第12話 お説教
「なんだい、もう終わりかい?」
娼館を出ようとする裕次郎に、カウンターの大男が声を掛けた。
差し込むわずかな光が、頭部や顔面に浮かぶ数条の傷痕を凄惨に浮かび上がらせる。この男が金庫番をしていれば、大抵の泥棒は手を引くだろう。
裕次郎はポケットから硬貨を取り出すと、男に放った。
街を歩いて掴んだおおよその感覚としては千円程度になるだろうか。
「まあ、それで一杯飲んでくれよ」
大男が硬貨をポケットに納めると、同じ硬貨をもう一つ放る。
「さっきの娘に、それで飴玉でも買ってやってくれ」
大男はそれもポケットにつっこむと、揶揄するような表情を浮かべた。
「そりゃあ、よほど具合がよかったんだな」
「まあ、多生の縁だよ。忘八の小僧さん」
言われた意味が解らずに大男は眉間に皺を寄せた。
「女の生き血をすするヤクザ者という意味さ」
瞬間、大男の表情はさっと変わった。
バカにされれば殴って返す。それがヤクザの資質であり、本能であるのはこの世界でも変わらないらしい。
「喧嘩を売ってんのか、コラ!」
大男はカウンターの内側から五十センチ程の鉄条を掴み取ると、そのままカウンターに叩きつけた。
バチン、という高い音が怒声と共に響きわたる。
裕次郎は大男を見るともなく視界に納めながら、いつ攻撃されてもいいように重心を後ろへ移した。そうしながらも他の客や女、それに大男の部下たちが駆けつけるのを耳で捉え、自らの顎を撫でる。
「ふむ、こいつは妙だ。行儀見習いの小僧さんに小遣いをやり、無知で恥をかかずに済むようにと親切にものを教えてもやった。にもかかわらず、棒っきれを握って怒鳴るとは。ひょっとして小僧さん、アンタは俺に喧嘩を売ってるのかね?」
言い終わらない内に、鉄条は唸りをあげて飛来した。
裕次郎が身をかわすと、ズブリと音をあげて壁に刺さる。
「上等だ、ぶち殺してやるよ!」
大男がキッと睨むと客や女は後ろへさがり、部下たちは逃げ道を塞ぐように立ち並んだ。手を貸そうとしないのは大男の気性ゆえか。裕次郎はそう思いながら、カウンターの下を潜り出てくる大男を見た。
既に目が血走っており、鼻孔も広がっている。
裕次郎は財布などが入った鞄を隅に置くと、久しぶりの喧嘩に鼓動が早くなるのを感じた。
場所は娼館の受付ホールである。身動きとれない程ではないが、通路幅はせいぜい三メートルしかない。
逃げ回るのは難しい。
大男は考えるまでもなく、前に進み出てきた。喧嘩に慣れた者の動きだった。
体格が大きいということは、リーチが長く、力が強く、素早くて打たれ強い。
距離を潰して掴み、倒すなり殴るなりが主戦法なのだろう。
裕次郎も両手を構えて距離を詰める。
二人が近づいた瞬間、大男が伸ばした手を潜るように身を沈めると裕次郎の手は三度、大男の胴体に突き刺さった。
しかし、効果は薄い。
闘争は人の脳髄を興奮で痺れさせ、脳内麻薬を吹き出させる。多少の痛みは喧嘩が終わるまで感じないだろう。
すぐに距離を取り、地面を滑るようなローキックを右足内側にたたき込む。
大男は距離の取り方が素人だ。
一方、裕次郎には前世で何万回も繰り返して来たスパーリングが、新しい体にも染み着いている。距離の測り合い、奪い合いでは圧倒的に有利だった。
前に出ようとした大男の下腹部に鋭い前蹴りが突き刺さると、その激痛には流石に動きを止める。それでも強引に伸ばして来た手を打ち払って、流れで裏拳を顔面に。
軽い目潰しの一撃に続いて本命の重たい拳が前歯も折れよと大男の口に炸裂した。パラパラ飛び散る歯と、少し遅れて吹き出る鮮血が周囲にシミをつける。
裕次郎の右手は大男の耳を髪の毛ごと掴み、左手は腕を掴む。
力を入れて振り回すと、大男は顔面から壁につっこんでいった。
派手な音を立てて床に沈む大男のわき腹を蹴り込み、うめき声も無視したまま、同じ場所に何度も足を刺す。
わき腹を押さえて仰向けになった大男の両肩を膝で制しながら、裕次郎は大男の胸にまたがった。
「おい、おまえらの親方が死にかけてるぞ。助けないのか?」
冷たい視線を周囲のゴロツキたちに向けるが、彼らは渋い顔で痛々しい大男を見つめていた。
「代わりたくなったらいつでもかかってこい」
言いながら、裕次郎の拳は大男の顔面を叩いていた。
鼻に強く、瞼に軽く、嫌がって横を向いた男の耳に平手を強く。
道場でもリングでもない。稽古でも試合でもない喧嘩は止める者さえなく淡々と続いた。
大男の体から抵抗の力はとうに抜けており、鼻は平たく潰れ、頬が裂けて横から口の中が見える様になった頃、裕次郎は「よし」と呟いて立ち上がった。
その場を取り囲む全員が顔面を蒼白にしており、固唾を飲む中、裕次郎は壁に刺さった鉄条を引き抜く。
「次はおまえだな」
言うが早いか、取り囲んでいたゴロツキの一人を鉄条で殴りつけた。
鈍い音がして頭が裂け、大量の血が吹き出す。
頭を守るようにして掲げた腕を叩き折り、鎖骨を砕き、再度頭を殴った。
「おまえも文句がありそうだ」
「いや……そんな!」
言い逃れようとする二人目のゴロツキを念入りに殴りつけて動けなくしたころ、ようやく客や女たちはその場から逃げ出していた。
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