第2話 ハロー・ハロー
裕次郎は目を見開いた。
薄暗く脂が飴のようにへばりついた木造の古い小屋。そう形容しておおよそ間違いのない場所に裕次郎は寝ていた。
布団やマットレスの類はなく、ただ大きな板の上に体を横たえている。
上体をゆっくりと起こすと、先ほどまでのジャージは脱がされており代わりに褌だけが身に纏わされていた。
しかし、これは俺の体か?
老齢ゆえの皮膚のたるみも、シミもない。それにかつて幾つも刻まれたはずの傷痕さえ消失していた。
裕次郎は顔に手をあて、ギョッとして離す。
顔がツルりとしている。シワもヒゲも、イボもない。
しばし考えて裕次郎は板から降りた。
板は机の天板だったらしく一メートルほどの高さの足が生えており、その下にこれもまた古びた木質の床がある。床材というよりも板材を並べただけの簡素なつくりである。
ギイ、と軋む音を聞きながら裕次郎は周囲を見回す。
ドライフラワー教室?
あるいはその控室だ。裕次郎はそんなことを思った。
さきほど寝かされていた机以外にも大小いくつかの木製机が据えてあり、その上には干からびた花を束ねたものがところ狭しと置いてあるし、その他にも紐でくくられた生花が天井からぶら提げられている。
しかし、この部屋が一般的なドライフラワー教室などではないことを、裕次郎は当然理解していた。
妙な体の感覚が目を細めさせるが、不快ではない。
実の息子に切り裂かれた首の傷が跡もなく消え去っている。
尋常の状況ではない。
視線を走らせて武器になりそうな物を探したが、花の他には古臭い鉄のハサミが一つと、藁紐くらいしかない。
部屋の隅には水瓶があったものの水が満たされていて、中身を捨てないと持ち上げられそうにない。それとも椅子の足を折ってこん棒にするか。
武器として一番有効そうなのは褌を水に浸して用いることだが、代わりに股間を隠す物が花しかないというのはいただけない。
部屋の主が敵対的か不明の状況で、物を壊したり水を捨てたりするのは避けたいし、局部をさらすのも考え物である。
と、扉が開いて花束が入って来た。
いや、花を手一杯に抱えた少女である。
少女は花の隙間から裕次郎を見ると、花を横手の机に置いた。
可愛らしい、十四、五歳の少女が顔を表す。
どちらかの親が北欧系なのだろうか。全体的に色素が薄く、白い。薄い肌はその下の血管の赤みを浮き上がらせている。
「おう、目が覚めたか。どこぞ、不調でもあれば言えよ。まあ、ワシのやることじゃから完璧に決まっておるがの!」
言って少女はふんぞり返った。
その身長は裕次郎より頭一つ半ほど低いだろうか。
バンダナ、というよりも手拭いというべき布を頭に巻いていて、服装もナチュラル素材風アーリーアメリカンのワンピースである。
全体的には泥や、草花の切れ端が付着して汚れていた。
「いや、体調は……すこぶるいい。ここ十年でこんなに好調の日はなかったよ」
裕次郎は全身を確認しながら答える。
いつの間にか体に降り積もっていた関節の痛みや鉛の様な重さ、倦怠感、それに片頭痛や視界の曇りまでもがスッキリと取れている。
そうして、代わりにどこからか力が沸くように体が生命力に満ちていた。
どこまでも走って行けそうだし、どんな動きでもできそうだ。
「ふむ、素直でよろしい。しかし、さてその恰好はいただけん。こっちへ来い」
少女は顎をクイと動かして、同行を促した。
否も応もない。裕次郎も無言でうなずく。
さて、ここはどこだ。
少女の風体と、古い納屋のような建物。
農村カルトか?
そういった場所は世界中にあり、何度か潜入したことがあった。
教義によっては化学繊維製の服を禁止されている場所もある。
思想の是非は知ったことではないが、いかに社会的良性腫瘍とはいえ、既存の社会と何かしらの形で揉めるものだ。
出家信者の奪回や、起こってしまった暴力沙汰の決着など。回って来た鉢を裕次郎が処理したのだが、何十年も前の話である。
その報復だとしても、死にかけた老人をわざわざ治療して、しかも拘束もしていないというのは不可解だ。
少女についていくと、窓のない暗い廊下を通り、台所らしき場所に出た。
こちらも随分と年季が入っている。
水道もガスもない。水瓶と竈、それに釜。薪は小割して積んであり、床はなく土がそのままの土間となっていた。
旧農家の納屋だって、今どきはもっと整備されている。
となれば戦後までに住民がいなくなった廃村にでも隠れ住んでいるのか。
少女は傍らの籠からズボンとシャツを取り出した。
いずれも木綿である。
「ほれ着ろ。動きづらいじゃろ」
「ありがとう」
裕次郎は礼を言って受け取り、それを着込んだ。
サイズはぴったりで、動きづらいということもない。
服を着ると幾分、人心地がつく。
裕次郎はどうしたものか、周囲を見回した。
いざとなればこの少女を人質にしつつ脱出を……。
「顔が怖い。もっと愛想よく笑わんかい」
少女が不満そうに言うので、裕次郎は要求通りの優しい笑みを浮かべた。
表情など如何様にでも操作できる。そんな訓練を積んでいた。
少女は満足げに頷き、椅子を指し示したので裕次郎は言われるままに腰を下ろした。
「見とったぞ。息子に殺されたじゃないか。いや、あの息子も天晴じゃ。なんせワシの待つ時間を短くしたのじゃからの。褒めてやりたいわ。まあ、欲を言えばもう十年、早う殺してくれれば、なおよかったがの」
傍らの木椀を手に取り、少女はヒヒヒと笑う。
傲慢な表情はいつだって危険なものだ。裕次郎はようやく、目の前の少女が警戒に値する存在と気づいて眉をひそめた。
しかし、少女は鼻歌など歌いながら鍋の蓋を開けると、何かを木椀に注ぎ裕次郎に手渡す。
「再会の祝杯じゃ。空けろ!」
ドロリとした液体は、粥の様であった。
木の匙が突っ込まれ、匂いが立ち上がる。
しかし、再会?。
裕次郎には目の前の強烈な少女のことがどうしても思い出せなかった。
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