃ、行ってくるよ」


「おう」


 窓を空けながらリンデルが応える。

 裕次郎は夜明け前の涼しい空気を吸いながら扉から外へ出た。

 周囲に怪しい者の気配はなく、三度の深呼吸の後に裕次郎は走り始める。

 夜明け前の静かな街路を駆けながら、薄い布靴を通して地面を感じる。

 やがて、ボコボコと巨大な瘤が並ぶような丘陵地帯に入った。都市特有の臭気が途切れ、胸いっぱいに空気を吸い込みつつ、裕次郎は更にペースを上げる。

 幅員が五メートルほどある街道を弾むように、真っ直ぐ西へ向けて走っていく。

 周囲の土地は放牧に供されているらしく、緑の芝生はいずれも丈が低い。

 朝日が登り眩しい程の光を背に受け、高鳴る鼓動を感じる。

 裕次郎は若くなった体を存分に動かすのが楽しくて仕方がなかった。


 ※


 寄り道しつつ一時間半程を走り、目的の農村にたどり着く。

 リンデルの森と都市の中間地点にある集落で、ストルテンバーがもう一つの宿舎を用意している集落である。

 都市部の宿舎よりは広いが、ボロい廃屋を買い上げ、修繕中であった。

 

「あれ、裕次郎さん早いね」


 裕次郎が家の前の小川で顔を洗っていると、近所の農婦が声を掛けてきた。

 もはや老婆といっていい年齢で、背は地面と水平に近いほど曲がっている。

 その手には包みを持っていた。


「やあ、ちょうどいい。今来たところさ」


 裕次郎は袖で水を拭うと、老婆から荷物を受け取った。

 中身は鶏卵と、周囲でとれる野菜である。

 作物は商品として、朝一に荷車へ乗せ都市部まで売りに行くのであるが、都市に着くのは昼過ぎとなる。

 その一部を裕次郎が自ら買いに来ているのだ。

 ご近所とは仲良くしておくに超したことはない。

 この老婆には近隣から働きに来る大工たちの賄いを頼んでもあるし、値も送料の分、都市で求めるよりも安い。早朝の鍛錬も兼ねて一石二鳥ではないか。

 

「これで大工連中に菓子でも食わせてやってくれよ」


 裕次郎は雑嚢から余分に小銭を取り出して老婆に渡すと、代わりに受け取った荷物をしまい込んで再び走り出した。


 ※


 跳ねるように走り抜けた往路と違い、復路は重心を上下させず駆け抜ける。

 これも鍛錬の一つである。

 都市に着くとすでに日は高く、人出も多くなっていた。

 走り抜けるのは危ないので、呼吸を抑えながら歩きつつクールダウンしていく。

 魚市場の猛烈な悪臭とハエの羽音、それにおそらく半端に整備されているのだろう下水臭とそれを鼻に届ける潮風が都市の輪郭を彩っている気がした。


「おかえりなさいませ」


 近所の広場で洗濯をしていたメドウが裕次郎に気づくと、立ち上がって頭を下げる。


「うん、帰ったよ。飯にしよう」

 

 洗濯機がないので一枚一枚手洗いなのだ。

 汗だくのシャツは当然着替えるので作業を増やすのは申し訳ないのだが、冷静に考えるとその対価は支払っている。

 家に帰り雑嚢を机に置くと、シャツを脱いで汚れ物の籠に放り投げた。

 

「おい、脱ぐなら脱衣所で脱がんかい」


 リンデルが薬草の粉を秤にかけながら眉を顰める。

 

「今更じゃないか」


 裕次郎がここに生まれたとき、それを作ったのは彼女で、まさに生まれたままの姿をいじくりまわされていたのだ。

 

「アホめ。ワシはどうでもいいが、メドウの教育に悪いと言うておる」


 メドウも短期間とはいえ娼婦をやっていたのでそれも今更だとは思うが、確かに正論である。

 裕次郎は更衣室代わりに使っている小部屋に入り、汗をぬぐった。

 やがて、メドウが戻ってきてしばらくたつと昨晩から仕込んでいる野菜のスープと魚の塩焼きを温めなおす臭いがしてきた。

 さすがに腹も減る。

 裕次郎が服を着て部屋を出ると、リンデルがゴソゴソとダイニングテーブルの上を片付けているところだった。

 リンデルは決して他人に薬を触らせない。

 それは、高価だったり、あるいは他人を本質的に信じられない性のあらわれなのだろう。

 すぐに机へ料理が並び、裕次郎はそれらをムシャムシャと咀嚼し、飲み込んだ。

 リンデルも小食ながら、少しずつ手を付け頷いている。

 どうやらメドウの料理も基礎段階は無事に習得したらしい。火加減も味付けも悪くない。やはり、案外とカンのいい娘なのかもしれない。

 

「じゃあ、俺は仕事に行ってくる。メドウはどうするね?」


 食事を終えて、裕次郎はメドウに尋ねた。

 この後、ストルテンバーの屋敷に行くのであれば途中まで一緒に行こうかという誘いである。

 しかし、メドウは首を振って答える。


「洗い物と、まだ洗濯物も残っておりますので」


 今しがた使った食器類と、洗濯籠に入れた裕次郎の服。

 それだけでも作業が終わるまで一時間くらいはかかる。

 

「それに今日は家庭教師の日じゃ。外にはオマエ一人で行ってこい。金脈を見つけて来いよ」


「了解、今日も行ってくるよ」


 リンデルから言われて、裕次郎は席を立つ。

 頭を下げて見送るメドウに勉強を頑張れよ、と声を掛けて外に出る。

 裕次郎の視線は、トラブルを探していた。

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