第2話 残されたもの

 比較的涼しい夏の日、ケイはあの日の夢を見て起きた。風が額に浮かぶ汗を冷やす感覚に、寒気を覚える。

 部屋の隅にある時計は6時を指しているが、果たして今が午前の6時なのか、はたまた午後の6時なのか、まったく検討がつかなかった。


 ケイを引き取ると突然言いだした男の家に来て、1週間が経過した。男の名はバルタザールといい、叔父さんと一時期ともに仕事をしていたらしい。その名前とはっきりとした目鼻立ちが示すように出身は海外であるが、日本に来て長いそうだ。それを裏付けをするかのように、彼の話す日本語はとても流暢であった。バルタザールの家は東京の郊外も甚だしい山にぽつねんと建った一軒家で、辺りは木々に囲まれていた。バルタザール以外にこの家に住人はおらず、中年の家政婦が毎日家事をしに来ている。


 叔父さんは多くの謎を残していなくなってしまった。幼い頃から叔父さんが自身を縛り続けていた理由は、特殊なーーきっとあの夜の女に関わるーー事情に関連しているんだろうとケイは考えていた。しかし、なぜ他人である叔父さんがそこまでしてくれたんだろうか? 普通を求める叔父さんが最後に残した、どうにも普通じゃない謎はケイの頭を悩ませるばかりであった。そして、そんなことを考えるたびに悲しみや寂寥感、何もできなかった自責の念が心の底から湧き出て来て、眠る他にそれらから逃れる術はなかった。

 叔父さんがいなくなって、まずケイは時間の感覚を失ってしまった。そしてやる気も失せ、空腹も感じなくなった。この家に来ても、定期的な食事を与えられれば食べるようになっただけで、他の時間は何もない自室にずっと引きこもっていた。


 ヒグラシの鳴き声で夕方の6時だと判明した頃に、障子の向こうから声が聞こえた。


 「ケイくん、バルタザールさんが呼んでらっしゃいますよ」


 声の主は家政婦の田口さんであった。


 「はい」


 そう返事をすると、ケイは障子を開いて廊下に出た。そして、田口さんに連れられてバルタザールがいる居間へと向かった。建物は昔ながらの日本家屋で、廊下を進むたびに床が軋む。


 居間に入ると、重厚な一枚板の卓の奥にバルタザールが座っていた。きちんとスーツを着こなした外国人の男と、広々とした和室はどちらも見劣りしないものだが、不似合いのように思える。


 「遠慮せずに、座りたまえ」

 「はい」


 この家に来てから数週間が経つが、バルタザールと喋るのは二度目であった。バルタザールは基本的に仕事でどこかに行っており、家にはいないのだ。


 「晩御飯は食べれるかい?」

 「はい」

 「じゃあ少し早いが、晩御飯にしようか」


 しばらくすると家政婦の田口さんが居間にやって来て、荘厳な雰囲気を放つ一枚板の卓に食事が並んだ。

 二人は向かい合って座っていたが、ケイは気まずさからバルタザールの背後にある掛け軸を見つめていた。


 「もう慣れたかい?」


 食事中、バルタザールはそう質問した。


 「……はい」


 家が変わったどころか、叔父さんがいなくなったことにすら慣れていないが、ケイはそう返答した。


 「君にこんなものが届いているんだがね」


 そう言うと、バルタザールは懐から茶封筒を取り出した。そして、それをケイに手渡す。

 「鯨井ケイ様」と宛名に書かれたその封筒には、差出人として「日本魔術師協会公認魔術師養成所」と胡散臭い名称が書かれている。


 ふざけている。バルタザールは、こんなもので俺が元気になるとでも思っているんだろうか? 

