第二幕
「雨ね」
ハンドルを握る斎木さんがぽつりと呟いた。それと同時にハチロクのフロントガラスにもぱらぱらと雨が降ってくる。次第にその雨音は強まり、車のボディを打ち付けるように降り出してきた。どうやら山の天気が変わりやすいのは本当のことらしい。
ハチロクの今の座席は斎木さんと僕が前部座席に座り、後部座席には柊花ちゃんをサンドイッチするように御神楽と那珂が座っている。どうやら彼女たちは馬が合ったようで僕の後方では楽しそうな雑談が繰り広げられていた。
「ねえ、東京とかってどんな感じなの? デズニーランドって行ったことある?」珍しい都会の人間に目を輝かせながら柊花ちゃんが訊ねる。
「うん、あるある。いやあ都会は楽しいよー。買い物する場所も一杯あるし、美味しいご飯のお店もあるんだよー」
「凄い! 凄い! ねえ、那珂ちゃんは普段どんなお店に行くの?」
「うーんそうだなー、やっぱり一番行くのは牛丼屋かな?」そんな訳ねえだろうか。
「あ、私知ってるよ!! 何か橙色の看板のお店だよね? 何回かテレビで見たことある!」その特徴だけだと店舗が絞れない気もするのだけれど。「ねえねえ、希林ちゃんは? 希林ちゃんはどういうお店行くの?」
「私が行くのは最高にお洒落な所よ」右手で髪の毛を掻き上げながら御神楽が答える。「し〇むらって知ってるかしら?」いや、お洒落の聖地のファッションセンターじゃねえか。
「ううん。知らない」
「そう・・・・・・、残念ね。もし、東京に来たときは案内してあげるわ」
「うんっ! あ、あれだよ! あれが私の家!」
不意に柊花ちゃんが前方を指さす。大きな鉄門の先にはロココ様式を彷彿させるような大きな白い洋館が建っていた。こんな田舎に洋風の建物が建てられていることに僕は少しだけ違和感を抱いた。だが、それ以上に、その豪奢さに言葉を奪われていたのだ。
斎木さんは柊花ちゃんが促すとおりの場所に車を止める。神直毘家の駐車場なのだろうか、外車が数台並んでいる。純国産車のハチロクは少しだけ肩身が狭そうに見えた。
傘を持っていなかった僕らは小走りで神直毘家の屋敷の方へと向かう。一瞬遠くで閃光が走ったと思いきや轟くような雷の音が聞こえた。どうやらかなりの本降りらしい。この雨だと柊花ちゃんを送っていったのは賢明だったかもしれない。
「ただいまー」
柊花ちゃんが玄関を開ける。金細工であしらわれた玄関扉が開かれるとからりんと小気味よい音を立てた。玄関正面には大きなガラスの電灯が吊され、地面はワインレッドの絨毯で敷き詰められている。どうやら屋敷の奥まで真っ直ぐに続いているようだ。その壮麗さに僕は思わず息を呑んだ。
しばらくして、その声に反応したように家の中からぱたぱたと誰かが駆け寄ってくる音が聞こえる。
「ああ、柊花お嬢様」エプロンドレスに身を包んだ三十歳ぐらいの女性が出迎える。「帰りが遅いので心配しましたよ?」
女性はそう言いながら柊花ちゃんを出迎える。それと同時に彼女の後ろに居る僕らに気付いた。この村の人間でないことは見るからに明らかで彼女は一瞬警戒の色を示す。
「ああ、このお姉ちゃんたちは私をここまで車で送ってくれたの。何かまた倒れちゃってたみたいで」咄嗟に柊花ちゃんが僕らを簡潔に紹介する。
「それは、それは・・・・・・そうでしたか。どうもお嬢様をありがとうございます。私はこの家で家政婦を任されています遊子園子と申します」
女性は僕らが不審な人物でないことが分かると、表情を和らげ、深くお辞儀をする。その一つ一つの作法はまるで巧緻に作られた機械のようだった。
「ねえ、園子? お姉ちゃんたちをもてなしてあげて。ここまで送ってくれたんだし」柊花ちゃんは提案する。
「ええ、勿論。どうぞ、皆様お上がりください」
そう言って園子さんと言う女性は僕らを奥の客間へと促した。僕らはあまりの豪奢さに気後れしながらも奥へと歩みを進めた。
園子さんに連れられた一室はどうやら客間のようだ。横長い円卓を囲むように花の模様が刻まれた多人掛けのソファが二対。それと一人掛けのソファが二対ある。上からは玉ガラスがふんだんに使用されたシャンデリアが吊されている。金と銀の対比は美しく筆舌に尽くせない。また壁に目をやると一枚の油絵が飾られている。どうやら山と街の風景画のようだが、抽象的に描かれているために、両者がまるで一体化しているように見える。
「セザンヌね」
「えっ?」斎木さんの呟きに僕が訊ねる。
「ポール・セザンヌ。フランスの画家、印象派の巨匠よ。サナギくんも『カード遊びをする人』って作品ぐらいは知ってるんじゃないかしら? 二人の男性が向かい合っている様が描かれたものなのだけれど」
確かに、その絵は西洋美術史の授業で取り扱ったかもしれない。
「この作品、確か名前は・・・・・・」隣に座る御神楽が顎に手を当てながら考え込む。
「これは『サント=ヴィクトワール山』よ」斎木さんが答える。「セザンヌは晩年を南フランスのプロヴァンスで過ごしてたの。その間に、この山を主題に何枚も作品を作ったのよ」
斎木さんはそう言うとセザンヌの油絵に目をやった。じっと彼女はその作品を見つめていた。おそらく斎木さんは美術に関する素養を持っているのだろう。対する僕は全くの無知であった為、この作品に対する良さはどうにも分からなかった。
