三題噺・七

「海」 「貧乏」 「揺籠」


『揺籠から墓場まで』。

 第二次世界大戦後のイギリスにおける、福祉を充実させようというスローガンである。それが上手くいったかどうかは、今は関係ない。この言葉は、私にとって、心の中に……喉に引っかかるような一文だった。

 私の家は貧乏で、子供の頃は借金苦の両親に無理心中を謀られた。胸に傷と心に傷を負いながら、なんとかそこから生き抜いた私は、社会へと飛び出す。

 就職難で何度も面接に落ちてもなお、立ち上がり、幾度も書類を送り、面接を受けてきた。ようやく受かった会社で、心と胸の傷を隠しながら生きてきた。

 好きだと思える人に出会い、私にも幸せが訪れる。そう思っていた。初めて、彼に抱かれる日、私は戸惑いながら、胸の傷を見せる。

「どうしたの?」

 問われ、信じ切っていた彼に過去を曝け出すと、静まり返り、その一夜は幸せを1ミリも得られず、それどころか、彼に別れを切り出されてしまった。

「そんな重たい過去を持つ女を俺の人生に背負い込めるほどの器量はない」

 そうですか、そうですか。知ってましたよ、現実なんてそんなものだと。

 私は揺籠から墓場まで、両親に縛られて生きていくのか。苦しいことを当たり前のように思っていたけれど、苦しい人生を送っていない人間は世の中にたくさんいるのだ。

 幸せを謳歌している人間は世の中にたくさんいるのだ。その事への、怨念というような、どす黒い感情の名前は、なんと言えば良いだろうか。

「私も人並みに生きれたらよかったな」

 そう言って、広い海を見渡す。

 このまま、海の藻屑になれたら、なんて。そう思いながら、あの日、無理心中から逃げ、近所のおじさんに頼ったことを思い出す。

「君は『生きたい』、そう願ったから生きている」

 そう言っていた。

「これからも、生きていたいと願いながら、生にしがみつきなさい。そうすれば、いつかきっと良いことがある」

 彼の言っていた言葉を復唱した。本当だろうか? 生きていて、今まで幸せに思うことはなかった。初めて幸せを掴もうとした時、信じようとした彼に、拒否されてしまった私はもう生きる希望が持てない。

「香里」

 その時、後ろから男性の声がした。振り返ると、私を裏切った彼がいた。

「あの時はごめんな。俺が、……弱いばっかりに」

 あなたが弱いことは知っている。弱いからこそ、惹かれたのだ。私の痛みをわかってくれるのではないかと……。

「あれからずっとお前のことを考えていたよ。お前の気持ちを、お前の今まで生きてきた人生を。あんなことがあったから、きっと俺が好いているお前があるのだと」

 彼は海を見つめていた私を抱き寄せる。

「お前一人で重たい過去を背負っていたけれど、半分だけ、背負わせてくれないか」

 あぁ、神様。私はもう貧乏ではない。

 揺籠から墓場まで。

 私は生まれたその時から、きっとこの人に出会うために生きてきた。

 私はこの人と墓に入りたい。

「あなたのそういう、真面目で優しいところが好き」

 涙を頬に零しながら告げると、彼が抱きしめる腕がほんの少しだけ強くなる。

 きっとこの人となら、この先どんな人生に向かっても、生を全うできる。例えば、また借金苦に陥り、無理心中を行おうとしても。

 そう、きっと私は私の母に似ている。続いていくのだ、この人生は、親から子へと。

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午後の一休みに小噺を 北守 @midlus

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