第3話 価値の対称性
「まずは食え。腹も減っておろう」
少女に言われた途端に自覚してしまい、猛烈な空腹感が存在感を増した。
どれほどの時間が経ったのかわからないが、結局最後のカップ麺も口には入らなかったのだ。粗末な粥の匂いにさえ涎が沸いてくる。
裕次郎は匙を掴むと、中身を口の中に放り込んだ。
温く、甘い。
乾燥したトウモロコシを荒く挽き、煮たものであろう。
裕次郎がアフリカでゲリラ支配下の村に潜んだときには毎夕にトウモロコシの粥を食べた。薄汚いプラスチックのスプーンと缶詰の空き缶を食器にして提供されたそれは到底うまいとは言えなかったが、それでも他にないから腹を満たすために食べ続ける。そんな代物だった。
正規ルートで流れてきたとは考えがたい穀物の袋と、ヨーロッパ製の缶詰が村の隅に積まれていた。およそ現代的な匂いを放つのはそれだけの村で、数十人の村人はただ生きていた。村人は裕次郎によくしてくれ、裕次郎も村に馴染んだ。
子供達と遊び、水を汲み、燃料集めに森を歩き回る。村人から服を分けて貰い、同じような生活をしていると三日で彼らと同じ人間になれた気がした。肌の色も髪質も関係ない。
結局、視察に来たゲリラの幹部を暗殺して逃げるまでの数十日間は裕次郎の人生でも鮮やかに彩りを放つ記憶である。
その村がゲリラの報復に合い、焼かれたと聞いたのは日本に帰る空港でだった。
口に入れると、煮てなお粉っぽい風味がまだ若かった日々を思い起こさせる。熱く乾燥した風と、絶えず耳を撃つ蠅の羽音。そうして土の匂い。ここはある意味であの村に似ていた。
違うのは、ギラギラと目を輝かせた村民の代わりに、尊大な態度の少女が見つめていることである。
「どうだ、美味いか。もう一杯どうだ。まだ沢山あるぞ」
少女が手を出すので、裕次郎は半液状の粥を咀嚼もそこそこに飲み下し、器を返した。
「ありがたくいただく。ところでここはどこだね?」
服を着て腹に物を入れると、気持ちも緩む。
裕次郎は出来るだけ朗らかに、質問を飛ばした。
目の前の少女から目的や背後組織など聞きださねばならない。
少女は鍋から粥を注ぎながら、背中で「んん……」とうなった。
「ここはワシの森じゃ。住民から“リンデルの森”と呼ばれておる」
木椀を突き出して少女は笑う。裕次郎は椀を受け取り、二杯目の粥を食べ始めた。
「君の、ということは君の名前がリンデルなのか?」
「厳密には違うが、そう呼ぶ者もおる。お主も好きに呼んで構わんよ」
よく要領を得ないが、そう呼べというのなら呼ぼう。ヤクザの連中も互いを名前ではなく、地名で呼んでいたので似たようなものか。
裕次郎はそう思いながら粥を頬張る。
「それで、君は再会というが人違いではないかね。俺は君にさっぱり見覚えがないんだよ」
祖父と孫の様な年齢差である。係累に引き連れられてどこかで会っていたとしても覚えていないし、この年頃は数年も会わないと外見が大きく変わる。
裕次郎は思い出すのを早々に諦めていた。
「ふっふう、本来であれば神のごときワシを覚えていないなど、不敬も甚だしいところであるが、その時は私も化生の身じゃった。しかし、本当に覚えがないか? ヒントをやろう。ワシは神々しい獣の姿をしていた。場所は中国、地方、山奥じゃ」
言われた瞬間、裕次郎の頭には、若き日の記憶が不意によみがえった。
まだ二十代のころ、たしかに神々しい獣を見たことがある。
あれは広島の山間部だ。暴力団華やかなりし頃、抗争にガッツリと巻き込まれて某組織の金庫番を襲撃しに行ったことがある。その時、檻の中に真っ白なアルビノらしき狸を見つけたのだ。
狸食の文化がある地域だったので食材として活かしていたものか、博徒がゲン担ぎに飼っていたものかはわからない。