「お待たせしました」
しばらくすると、園子さんが配膳用のワゴンを押しながらやって来た。三段になっているワゴンには陶磁のカップとソーサーのセットとパイ生地のビスケットとイチゴのジャムがあった。透明の紅茶のポットの口からは湯気が揺らめいており、渋い赤色をした紅茶は透き通るように鮮やかだった。
園子さんは慣れた手つきでカップに紅茶を注いでいく。僕らの面前には人数分のアフタヌーンティーが用意された。
「どうぞ、召し上がってください」園子さんはニコリと微笑む。
「園子の入れる紅茶は凄く美味しいんだよ」ソファに座りながら足をぶらぶらとさせる柊花ちゃんがそう言った。
促される通りに紅茶に口を付けた。芳醇な香りが鼻腔を通り抜けていくのを感じる。
「うわ、おいしっ!!」思わず那珂が感嘆の声を上げる。「私、こんな美味しい紅茶飲んだことないよ」
「ほんとね」
御神楽も同調する。言葉は少なかったものの、彼女の表情がそれ以上のことを如実に示していた。
確かに、今まで飲んだ紅茶の中で群を抜いて美味しい。舌触りが良いというか、澄んだ味わいだ。甘さを控えたビスケットに酸味の利いたジャム。紅茶との相性は抜群だった。
「奥様がイギリスから直輸入なさっているのです」園子さんが答えた。「先程、服を着替えてからこちらに顔を見せると仰っておりました」
ふむ。何だか本当にイギリスの貴婦人のようだ。
「まるでエイジ・オブ・イノセンスの世界ね」
「それはアメリカの話でしょ」
「そうだったかしら」僕の耳打ちに斎木さんがくすりと笑う。「流石、映画オタクね」
そう言うと斎木さんは紅茶の入ったカップを傾ける。この空間に居ても堂々とした雰囲気だ。もしかすると、斎木さんは生まれの良い人なのかもしれない。
「あら、お客様?」
そんな雑談を交わしながら、高貴な軽食に舌鼓を打っていると不意に女性の声が聞こえた。その方向を見ると白い長袖のブラウスと丈の長いブラウンのスカートに身を包んだ女性が居た。スカートはどうやらサスペンダーのようになっていて両肩の辺りに結び目がこしらえられている。女性の胸元には大きなリボンが付けられていて、その色合いからチョコレートを彷彿させる。
「あ、凰花お姉ちゃん」
柊花ちゃんが壁際に立っていた彼女にそう声をかける。どうやら、彼女は柊花ちゃんの姉のようだ。よく見てみると目鼻立ちに似た部分がある。特に、瞳は柊花ちゃんと同様ぱっちりとしていて、見目麗しさを際立たせていた。
「柊花のお友達なのかしら?」
凰花さんは頬に手をやりながら小さく首を傾げる。上品でありながらも少し子悪魔的だ。
「うん、このお姉ちゃんたちに送ってもらったんだ」屈託のない笑顔を見せながら柊花ちゃんは答えた。
「そう、それは良かったわね」凰花さんは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
それから凰花さんは僕らに軽く会釈した。絹のようにさらりとした黒髪が揺れる。
「私は柊花の姉の凰花と言います。どうぞ、よろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそ」
僕は思わず食い気味に挨拶をしてしまった。というのも、凰花さんはこんな片田舎に住むには勿体ないぐらいの美人なのだ。女優をしていると言われても簡単に信じてしまうだろう。彼女の黒い瞳を見続けているとふと自分が吸い込まれてしまうのではないか、そんな恐れを抱くほどだった。
どうやら、他の二人も同様の感想のようで、凰花さんの美しさに見とれてしまっている。年の程は僕らと同い年ぐらいのようだが、成熟した女性らしい身体つきと身のこなしは同年代に見られないものだった。
「凰花も此処に居たのね?」
廊下から足音が聞こえてきたと思いきや、もう一人女性が客間へとやって来た。洋風の家には不釣り合いの着物を召している。年齢は三十代ぐらいだろうか。
「お母様」と凰花さんが言った。「ええ、楽しそうな声が聞こえたので」
「良いのよ。それにみんなで集まった方がきっと楽しいわ」女性はそう言ってから僕らの方を見た。「神直毘燦です。何でも倒れていた柊花を助けてくれたとか・・・・・・、どうもありがとうございます」
燦さんはそう言うと空いている一人掛けのソファに腰をかけた。凰花さんは柊花ちゃんの隣に陣取る。
僕らは凰花さんと燦さんに対して、改めて自己紹介をした。僕らが大学の研究旅行で浮鞭村にやって来ている、そしてその時に柊花ちゃんと出会ったという話を彼女たちは相槌を打ちながら聞いていた。
「ところで」燦さんは突然、話を切り出した。「斎木さん・・・・・・って言ったかしら?」
「はあ。そうですが」
「違ってたら申し訳ないのだけれど、もしかして、貴方、親戚に作家業を営んでいる方でもいらっしゃる?」
「ええ。一応居ますが」燦さんの問いかけに斎木さんは短く答える。
「それって、もしかして、斎木朗司先生?」
「ああ、はい、その通りです。私の父親ですよ」
斎木さんの返答はあくまで素っ気ないものだった。対照的に燦さんは目を輝かせながら彼女の方を見る。
