ハスラー・ゴング

イワトオ

序章

第1話 喉を切られてサヨウナラ

 縁側の防弾ガラス越しに広い庭を眺め、鉦木裕次郎はため息を吐いた。

 七十歳を目前にして、いったい何をやっているのか。

 星も月も、そうして意匠を凝らされた庭も綺麗であるが、もっと気を使うべき場所がたくさんあったのだ。裕次郎は屋敷の主である兄に向け、内心で不満を並べる。

 生きるためにこんな巨大な屋敷が必要だったのか。いや、そもそも六膳会などという巨大組織を手中に収める必要などあったのか。

 一度だけ、裕次郎は兄に告げたことがある。兄が七十歳を迎えたときだ。

 あとは全てを若い連中に任せ、一緒に隠居しようと。そうして、気が向いた時に道場で子供たちの指導にあたればこれ以上幸せな老後もなかろう。

 しかし、兄は決して、権力への執着を捨てることはなかった。

 一種の認知症である。

 裕次郎はわかっていたが、わがままな兄に七十年近くも仕えてきたのだ。今更、生き方を変える力も、兄と決別するほどの意欲も、老体には残されていなかった。

 広く長い廊下の真ん中に胡坐をかいて座る。

 無垢の杉板を敷き詰めた縁側を誰も通すな。それが兄の命令であった。

 そうしてもう六時間もこの場に控えている。

 兄の長男が起こしたというクーデターにより、六膳会の主要な面々は一線から退いた。

 失踪して連絡が取れなくなった者も多いが、そういった連中は消されたのだろう。

 はて、甥の良晃は大それたことをする人間には見えなかったが、老化とともに自らの人を見る目も鈍ったものだと、裕次郎は自嘲気味に笑った。

 疑心暗鬼に陥った兄は屋敷の奥に立てこもり、そこに通じる廊下の死守を生まれてこの方、自らに逆らったこともない裕次郎に命じたのである。

 不意に気づく。流石に半日以上も飯を食っていないと腹が減ってきた。

 裕次郎が一つ奥の角を覗くと、そこにはトイレと洗面台がある。

 洗面台の前には、壁のコンセントから電気を取った電気ポットが置いてあり、洗面台の下部にはカップ麺が十個ほど入れてあった。

 いずれも、裕次郎が自ら持ち込んだ物品である。

 やや考えて裕次郎はカップうどんを手にとり、蓋を開けて湯を注いだ。

 懐から金属製の箸を取り出し、水道水で洗う。

 やがて、良晃派の連中が現れ、兄に引退を迫るのだろう。

 裕次郎はカチャカチャといわせながら、ぼんやり考える。

 兄が首を縦に振るとはまったく思えない。となると兄も終わりである。

 それに先立って、道を開けない老人が排除されるだけだ。

 やがて麺が煮えるという頃になって、廊下の先からドタバタと足音が響いた。

 裕次郎は間もなく食べごろになるカップ麺に視線を落とすと、肩を落としながら持ち場に戻った。広い廊下を一杯になってやって来たのは七、八名のいずれも大柄な連中だった。

 後ろに誰がいるかは見えないものの、前面に並んだ顔ぶれと変わるまい。

 襲撃部隊は裕次郎の愛弟子にして配下たちだった。

 鐘水流拳法道場でともに汗を流し、裕次郎が直接鍛え上げた精鋭で、六膳会を支える暗闇働きの名手たちでもある。


「先生、道を開けていただけますか?」


 先頭に立つ相川が油断なく告げた。

 裕次郎は、喉元まで出かかった「帰れ」という言葉を飲み込む。

 彼らにだって面子がある。帰れと言われて帰るわけにはいくまい。

 それならばせいぜい、勲章にでもしてもらおう。


「なめるな、鼻垂れ小僧ども」


 裕次郎が表情を歪めると襲撃者たちは油断なく身構えた。

 銃器の類は携行していないが、短刀の類は帯びている。そんな音がした。

 この時点では誰もが素手であり、裕次郎にとって圧倒的に有利だった。

 カップうどんが宙を舞い、襲撃者たちの中に飛び込む。

 湯を注いで既に数分が経っている。熱かろうが、大火傷をするほどではない。

 

「熱っ!」


 裕次郎は視線が泳いだ相川の隙に踏み込み、鉄箸を下あごに突き付けた。

 ゆっくり押すと、相川は反射的にのけ反って避けようとする。

 その胸を強く押せば、老齢の男でも逞しい青年を倒すことが出来る。

 ドン、と倒れた相川が邪魔で動けない襲撃者たちに、裕次郎は相川を踏み台にして飛び掛かった。

 園田の鼻を殴りつけ、広尾の鼓膜を叩き破る。浮ついた木下の股間を蹴り上げると、身を起そうとする相川の顔面を踏みつけた。

 一呼吸の間に四人に痛手を与える。昔なら、ここで四人を仕留めていた。

 たとえ撃ち漏らしたとしてもここからのやりようもあっただろうが、現在では体力が続かない。裕次郎は肩で息を吸い、呼吸を整えた。威力もキレもかつてとは比べものにならない。

 現役の連中は金的を蹴り上げた木下以外、戦闘の継続が可能なようだった。

 任務の不履行をあの世で兄に謝るにしてもこの辺で言い訳は立つだろう。

 裕次郎はそう思いながら両腕を上げて構えを取る。

 無抵抗の老人を殺させて若い連中に嫌な思いを残すのも忍びない。

 そうして適当な打撃でも繰り出そうかとした瞬間、塩屋が突進してきた。

 いや、驚いた顔をしているので後ろから突き飛ばされたのか。

 反応速度が下がっている裕次郎は、塩屋の胸から突き出した長い刃に目を釘付けにされた。

 次の瞬間、刃先は塩屋の胸を貫通して裕次郎の喉に刺さっていた。


「さようなら、父さん」


 朗らかで、冷たい声が耳朶を打ち裕次郎はやっと理解した。

 なるほど、道理で。裕次郎は落ち着かなかった事態の推移に得心が行った。

 聞き間違える筈もない。声の主は裕次郎の息子、鉦木忍のものだった。

 このクーデターの首謀者は良晃などではない。忍だったのだ。

 鉦木の惣領を支え、その下に忍ぶはずだった青年は、父に似ず十分な野心を抱えていたのだ。

 まったく気が付かなかった。

 裕次郎は年齢の離れたまだ二十代の息子に言葉を送ろうと思ったが、切り裂かれた喉ではそれも叶わなかった。

 忍はこのあと、自らの叔父を殺す。そうして表向き新首魁に据えた従弟もすぐに暗殺するだろう。残った鉦木家唯一の男子として鐘水流と、上部団体の六膳会は忍に掌握される。

 忍ならきっとうまくやる。

 むしろ、裕次郎は無意識のうちにそれを期待し、教育を施していた節もあったと、死の淵で思い知らされた。

 急速に流れ出ていく血液が視界を暗くし、五感を鈍くしていく。

 旧代の魔王に代わって魔道を歩こうという男に、応援の言葉は無用だろう。

 裕次郎は喘ぐように最期の息を吐きだした。


「やっと死んだか」


 その声は鼓膜を揺らしたものではなく、また、襲撃者の誰のものでもなかった。

 いかにも生意気そうな少女の声。

 それを不思議に思いながら、裕次郎の意識は途絶えたのだった。

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