風格のある狸は裕次郎をまっすぐに見つめており、餌をやる者がいなくなってしまったこともあり、裕次郎はなんとなく鍵を開けて逃がしたが、礼を言うように何度も振り返っていたのをよく覚えている。
長じた猫や狐狸は人を化かすなどというが、あの化け狸がこの少女の正体だとすれば、妙な事象も神通力で説明が付こう。
「そうか、あの時の!」
「思い出したか。それじゃ!」
リンデルは嬉しそうに笑い、手を叩く。
日本では狐狸妖怪、中国では神仙などと呼ぶものなれば、尊大な態度にも納得がいった。
それに、妙な話し方をすると思えば、なるほど中国地方の方言が混ざっているのだ。
「あの頃はワシも非力でな。あんな檻の一つも破れず冷や汗をかいたわ。そこへ現れたお主に救われたわけじゃが、恩返しといってはなんじゃが、こいつをワシの従僕にしてやろうと思ってずっと見ておったのじゃ」
リンデルはどこからか手鏡を取り出すと、裕次郎に手渡した。
金属を磨いて作られた銅鏡である。
裕次郎はそれを受け取ると、自らの顔を確認した。
やはり、そこに映って自分の顔ではなかった。いや、自分の顔には違いない。厳密にいえば、二十歳前後のころの顔になっていたのだ。
当然の様に喉の傷もない。異様な体調の良さを鑑みれば、裕次郎はむしろ納得がいった。
鏡を見ながら頬についていた粥の粒を拭って落とす。
「これは……クローンか?」
人間のクローンなど聞いたこともないが、存在したとしてもオリジナルの記憶や怪我は受け継がれないはずだ。しかし、裕次郎のボキャブラリからは他に思い当たる単語がなかった。
「いんや、ホムンクルスじゃよ。似たようなモノだがのう。それに貴様の魂を入れて完成。こんな高度な魔術を使える者はそうはおらんぞ」
ヒッヒッヒ、と笑いながらリンデルが答える。
ホムンクルスといえば人造生命を作成する錬金術の秘術ではなかったろうか。それが真実なら、なるほど。この少女は少なくとも不思議な技術を用いるのだ。
裕次郎は納得し、同時に自分の体が全く新しいものであることも受け止めた。
「と、いうことはつまり、俺は死んで生き返ったんで間違いないのか?」
「うむ。俗にいう転生を果たしたといえるのう」
リンデルは呵々と笑う。
裕次郎は自らの掌をじっと見つめた。
生まれた時から家のため、父のため、兄のために生涯を尽くせと言われ続けてきたのだ。どうやらその任期は終わったらしい。
深呼吸をして、鼻腔と腹が満ちるまで空気を吸った。人生をやり直すと思えば、空気も軽く感じる。
「俺をよみがえらせた目的は何だね?」
目の前の少女は恩返しを欠かさない殊勝なタマにはとても見えない。
案の定、リンデルは頷いてから口を開く。
「ワシの配下に取り立ててやろう。以後、忠誠を誓い、ありがたく仕えよ」
「それは、いい。よし、リンデル様。お仕えしましょう」
新たな主人に向かい、裕次郎は頭を下げた。
従僕として生まれ、死ぬ間際まで従僕だったのだ。新たな主人を戴くのに抵抗はない。しかし、当のリンデルは顔をしかめて首を振った。
「従うのは当然としてもその改まった口調はやめい。貴様は知らず、ワシの命という世界の真芯に等しい宝玉を救うたのだ。ワシも貴様の生命を取り返したが、そんなものはワシの命に比較すればチリに等しい。その功績に報いてやるためにはワシ自らが低い位置まで下がってやらねばなるまい。例外的、特別にもっと親し気に口を利くことを許す」
口ではそう言いつつ、本心では嫌でたまらないのだろう。傲慢な少女はニコリともせず、そう言うのだった。
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