「まあ! やっぱり! ええ、名前を聞いたときにもしかして・・・・・・って思ったんですのよ。斎木先生のお写真とそっくりなものですから。もう、こんな偶然ってあるのかしら。私ね、斎木先生のファンなの。中でも『冥王星の夏』は本当に大好きでね。特に、あのラストは心奪われましたわ」
燦さんは非常に饒舌だった。斎木さんのお父さんが作家というのは初耳だったが、こんなに楽しそうに作品について語るファンが居るくらいだ、中々の文豪なのだろう。
「・・・・・・そうでしたか。ええ、きっと奥さんのお話を聞いたら父も喜ぶと思います」
対する斎木さんは何故か他人行儀な態度だった。何か知らない言語を聞いているような様子だったし、受け答えもどことなく普段の感じとは異なる。
「っていけないわ。つい、こんな熱くなって。お客様の、それも先生の娘さんの前で少しはしたなかったわね。ええ、ごめんなさいね」
そう言って燦さんは口元を白のハンカチで覆って「ほほほ」と笑った。斎木さんも笑っては居たが、それは表面的な部分だけで、瞳の奥底は全てを跳ね返してしまうような黒さを保っていた。
その時、ぴかりと外が光った。数秒後に地響きのように激しい雷の音が木霊する。
思わず、僕は身体をびくりとさせた。それは僕以外もそうだったようで、御神楽と那珂は反射的に寄り添い合い、柊花ちゃんは甲高いソプラノボイスを短く洩して凰花さんに抱きついた。園子さんも手にしていた紅茶のパックを幾何学模様の絨毯の上に落とした。燦さんは雷から逃げるようにして身体を反らせた。唯一、斎木さんだけが堂々たる様子を維持していた。
雷が落ちると、部屋の明かりが急に消えてしまった。停電だろうか? まだ時刻は四時過ぎで比較的明るい時間帯であるが、濃い雲に覆われた空は光が差し込む隙間も与えていないようで、洋館は薄暗さに包まれた。
「私、見てきますね」
おそらくブレーカーを確認するのだろう、園子さんは客間から出て行った。
「嫌ね、全く」溜息交じりに燦さんが呟く。「折角、お客さんがいらっしゃるのにこんなことになってしまって」
「でも、お母様。こういうのって楽しくないかしら? 私は台風の日とかは少し興奮しちゃうわ」
意外なことに凰花さんはそんな子供っぽいことを口走った。どうやら雰囲気の割には随分と幼さと逞しさを兼ね備えているようだ。
「お姉ちゃん凄いね。私はやっぱり雷とかは怖いな」
「もう、柊花も十四歳なんだから少しは大人になりなさい」
そう言いながらも凰花さんは柊花ちゃんの頭を撫でた。柊花ちゃんがなんとなく年齢以上に幼く感じるのはこういう風に甘やかされて育てられた弊害なのかもしれない。とはいえ、末っ子とは否応にしてこういうなる運命にあることも否定できない。
「大丈夫だよ、柊花ちゃん。だって、私もやっぱり雷は怖いもん」那珂が恥ずかしそうに言った。
「そうね、誰だって苦手なものの一つや二つはあっても良いのよ。それに女の子は少しぐらい恐がりの方が男の人に気に入られやすいのだから」
隣に座る御神楽もそう言って柊花ちゃんを援護する。とはいえ、御神楽の発言は少し腹黒い。僕としてはあまり耳に入れたくなかった女の子事情だ。
しばらくして、電源が復旧したようで、シャンデリアが明るく点った。先程までの暗闇に目が慣れたせいで、煌びやかな頭上の光は少し眩しすぎる。とはいえ、このまま暗い中で過ごすのは流石に気も滅入りそうだったので、僕らはほっと胸を撫で下ろした。
「良かったわ。もし、電線が焼け切れていたらどうしようかと・・・・・・。田舎だとこういう時に何かと不便ですのよ」と燦さんは言った。
「そういえば」僕は燦さんの言葉で気になっていたことを一つ思い出した。「どうして、またこんなところに屋敷を構えたんですか? 見たところ洋風の邸宅で新しい家だと思うんですが・・・・・・」
僕がそう訊ねると燦さんは真顔になり、沈黙した。視線は僕の方をじっと見ていた。まるで品定めをするかのような目つきで。
だが、それも僕が瞬きをする間に元の表情に切り替わっていた。
「ええ・・・・・・、主人の意向でしてね・・・・・・、子供が幼い間は自然に囲まれた所で育てた方が良いと。それで、この長女の凰花が生まれたときにこちらに越してきて、家を建てたんです」
「はあ・・・・・・、成程」
そう納得したように答える。
それにしても、辺鄙な田舎にも程があるのではないだろうか。コンビニもスーパーマーケットもないどころか、病院だって遠い。確かに、初等教育に於いて自然と触れあう体験の重要性は教育学の側面からも度々言及されてきたものの、自然に囲まれれば囲まれるほど、回帰すれば回帰するほど、その効果が上がるなどという研究結果は依然として為されていない。正直、僕はそれについて色々と聞きたいことは山ほどあったのだが、聞くことは憚られた。どうしても、先程見た燦さんの表情が脳裏に焼き付いてしまっていたのだ。
僕が黙ったのを会話の終了と見たのか燦さんは新しく話題を切り出す。
「そういえば皆さん、研究旅行はどういったご予定ですの?」
「二泊三日で行う予定です」御神楽が答えた。
「と言っても後半は遊びに行く予定なんですけどねー」と那珂が付け加えた。
