第48話

「つ、疲れた……」


 俺は自宅のベッドに横になった。


 ここまで疲労を感じたのはいつ振りだろうか? すぐに思い浮かばないから多分ない。


「レイコ義母さんの会社の人たちは、仕事に取り組む姿勢がいつも真剣だから、俺も足を引っ張らないよう気をつけていたんだけど……俺、あんな感じでよかったのだろうか……」


 ふと、撮影時の状況を思い出す。


 ――――

 ――


 その社内は無駄口を叩く者は誰一人としておらず、カタカタとパソコンのキーボードを叩く音のみが響いていた。


 ピロン♪


「ん……、っ!?」


 突然、一人の女性が立ち上がる。

 この女性はスーツ着用が義務付けられているわけでもないのに必ずスーツを身につけて出社するような仕事一筋のキャリアウーマンだった(過去形)。もちろんそのスーツのブランドはグレイド。


「ふぇ!? ……ふ、双葉部長どうかされたのですか? 突然立ち上がるから私びっくりしましたよ。心臓に悪いですよ」


 近くにいた若い社員の一人が、そんな部長に顔を向けると少し不機嫌な様子で声をかける。


 周りの社員もそんな部長に迷惑そうな顔を向けたが、すぐに興味をなくし、自分のデスクに向かい合い仕事を始める。


「……来るんだ」


「……くる?」


 普段、冷静な姿以外見せたことのない部長が酷く動揺しているのを見て、その社員はただ事ではないことを悟る。


「も、もしかして藤堂グループの重役ですか? それとももっと上の……わ、私は接待なんてしたことないです」


 藤堂グループ本社の社長はレイコの父。レイコのことを溺愛して心配する父は重役を連れてひょっこりと顔を出すことがたまにある。


 社員を含めての飲み会に発展することはほとんどないのだが、過去に一度だけグレイドブランドが軌道に乗った時に祝賀会があった。


 そんなことを先輩社員から聞いていたので、この若い社員はそう思い至っていた。


「そうではない。ヤマトくんが、いやヤマトきゅんがくるのだ」


「へ? ヤマト、きゅん……?」


「そうだ。ヤマトきゅんが今から来るっ。社長からそう連絡があった」


 正確にはミキもなのだが、ヤマトのファン会員に加入するほどヤマト推しの双葉部長にその頭はない。どうでもいいが、双葉部長のパソコンの背景はヤマトの水着姿だ。


「へ、ええ! や、ヤマトくんでふか!?」


 若干かみ気味で驚く若い社員ももちろんヤマト推し。


「そうだ。そのヤマトきゅんが撮影に来るぞ」


 双葉部長は前回、ヤマトのことを遠巻きに見ていた一人だったが、その時のことを悔やんでもいた。なぜ「応援してます」とそう声をかけなかったのかと。


「え、ヤマトくんだって」


「ヤマトくんが来るの! ……う、うれしいぃ」


「わ、私お化粧直さなきゃ」


「私も」


 いつの間にか聞き耳を立てていた他の社員も喜び一斉に立ち上がる。


 静かだった社内は先ほどまでとは打って変わって騒然となっていた。


「社長から連絡来たぞ。ヤマトくんとミキちゃんが撮影で来るからスタジオ準備しといてくれだって」


 レイコの勘は鋭い。上手く連絡が伝わらないことを危惧したレイコは男性社員にも連絡を入れていた。


「はいよ」


 男性社員は数こそ少ないが至って冷静な判断ができる者が多かったが、


「皆お化粧を直したらスタジオの方に集合するように、社長にあの企画を提案してみようと思うが、皆の意見も聞きたい……って、ま、待て。私もお化粧を直す……」


 ヤマト推しの双葉部長や他の女性社員は少しどころか、かなり冷静さを欠いているようだった。


 ――――

 ――


「ヤマトくんもミキも走ったから髪が少し乱れてるッスね。私が後で……」


「マーキちゃん。それ私の仕事だよ」


 レイコ義母さんの会社に着いて、撮影スタジオ前まで来ていた俺たちだが、不意に俺たちの背後からそんな声が聞こえてきた。


「あら? 一木さんはたしか今日はお休みとってなかった?」


「社長、私はスタイリストです。撮影となればいつでもどんな時でも駆けつけますよ」


 そう言ってから笑みを浮かべる一木さん。さすがプロだ。仕事に向き合う姿勢が全然違う。俺が感心していると、


「先輩。たしかこの前、急遽入った撮影に、『二日酔いだから無理。マキちゃん代わりに行って』って言ってなかったッスか?」


「わ、私の記憶にはないようね……そ、そんなことよりヤマトくん、ミキちゃんいらっしゃい」


 マキさんの視線から逃げるように俺たちの方に顔を向けくる一木さん。


「サナさん……」


「一木さん。お久しぶりです」


 黒木先輩が挨拶した後に、俺も一木さんに挨拶するが、一木さんは俺から顔を背けて少し不満げな顔を見せる。


 ――?


