浜辺の花

第9話 生業

 海辺の街特有の匂いが鼻孔をつく。

 潮の香り自体は不快ではないのだけど、それに混ざって腐敗した魚の様な匂いと飛び交う蠅が裕次郎の眉を顰めさせた。

 広い道を大勢の人間が行き来し、海には多くの商船が投錨して浮いている。

 また、商船と陸の間を盛んに動き回る無数の艀が砂浜に荷物を降ろしていた。


「活気があっていいな」


 猛烈な腐臭は確かに付きまとうものの、裕次郎は本心から言った。

 道の端には立ち並ぶ露店の魚屋から捨てられた内臓や頭なんかが積み重なり、たかった蠅で真っ黒になっている。一部には猫も歩いているものの、少し離れた場所にいるネズミには興味がないのだろう。それと気を付ければ内臓を巣に持ち帰るネズミもたくさん見ることが出来た。

 不衛生だが市場というのは本来こういうものだ。

 都市の発展は市場の発展を促し、未熟な公衆衛生は疫病を呼ぶ。裕次郎がかつて見て歩いた市場も、先進国を除けば大半はそうだったのだ。

 ましてこの科学未発達の世界で何をいわんや。

 だが、どうしようもない生命力の躍動を感じる腐臭と雑然とした人の群れが裕次郎は好ましかった。


「ワシは苦手じゃな。臭いしやかましい。薬草屋はもうすぐだから早く行くぞ」

 

 リンデルは顔をしかめて呟いた。


 ※

 

 ストルテンバーが戻ってから三日後には、使者がやって来た。

 使者が語るところによれば、裕次郎が要望した下町の滞在用住宅が用意できたとのことだった。森と都市の間に用意する住宅も鋭意準備中とのことだが、それならと二人して下町を見に来たのだ。

 農作業のほとんどはリンデルと、彼女のホムンクルスが粛々と進めることもあり、せいぜい食器洗いと洗濯くらいしかやることがなく、裕次郎は暇で仕方がなかった。

 薪割りでもやればいいのだろうが、薪は近隣の農村から定期的に納入されるのだといい、ひたすらのどかな森の周辺を散歩しても楽しいのだが、三日も繰り返せば少し遠くまで出歩きたくもなる。そんなわけで裕次郎の心は否が応にも弾んでいた。


 ※


 大きな都市だ。海辺を歩いて横断しようとすれば数時間かかるらしい。

 ふと、雑踏を早足で抜けようとするリンデルの手を裕次郎は掴んでいた。

 突然のことに思わず転びそうになるリンデルを抱きとめ、裕次郎は街路の中で一際騒がしい一角を指差した。


「なあ、リンデル。あれは何だね」


 指の先では暴力沙汰が展開され、通行人が足を止めてそれを見守っていた。

 しかし、腕を引かれたリンデルは裕次郎の腕の中で怒鳴る。

 

「知るかバカ者、危うく肩が抜けるかと思ったわ。次から抱き寄せるときは事前に許可を申請せよ」


 不満そうなリンデルを無視しつつ、手を引っ張って人垣に近づく。

 最初、乱闘と思ったそれが複数によるリンチだと気づくのに時間はかからなかった。

 暴力を受ける一人は押さえつけられ、殴られ、蹴り転がされ、蹴り上げられる。

 暴行を働いている連中は一般的なゴロツキに見えるが、やられている方は妙に小柄で筋肉質だ。身長は子供の様だが、口ひげが生えているので大人なのだろう。


「ふうむ、ドワーフじゃの。本来は鉱山帯に住み鉱石の掘り出しやら精錬、金属加工に従事する連中じゃが……鉱山だけでは足せぬ用もある。街に出てくるのも不思議じゃあるまい」


 なるほど。裕次郎は妙に納得した。

 鉱山に住まい、坑道開削を生業にするのならば小柄な方がよかろう。

 裕次郎も何度か坑道に入ったことがあったのだが、どこも息が詰まりそうなほど狭かった。

 つまり、累代で鉱業に従事し続け、背が低く筋肉質な者が生存に、あるいは子孫を残すことに有利な生存環境に置かれるうち、その形質を獲得したのだろうか。進化論を研究するのであれば格好の観察材料かもしれない。

 そんなことを思う間にも暴行は続けられ、ドワーフの男は血を吐いた。

 内臓が傷ついた吐血ではなく、歯か鼻が折れて出た血が喉へ流れ込み、胃液とともに吐き出されたのだろう。

 いずれにせよ丁度いい。


「ほら、もういいだろう兄さん方、その辺でやめてはどうかね」


 裕次郎は人込みを割って、暴行をふるっている連中に声を掛けた。

 すぐにゴロツキ連中の剣呑な視線が裕次郎に突き刺さり、彼らの手は止まった。

 

「なんだ、テメエは?」


 ゴロツキの一人が裕次郎に歩み寄ってくる。

 ドワーフほどではないが背の低い小男だ。物腰からして、脅威度は低い。

 

「まあ落ち着きなさい。もう見せしめも十分だろう。それ以上やると死ぬぞ」


 最初から殺す気ならそれを邪魔するほどの動機は裕次郎にない。

 ただ、殺すほどでもないのに勢いがついて殺してしまうのはさすがに可哀そうな気がして出した助け船だった。

 ゴロツキ連中は互いに顔を見合わせ、周囲を囲む群衆を見回し十分に目的を達したと判断したのだろう。

 

「ふん、これに懲りたら二度とこの辺を歩くんじゃねえぞ!」


 最後に一撃、ドワーフの腹を蹴り上げるとゴロツキたちはゾロゾロと去っていった。

 ゴロツキたちは暴力が本業ではない。あくまで手段の一つとして暴力の行使も辞さないだけだ。だがやはり殺人まではやりすぎだと判断したのだろう。往々にして、見せしめとは往来で行われるが、殺害は常に物陰で行われる。

 それぞれは非常に遠い性質を持っており、プロは必ずこれを使い分けるものだ。

 

「どれ、兄さん。ケガはどうだい」


 面倒くさそうな表情を浮かべるリンデルを無視し、裕次郎はかがんで手ぬぐいを差し出した。

 頬や額が見事に腫れていて、まさにボコボコの顔でドワーフは驚いたような顔で裕次郎を見上げる。唇は裂け、歯茎からの出血と合わさって口からはとめどなく血があふれていたが、不幸中の幸いとして鼻は折られていなかった。

 二日か三日は安静に過ごさねばならんだろうが、命に係わるほどのケガではない。


「おい裕次郎、もうよかろう。さっさと行くぞ」


 背後から喚くリンデルの口調からは振り返るまでもなくウンザリとした表情が読み取れた。

 

「待て、リンデル。せっかくだから彼の話を聞きたい」


 振り向いた裕次郎の笑みを見てリンデルは怪訝な表情を浮かべた。

 なぜこの場面で笑うのか、なぜ名も知らぬ者に関わるのか理解できないのだろう。

 しかし、裕次郎の専門はまさにもめ事への介入なのだ。

 腐臭の中に見つけた、懐かしい匂いは裕次郎の相好を崩させるのに十分だった。

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