「あら、そうなのね。それは残念だわ。もっと居てくれたら楽しいのに。いいえ、ねえ。この辺はあまり人が居ないですし、それにお客さんが来てくれることなんて滅多にないもので」燦さんは言った。「あ、それで、皆さん何処にお泊まりになる予定なんですの?」
「蛭地山を下りた麓の保養所ですよ。蒼い看板が目印の」
お洒落さの欠片もない地味な場所だ。とはいえ、この近くで宿泊できる場所はなかったので選択肢は自ずとして限られていた。浮鞭村からは車だとしてもアクセスに一時間近くかかるので不便ではあるが、実地調査とは大抵こういうものなのだ。
「奥様っ」そんな話をしていると園子さんが戻ってきた。「少しお話が」
そう短く告げると園子さんは燦さんのすぐ側に立ち、耳打ちをした。燦さんはその間に「まあ」とか「それは大変」などと驚いた様子をしていた。どうやら何かあったようだ。もしかしたら先程の雷の影響もあるのかもしれない。
しばらくそうやって話をしていると、燦さんは僕らの方を見た。
「何でも、この先の森に雷が落ちたせいで道が木で塞がれてしまったみたいですの」そう燦さんは告げた。「そうなのよね? 園子?」
「はい、佐内・・・・・・、いえ、うちの料理長が麓に向かおうとしたら道が塞がれてしまっていたらしくて・・・・・・。それに雨のせいで土砂崩れも起きてしまって、どうにも一日や其処らで復旧の目処が立たない状況なんです」
「道が塞がれたって・・・・・・そんな」
少々これは問題だ。神直毘の家から麓へと下りる道は細い山の一本道しかない。そこが利用できないとなると僕らは完全に封じ込められたことになる。これでは保養所に向かうことも出来ない。
「どうにかならないんですかね?」斎木さんが訊ねる。
「ええ、そうみたいで。それにさっきの雷で電話の調子も悪くなってしまったみたいでどうにも繋がらないみたいなんです」
園子さんが静かに告げる。
「電話が繋がらない?」再度、確認するように斎木さんが訊ねた。
「はい。何故か、電話が動かないんです。雷のせいで電話線が切れてしまったのでしょうか?」
そんなことはあり得るのだろうか。幾ら山奥だとしても固定電話の電話線は強力だったはず。ただ、道路を塞いでいる木しかり、落木が電線を切ってしまった可能性は考えられなくもない。一応、僕は自分の携帯を開いてみた。依然としてそれは圏外のまま。そうなると、僕らは連絡の手段を一つも持たないことになる。
「・・・・・・本当に不運ね」斎木さんが何かを恨むように言った。「こうなるとやっぱり不便なのよ」
「おそらく明日の朝には復旧するとは思うんですが・・・・・・、申し訳ありません」
園子さんは自分の責任でも無いにも関わらず、深く頭を下げる。
「いやいや、そんな。しょ、しょうがないですよ。こういう天候のことはどうしようもありませんし・・・・・・」
「そうですよ・・・・・・、逆に帰る途中に危険な目に遭わなくて済んだんですし」
僕と那珂はそう言って園子さんをフォローする。とはいえ、現状は未だ変わらない。
「でも、このまま帰れないってのはマズいわね・・・・・・」
御神楽が呟いた。その通りだ。僕らはこの場に取り残されたことになる。電話も繋がらず、麓へと戻ることも出来ない。これでは、明日のフィールドワークを行うことも難しそうだ。そうなると、那珂の留年もぐっと現実的なものになる。
しばらく途方に暮れた沈黙が僕らを包み込んだが、柊花ちゃんの可愛らしい鶴の一声でそれは霧散した。
「なら、ここで泊まれば良いんじゃないの?」丸顔の大きな瞳がぱちりと瞬いた。「うちなら一杯お部屋はあるし、全然大丈夫だよ」
「そうね、お客様が泊まってくれるのは私も嬉しいわ」凰花さんも柊花ちゃんの提案に同調する。「どう、お母様?」
燦さんは口元に右手を当て考え込む。左手で何かを数え上げているようだったが、どうやら算段が付いたようで僕らの方へと顔を向けた。
「ええ。丁度、お部屋はご用意できますわ。一人一部屋。あまり、大きな所では無いのだけれど、よろしくて?」
僕らが断る理由など無かった。既に、行き場所を失っている僕らにとって神直毘家からの申し出は渡りに船と言ったところだった。
「すみません、それじゃお願いできますか?」
「ええ、勿論。料理長にも今日は人数分のお食事を用意するように伝えておきますわ。あ、そうそう、園子。お部屋のベッドの方はちゃんと用意されているのかしら?」燦さんが訊ねる。
「はい。人数分揃っていますから、後は私が準備しておきます」
「分かったわ。では宜しく」
燦さんがそう告げると、園子さんはくるりと踵を返して、廊下の方へと向かっていった。
燦さんもこの後、自室に戻るということで何処かへ行ってしまった。客間には僕らと柊花ちゃん、凰花さんの六人だけになった。
「でも、良かったー。私、流石に野宿は無理だもん」那珂が沈み込むようにしてソファに深く腰掛ける。
「九死に一生を得るって奴だな」
「そうね」と御神楽が短く答えた。
「でも、私もお姉ちゃんたちと一緒に泊まれるのは嬉しいよ」嬉嬉とした様子で柊花ちゃんが言った。
「確かに、こんなお家で一泊できるってのも良いかもしれないわね。あんなぼろっちい保養所じゃ夜中に鼠が大運動会し始めるかもしれないし」斎木さんが言った。