「えっとヤマトくん。たしか私、前にサナって呼ぶように言わなかったかな」


 ――たしかにそんな事言われた。


 でも一度しか合っていない一木さんを名前で呼ぶのが「馴れ馴れしいぞ」と怒られそうで少し怖かった。


「すみません。そうでしたね、サナさん、今日はよろしくお願いします」


「うん。よろしく」


 満足そうなサナさんだけど、そんなサナさんにレイコ義母さんとマキさんは少し呆れたような顔を向けていたことは、言わないでいたほうが幸せだろう。


「じゃあ、一木さんがヤマトくんで、ミキちゃんはマキさんに任せるから、中にはいったらすぐに準備してくれる」


「はい」


 それから俺たちは撮影スタジオに入ったわけだが、人の数が多くてびっくりする。


「うわ〜」

「おかしいわね。ここまでの騒ぎになるなんて」


 そんなスタジオに俺もそうだが先輩も唖然とする。ただ俺たちが入った瞬間から、


「来たよ」

「ヤマトくんだ」

「あ、後ろちょっと押さないで」

「ヤマトくんカッコいいよ〜」

「うん。写真よりも何倍もカッコいい」

「ヤマトきゅん」


 色々な声が聞こえてくるが、どれも声が小さくて聞き取れない。


「ヤマトくん、こっちだよ」


「はいっ、うわ」


 俺はサナさんから背中を押される形で撮影の準備をするために黒木先輩とは別の衣装部屋に入った。


 それからが大変だった。


「ヤマトくん。始めはこれね」


「分かりました」


 着る衣装をわざわざ手渡してくれたのはいいんだけど、サナさんが一向に部屋から出て行く気配がないのでそのまま着替えてみたんだけど、


「ヤマトくん。ヤマトくんだわ。ヤマトくんの裸体が見える」


 そんなサナさんの声が背中越しに聞こえてきたので、少しだけ顔を向けてサナさんの方を見たんだが、サナさんが一人笑みを浮かべていた。

 でもその笑みは少し猟奇的に見える。


「ふふ、ふふふ……私の前で裸体を晒すなんて、誘ってるの、誘っているのね……いいわ。その誘い……私は乗ってあげ……」


 尻上がりに大きくなる彼女の呟き声の内容にぎょっとする。しかも彼女の目の焦点は合っていない。


「ふふ、ふふふ……」


 そんな彼女が、自分の着ている服に手をかけようとしている。俺は慌てて声をかけた。


「サナさん! サナさん大丈夫ですか」


「ふふ……ふ? っ!? ご、ごめんなさい。私何か変なこと、言ってた?」


「いえ。特には……」


 そう答えるのが一番無難だと思ったからなのだが、これを衣装を変える度にやられた。


 その中でも一番堪えたのが、


「……こんな感じの企画なんだけど。ヤマトくんミキちゃん協力してくれる?」


 撮影が終わり一息ついていると、社員さんの企画で面白そうなのがあったからとレイコ義母さんから打診があった。


「俺たちの限定モデル、ですか」


「そうよ」


 その企画第一弾というのが、俺、柊大和、限定モデルのグレイドスーツの販売。

 もちろん先輩も同じような限定モデルのスーツを販売する。


「俺で良ければ、いいですけど……」


「私も、ですね」


 俺からしたらそんなの売れるのかと心配になるが、社員さん、特に双葉部長さんが強く推してくれたので、俺もそれに応えたいと思ってしまった。


「ありがとう。それじゃまずはヤマトくんとミキちゃんは、身体の寸法を測らないとね」


 今までは既製品の中から体格に合うサイズの服を選んで着ていたが、今回の企画では俺たちの限定モデルを販売するのでどうしても必要になるのだとレイコ義母さんに言われた。


「分かりました」


 何も考えず俺はそう答えたが、それがマズかった。


「ヤマトきゅ……ヤマトくん、下着一枚になってください」


「……はい。? 肉体美? なんでもない、そうですか」


「双葉部長、鼻押さえてますけど、大丈夫ですか? 少しぶつけただけで大丈夫、そうですか」


「双葉部長、ちょっと近いかなぁって俺思うんですけど、え? 測るために必要なこと? そうですか」


「え、太ももやふくらはぎも測るんですか? 必要ですか。分かりました」


「そこさっき測りませんでした? 誤差があるといけないからその確認? なるほど」


「そこは……必要あるんですか? あるんですね、分かりました」


 ――――

 ――


 かなり濃い時間だった。


「はぁ、疲れたけど、俺の限定モデルだって。まだ信じられないけど貴重な体験だった。売れるといいけど」


 俺は夕食ができるまでしばらくベッドで横になっていた。


 双葉部長のこの企画は大成功を収め、第二弾、第三弾と続くことになるのだが、この時の俺はまだ知る由もなかった。

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