 そう思い、ケイは少し機嫌が悪くなった。


 糊付けされた箇所を適当に剥がそうとするケイを、バルタザールは止めた。


 「まだ開けないでくれ。真剣な話があるんだ」


 真剣な言葉とは裏腹に、バルタザールはいつものビジネススマイルを浮かべている。


 「なんでですか?」ケイは嘲るように笑った。「こんなふざけた封筒、別に開けてもいいじゃないですか」

 「ふざけていない。いたって真面目だよ」

 「『魔術師養成所』が?」

 「ああ、真面目だ」バルタザールは深呼吸とため息が混じったような息を、長く吐き出した。「叔父さんから何も教わっていないか?」


 ふざけ倒した話題に叔父さんの名前を出されたことが、ケイの気に障った。


 「もちろん」ケイはバルタザールに言った。「叔父さんは普通の人だったんで」

 「何を言ってるんだ? あの日見たことはもう忘れたか?」

 「あれが……その『魔術』なんですか?」

 「ああ、たしかに『魔術』と呼ぶと安っぽい気がするが、その名で定着してしまったのだから、どうしようもないんだ」

 「じゃあ、あなたも?」

 「そうだ。魔術師だ」


 バルタザールの真剣な表情に、ケイは呆れたと言わんばかりの笑みを浮かべた。


 「俺もここに入ったら、魔術師に?」

 「ああ。まあ君のやる気次第だがな」

 「叔父さんも魔術師だったんですか?」

 「もちろん」

 「なら、叔父さんは魔術師として俺を守ってたんですか?」

 バルタザールは少し考えた。

 「そこは不確かだが、きっとそうだな」

 「いい加減にしてくださいよ」ケイの口角は下がり、その目はバルタザールを睨みつけた。「現実味がなさ過ぎる」


 和室は静まり返り、夏の虫の声だけが聞こえる。ケイはバルタザールから目を逸らした。そんな沈黙を破ったのは、バルタザールの咳払いであった。


 「現実味か」バルタザールは例の封筒を懐に戻した。「『普通』という理想にすがって、現実に目を向けることを放棄しているのはどっちだろうか?」


 何か言い返さなければ。そんな思いがケイを急かす。


 「でもそんな冗談みたいなーー」

 「叔父さんの人生を冗談と捉えるのも、まあ結構だ」バルタザールは言った。「これまで積み重ねてきた常識を守るのか、真実を知るために固定観念を破壊するか、すべて君次第だ。君自身の人生だから、君自身で選択しなさい。もし覚悟ができたなら、夏休み中に伝えてくれ」


 バルタザールは再び平然と箸を進めた。一方で、ケイは何にもぶつけようのない悔しさを感じ、その手の中にある箸を強く握り締めた。


 本当は、叔父さんの秘密に超自然的な「何か」が関わっていることを、ケイは察していた。そうでなければ、あの夏祭りの夜に見た刀も、叔父さんから発された謎の光も、姿を消したあの女のことも説明がつかないからだ。それでも「魔術師」なんて突拍子のない存在と、この間まで一緒にいた叔父さんの姿を、重ね合わせることができなかったのだ。


 食事を終えて部屋に戻っても、ケイの眉間に寄せられたシワは直らなかった。もし魔術師というものが存在したとしても、突然与えられた選択肢をどうすればいいのか分からなかったのだ。正直に言えば、叔父さんが一体何者であり、何のために自身を育てたのかが知りたかった。しかし、叔父さんがこれまで自身の中に積み重ねてきた「普通」を覆してしまうことも、叔父さんが隠していたものをその死後に掘り返すのも、叔父さんへの裏切りであるようにも感じられたのだ。


 ーー叔父さんだったら、どうするように言うんだろう?


 そんな終わりの見えない葛藤に反して、夏休みの終わりは刻一刻と近づいていた。


 ***

 

 「派手にやられたな」


 小学校4年生の時、ケイは上級生と喧嘩して顔を怪我した。そして片方のまぶたが腫れ上がり、唇を切って口から血を流したのだ。


 「別に」

 「なんで機嫌悪くしてんだよ」


 先生やクラスメイトは心配してくれたのに、叔父さんは笑っているだけなことがケイは気に食わなかった。


 「俺、間違ってないし」


 虐められてる同級生をかばって、ケイは喧嘩になったのだ。


 「分かってるよ」


 ケイはただ褒めて欲しかったのに、叔父さんは笑うばかりであった。


 「次は負けない。強くなるから」

 「じゃあ、また喧嘩するのか?」


 叔父さんはケイを見た。


 「また、何かされたらするよ」


 ケイの何気ない言葉に、叔父さんは笑うのをやめた。


 「それって、やり返すために強くなるってことか?」


 問われたことに、ケイは答えられなかった。


 「じゃあ、強くならなくていい。もしなるなら、人を守るために強くなれ」


 ***

 

 夏休み最終日の朝、夢と現実の境目をうつらうつらする中で、ケイはそんなことを思い出した。そして、あることに気づいて目を見開いた。


 叔父さんの「普通」を重視することも、叔父さんが隠そうとした秘密を知ることも大切だ。その上で、「叔父さんだったらなんて言う?」という疑問のもとに、ケイはずっと悩み続けていた。しかし、その疑問が根本的に間違っていたのだ。叔父さんが自身に教えてくれたのは、普通でいることだけじゃない。この14年間、叔父さんはさまざまなことを教えてくれたのだ。もう、叔父さんに頼るわけにはいかない。叔父さんがこれまで教えてくれたことを信じて、自分で全て選択しなければならないのだ。

 もし、あの時ーーあの夏祭りの日、人を守れる力が自分にあったら、何かが変わっていたかもしれない。今度同じことがあったら、その人を守りたいーー守らなければならない。もう、失いたくない。今になって、ケイは叔父さんがあの時言わんとしたことが近いできた気がした。そして今こそ、強くならなければいけないと考えた。


 ケイの頭は求めていた答えを見つけ出し、止まっていた時間が動き始めたようであった。ケイは勢いよく立ち上がり、バルタザールを探した。


 「起きたか」


 部屋から出ると、まるでケイが出てくるのを知っていたように、廊下にバルタザールが立っていた。


 「答えは出たかい?」


 ケイはバルタザールの目を見た。


 「俺は強くなりたい。だから、行かせてください。養成所へ」


 ケイの言葉を聞いて、バルタザールは笑みを浮かべた。

 それは未だに、夏の暑さが残る日のことであった。それでも、庭に飛ぶトンボが新たな季節の到来が近いことを、伝えに来ているようだった。


 ***

 

 秋が過ぎて、冬になった。そして、終わりの見えない冬も明けて、春が到来した。15歳の春、鯨井ケイは家を出て、養成所へと向かおうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る