そしてポケットがさごそさせながら凰花さんの方を向きながら訊ねる。
「ところで、煙草って吸っても問題ないかしら?」斎木さんの右手には青色の百円ライターが握り締められている。「しばらく我慢していたせいでどうしてもね」
そうか、さっきから斎木さんの調子が何処かおかしかったのはニコチンが不足していたからか。そういえば、彼女が煙草を吸っている姿を見たのは社務所からこの屋敷に向かう前のことだ。ヘビースモーカーの彼女が我慢できるはずも無い。
「ええ、父も吸っていましたので、どうぞ此処でも構いませんよ」
「いいや。私は非喫煙者が居る場合は室内で煙草は吸わないって決めてるのよ。良いわ、少し外で一服してくるから」
斎木さんはそう言うと席を外した。
「潤さんは?」
凰花さんが僕にも訊ねる。僕は首を横に振りながら答えた。
「いいや、僕は吸わないんですよ。この中で喫煙者なのは斎木さんだけなんです」
「そうでしたか。てっきり私は男性はみな煙草を嗜むものなのだと・・・・・・」
そう言うと凰花さんはふふっと控えめに笑った。
「潤さんなら煙草を吸ってる姿も様になりそうですよ」
「そんな・・・・・・、ないですよ」
軽口、お世辞だということは分かってはいるものの、少し小っ恥ずかしい気持ちになる。まるで胸元を羽箒でくすぐられるような思い。
凰花さんは右手を顔にやりながら首を傾げる。
「そうですか? 陰鬱な雰囲気でお似合いだと思いますよ?」
隣に座る御神楽と那珂が吹き出すように笑った。どうやら僕は依然としてそういう立ち位置らしい。
依然として雨は止む気配はない。それどころか、徐々にその雨脚は激しくなっていく一方だ。雷は間髪空けずに鳴り響き、外の暗闇がそのたびに一瞬間光に包まれる。雷が苦手な柊花ちゃんも流石にこれだけ雷が鳴り続ける環境であると感覚が麻痺していったのか段々と平然として過ごすことが出来るようになっていた。この日を境に彼女の苦手が一つ克服されれば、良いかも知れない。とはいえ、それは彼女の魅力を一つ失う結果となるのかもしれないが。
机の上には空になったカップと赤いジャムで線を引いたようになっている皿が人数分ある。ビスケットは完食したため、用意されていたバスケットの中はその欠片が残るだけだ。
「ねえ、柊花ちゃん」那珂が口を開いた。「普段ってどういう風に過ごしているの?」
柊花ちゃんは腕を組みながらしばしうーんと唸る。その振る舞いは少し似合わなくて、僕は何だか微笑ましく思えた。
「んーっと、朝は七時に起きて、朝ご飯食べて、お勉強して、お昼ご飯食べて、お稽古をして、本を読んで、夜ご飯食べて、お風呂に入って、寝て・・・・・・、そんな感じかな?」
何というか貴族のような生活だ。「社交界に行く」という項目さえあれば完璧だっただろう。だが、何より特異的だったのは彼女の生活には「学校に行く」という至極基本的な項目が存在しなかったという点だった。
おそらく、那珂でさえその違和感には気付いただろう。その為、彼女はあえて、そのことについて言及することはなく、違う話題へと繋げた。
「お稽古かー、へー。なになに? 華道とか茶道?」
「ううん。ピアノだよ。お姉ちゃんが教えてくれるの。ねー?」そう言って凰花さんの方を見る。
「ええ。私が空いている時間にこの子の面倒を見てあげてるの。とはいっても本格的なことは流石に無理なのだけれどね」
そう言いながらも凰花さんはピアノの教え方は上手そうに見えた。特に、彼女の長く細い指先が白鍵と黒鍵の上を優雅に舞う様は是非とも目にしてみたいと思った。
「本は何を読むの?」僕は訊ねた。
「うーんとね、スティーブンソン」
「スティーブンソン?」
へえ。この歳にしては随分と殊勝だな。僕なんかは漫画とジュブナイル文学しか読んでなかったのに。
「お父様が読書好きだったの」そう柊花ちゃんは答えた。「『ジキル博士とハイド氏』も読んだよ。あとはコナン・ドイルかな。『パスカヴィル家の犬』が好きなの」
成程。確かに海外文学だが内容は初心者向けだ。
「ところでお姉ちゃんたち」柊花ちゃんが立ち上がる。「折角だし、何かして遊ぼうよ。私、大人数で遊ぶのやってみたかったんだ」
「良いわね、それ。丁度、退屈してたの」
斎木さんが随分と乗り気で答えた。どうやら他の二人も同じようだ。僕自身、特にこれといってすることも無かったので申し出を承諾する。
「とは言っても、何をやるんだ? 遊ぼうって言ったって外は雨降りだし」
雨はガラス窓を打ち付けるようにして降っている。まさに豪雨。風も強いし、外で遊ぶことはどうやったとしても不可能だろう。
「ふふふふ、甘いねー潤くん」那珂がクサい演技をしながら呟いた。「こんなこともあろうかと、私はね用意してたんですよ! これをね!」
彼女の右手にはトランプの束が握り締められていた。
「何で持ってるのよ・・・・・・」御神楽が訊ねる。
「いや、やっぱり旅行と言えばトランプは定番でしょ? これさえあればどうにでもなるって言うか、夜の楽しい時間を過ごせるというか。だからずっとポケットに忍び込ませていたのだ!」
胸を張るようにして那珂は答えた。一応、この旅行は研究目的なんだけどな。それにお前は遊んでいる場合ではない。
ただ、那珂のトランプは好評だったようで、柊花ちゃんは目を輝かせる。
「うん、良いね! じゃ、トランプやろうよ! みんなで!」
そう言って柊花ちゃんはぐるりと見回す。全員で六人。ゲームを行うには丁度良い人数だ。
「どうする? みんなやりたいゲームでもある?」
那珂が訊ねるが、特にみんなこれと言ってやりたいものがある訳では無い。そうなると、結果は決まっている。自ずと僕らはババ抜きをすることになった。トランプを用いた超スタンダードゲームだ。このババ抜きも特に何事も起こること無く終わった。一つ言うなれば僕がババ抜きに滅茶苦茶弱いこと、五回やって四回最下位だったということだ。
「何かそろそろ違うゲームもやりたいねー」
那珂が五回目のババ抜きが終わる頃にそう言った。確かにババ抜きには飽きてきた。特に僕なんかは全然面白くない。何故か、強い力に引きずられるようにジョーカーが手元にやってくるのだ。特殊な磁場関係が存在するのだろうか。
「そうだな。ちょっと運に左右されないゲームがやりたいな」自らの弱さをカード運のせいにしてそう答えた。「神経衰弱とか」
「ええー」那珂が顔を顰める。「地味だし、何か頭使うもん」
「良いじゃない。那珂ちゃんも偶には頭を使いなさい」
「うっ・・・・・・」
御神楽から厳しい一言が来ると、那珂も些か閉口せざるを得ないようだ。
他の面々も特に異論は無かったため、僕らは神経衰弱に移った。
ルールは数字だけ合えば良い普通の神経衰弱。僕らは三回ゲームを行ったが、全部柊花ちゃんが圧勝した。どうやら記憶力がずば抜けて良いようで、カードが幾らかめくられた後半になると、連続でペアを作っていくのだ。まさに草刈り場状態。結局、僕は一位を取ることは出来なかった。そして最下位は言うまでもなく那珂だった。
「凄いね! 柊花ちゃん! 滅茶苦茶記憶力良いじゃん!」
敗北しても、なお勝者を賞賛する那珂。その心意気だけは高く評価したいものだ。
とはいえ、確かに柊花ちゃんの記憶力は類い希なものだった。恐らく映像記憶能力に長けているタイプなのだろう。
「え・・・・・・、あ、うん・・・・・・」
対して柊花ちゃんの様子は少し変だった。目元はうつらうつらとしていて、疲れ目を直そうと目を擦る仕草が増えた。僕らへの受け答えはどことなく上の空だし、身体が前後に大きく揺れるようになった。もしかしたら、眠いのかもしれない。
その予想は正しかったようで、柊花ちゃんはそのままがくりと首を垂らして、目を瞑ってしまった。静かな吐息が聞こえる。
「あら、また」凰花さんが言った。「しょうがないわね」
「こう言うことって良くあるんですか?」
「ええ、この子ちょっと突然寝ちゃったり、気を失っちゃうことがあるの。こうなると、一時間くらいは起きなくてね・・・・・・」
そう言うと凰花さんは柊花ちゃんを抱き上げた。見た目の割にしっかりと力はあるようで、凰花さんは彼女を背におぶる。
「ちょっとこの子を寝かし付けてきますね」
凰花さんはそう言うとそのまま部屋を出て行ってしまった。
「遊び疲れちゃったのかな?」
「そうだろうね。それに、さっきも倒れたばかりだったし身体も本調子では無かったかも」
「それはそうと、あの記憶力は凄いわね」斎木さんが興奮した調子で言った。「あんなにカードの種類を暗記できるなんてただ者じゃ無いわ」
ババ抜きをやっている時よりも斎木さんは生き生きとしている。
「まさか、研究の対象にする気では・・・・・・」
「いやいや、そんなつもりは無いわ。ああいう子、うーん、たぶんサヴァン症候群の一種だとは思うのだけれど、それを取り扱うのは脳科学の分野が主だからね。勿論、発達心理学のユング心理学や神経心理学でもイディオ・サヴァンを取り扱うことはあるけれど」
それもそうか、斎木さんの専門は犯罪心理学なんだし。
「やっぱり柊花ちゃんはそういう子なんですかね? いや、別に他意は無いんですが」
「『他意は無いって言う』言い方をする人は大抵他意はあるものよ」御神楽がすかさず口を挟んだ。はい、その通りで。
「ええ、まあ、恐らく。でも、そう言い切ることは出来ないわよ。発達障害が必ずしも精神年齢の成長の鈍化を促す訳でもないの。結局の所、そういうのは環境の影響が強いのよ。でもね・・・・・・、その環境ってのも・・・・・・」
少し斎木さんは言い淀む。まあ、彼女が言いたいことは分からなくもない。先程の燦さんと柊花ちゃんの話を聞いてしまえば、そういったことは想像するに容易いものだ。
「とは言っても教育、子育てというものはその親の方針ってものがあるのよ。私たちが横やりを入れるのもお門違いなのだし。それに、別に私たちに関係は無いわ」
「まあ、その通りですね」
斎木さんの言うとおりなのだろう。僕らが何を言ったところでそれは本質的に間違っている。ならば、それには触れずに置くことが賢明であるし、波風を立てない方が良い。それに今の僕らは招かれた側であるのだから。
そんな雑談を交わしていると、園子さんがやって来た。一瞬、僕は先程の話を聞かれていたのではと青くなったが、園子さんからはそういった素振りは見当たらなかった。
「皆様、お部屋のご準備が出来ましたので。さあ、どうぞ。こちらへ」
園子さんはそう言うと廊下の方へと歩いて行った。どうやら、自分に付いて来いということらしい。僕らはその後を追った。
園子さんに連れられ洋館の離れへと向かう。どうやら神直毘家は大きな二つの建物から成っているらしい。その間には高校で言う渡り廊下のようなものが存在していた。勿論、ふきっさらしという訳ではなく、四方を壁とガラス窓の囲まれた長い筒状の廊下になっている。
園子さんの話によると、燦さんと園子さんや料理長の佐内さんは先程まで居た南側の建物で過ごし、柊花ちゃんと凰花さんはこちら側の建物に自分の部屋を持っているらしい。
「それでも随分部屋が余っちゃうんじゃないですか? 他にここで暮らしている方は?」
「私たちを含め、後は黒羽様と葛花様がいらっしゃいます」そう園子さんは言った。
「どういった方なんでしょう?」
「黒羽・・・・・・、黒羽裕様は旦那様が養子に設けた男性です。今はまだ、旦那様の言いつけのまま黒羽姓を名乗っております。歳は丁度皆様と同じ二十だったと覚えております」園子さんは続ける。「葛花様は神直毘家のご息女、三姉妹の次女に当たる方でございます」
「え、凰花さんの他にまだお姉ちゃんが居たの?」那珂が訊ねる。
「はい。凰花様、葛花様、柊花様はみな二歳ずつ歳は離れておりますが、皆様お顔立ちはそっくりでとても美しい方ですよ。ただ、葛花様はあまり部屋から出ることはありませんが」
「何か病気でも?」
「いえ。一人で過ごす方が好きな方なのです」
そう園子さんは短く答えた。
「こちらがお部屋です」三階へと登った所で園子さんが指し示す。「あまり大きな部屋ではありませんがご容赦ください」
ホテルのような四部屋が用意されていた。ベッド一つに窓際に置かれた机と椅子が一組ずつ。それでも一夜過ごすには充分なスペースだ。
「こんなに部屋があって何に使ってたの?」斎木さんが訊ねる。
「旦那様がご存命だった頃には度々お客様がお見えになっていましたので、お部屋を作ったのです。それに、山奥なので部屋を作る土地だけは充分にあったんですよ」
「・・・・・・成程ね」
「こちらはお部屋のカギです。一組しかありませんので無くさないようにしてくださいね」
そう言って園子さんは僕らに一つずつカギを渡した。
「あと、お泊まりの為のお荷物も今のうちに持ってくる方が良いかと。傘は玄関口に置いてありますので、どうぞお使いください」
園子さんはそう言うと、僕らにお辞儀をして何処かへ行った。
ここに長居するつもりでは無かったので、大きな鞄は全部ハチロクに置いたままだ。僕らはとりあえず来た道を戻り、荷物を取りに帰ることにした。
そのまま階段を下ろうとした所で、一人の若い男性と遭遇した。
身長はすらりとして百八十センチ近くある長身。その割に手足は細長く、余計な肉をそぎ落としたような身体つき。前髪は目にかかるぐらいの長さで凰花さんに似た黒い髪の毛。整った精悍な顔立ちであるが、目つきは何処か斜に構えた所があり、少しだけ陰鬱な雰囲気を感じる。と、僕が陰鬱だと言える立場では無いのだけれど。
男性は僕らが階段から下りてくるのに、気付いたようで一瞬こちらに目を向ける。
「ど、どうも・・・・・・」
自然と様子見のような挨拶が口から出た。
男性はそれに対して軽く会釈をすると、また猫背のまま、二階の奥の廊下へと歩いて行った。
「誰だろうね」
「さあ? 佐内さんって人か、黒羽くんって人じゃないの?」斎木さんが言った。
どうだろう。佐内さんはあっちの建物に居ることが多いと言っていたし、聞いていた年齢からすればきっとあの人が黒羽なのだろう。なんだか名前に合った人のようにも思える。
「何だかとっつきにくそうだね」那珂が言った。
「そうかしら、私は結構好みのタイプよ」意外にもそんな発言をしたのは御神楽だった。「少し、闇がある感じがして良いじゃない」
「へえー、きりりんってああいう感じの人が好きなんだ」
「きっと希林ちゃんはそのうち悪い男に捕まって痛い目を見るでしょうね」
那珂と斎木さんがそう言った。
僕も一人で御神楽がそういう人と付き合う様子を想像してみた。
・・・・・・うん。何というか、やっぱり良いように使われてそうな様しか思い浮かばない。
「・・・・・・何か失礼なこと考えている?」
気付いたら御神楽がじとりと僕を睨み付けるようにして見ていた。
僕は適当に首を振っておき、ハチロクの下へと向かった。
***
六畳ぐらいの部屋のベッドで横になっていると、不意にノックの音がした。僕が返事をすると、ゆっくりとドアが開けられる。
「あ、佐柳くん」御神楽だった。「園子さんが夕飯が出来たから集まるようにって・・・・・・」
「分かった、ありがとう」
僕は靴下を穿き(僕はベッドに横になるときは靴下を脱ぐのだ。どうしても、締め付けられる感覚が落ち着かない)、上着を羽織り、支度をした。
「場所は?」僕は歩きながら御神楽に訊ねる。
「大人数で囲めるダイニングテーブルのある部屋があるみたい。もう、佐衣子さんと那珂ちゃんは居るわ」
となると、僕らが最後なのか。もしかしたら、御神楽は全然やってこない僕にしびれを切らして、わざわざここまで呼びに来たのかもしれない。とはいえ、僕はそんな食事の話なんて全く聞いた覚えはないのだけれど。
そんな考えが顔に出ていたのか御神楽が答えた。
「さっき、凰花さんと私たちで話している時に何時から食事があるか教えてくれたのよ。佐柳くんのことはすっかり忘れてたわ、ごめんなさい」
ああ、僕がハブられていただけか。
白いテーブルクロスに覆われた長いテーブル。その上には客間よりもっと暖色の明かりが吊されている。テーブルの上には、高級フレンチのようにナイフとフォークが左右に並べられていて、その中心には白い布巾(前掛け?)があった。と言っても僕に高級フレンチに行った経験などない。
もうダイニングには殆どの人が集まっていた。コの字に座っており、その中央には燦さんが座っていた。上座には凰花さんが座り、その正面には斎木さんが座っていた。
まあ、これは分からなくもない。燦さんは斎木さんのお父さん、斎木朗司さんのファンらしいし色々と食事をしながら、先程の話の続きをしたいのだろう。
凰花さんの隣には柊花ちゃんが座っていた。どうやら、一眠りして落ち着いたらしい。そして、その正面には那珂が座っている。
そして柊花ちゃんの隣を一席空けて、先程の男性が座っていた。猫背気味のまま、テーブルの一点を凝視している。
「あら、皆さん集まりましたね。どうぞ、席についてください」
燦さんは僕らがやって来たのを見つけると、席へと促した。勿論、柊花ちゃんと男性の間の席に座る訳はないので、空いている那珂の隣の二席を御神楽と一緒に座った。つまり、僕が下座である。
燦さんは僕らが着席すると、隅に立っていた園子さんを呼びつける。
「葛花は何処に?」
「お呼びしたのですが、今は出たくないと・・・・・・」
「またそれですか」燦さんは小さく溜息を吐く。「折角のお客様なのだから、皆さんでお食事をしたかったのですがね・・・・・・、まあ、しょうがないでしょう」
園子お願い、と燦さんが最後に付け加えると、客間で登場した配膳用ワゴンが現われた。肉の焼けた香ばしい匂いがしてくる。思わず、お腹が鳴りそうだったが、こんな気品の高い場所で下品で低俗なマネは出来まいと僕は腹筋に力を入れ続けていた。
和牛のヒレ肉に刻んだタマネギが添えられたソテー、新鮮で青々しいサニーレタスとヤングコーンのサラダ、カボチャのポタージュスープ、それにベーコンエピのパン。園子さんともう一人、白いコックコートに身を包んだ男性(おそらく彼が佐内さんだろう)がそれらを並べていく。
燦さんによる簡単な挨拶が終わると、夕食が始められた。各々、会話と食事を楽しむ。
最初は全体を交えての会話が続いたものの、段々とその会話の輪は小さく、そして分裂していった。
燦さんは斎木さんと凰花さんと何やら絵画や小説の話をしているらしい。柊花ちゃんも那珂と御神楽で楽しそうに色々とガールズトークに花を咲かせていた。
かくいう僕は例の男性である黒羽と向かい合わせで食事中。勿論、那珂たちの会話に入っても構わなかったのだが、そうすると、柊花ちゃんと間の空いている彼が孤立することになる。いらぬ気遣いなのかもしれないが、下手なことをするよりは、現状を維持することを優先した。
ナイフを動かしては肉を切りさばいていく。切るたびに赤身からじゅわと肉汁が滲み出てくる。僕は手と口を動かしながら、時折、黒羽の方をちらりと覗き見ていた。
「・・・・・・何か」
そんな僕の行動に気付いたのか、不意に黒羽が口を開いた。低く冷たい声。だが、耳障りな声ではない。むしろ、声優のような良い声で、彼には似合っていた。
「い、いや」まさか彼の方から話しかけられるとは思ってもいなかったので僕は言い淀んでしまう。「・・・・・・料理美味しいですね」
「・・・・・・まあ」
黒羽は短くそう答える。
会話はそこで終了。
勿論、あんな世間話のような話題で話が繋がるとも思ってはいなかったが、何とも気まずい。僕自身、那珂のように社交的とは言えないので、会話の糸口を探すにも些か苦労が必要だ。
それに黒羽もとてもそういう人物には見えない。それどころか、彼が僕ら以外の神直毘の人たちと会話する姿すら僕はまだ目にしていなかった。隣の柊花ちゃんも特に黒羽と会話をしようとはしない。これは、僕らという目新しい存在に気を取られているという単純な理由からなのだろうか。
「・・・・・・なあ」
「えっ!?」
そんなことを考えているうちに、どうやら誰かに呼びかけられていたらしい。僕は左手に座る御神楽たちを見る。だが、彼女たちは会話に夢中で僕のことなどほったらかしの状態だ。
「さっきから呼んでるんだが」
意外なことに僕を呼んだのは黒羽だった。右手にナイフ、左手にフォークを握り締めたまま僕の方を向いている。
「ああ、ごめん。少し、考え事をしていて」
「いや、別に。特にどうってことはない」黒羽はぶっきらぼうに言った。ただ僕を拒絶しているという訳ではなさそうだった。
「それで何の話・・・・・・?」僕は再度訊ねる。
「ああ。いや、あんたたち、ここに何時まで居るつもり何だろうって思って・・・・・・」
これは・・・・・・、早く帰れってことなのだろうか。僕の返答次第ではナイフとフォークが飛んでくるのだろうか。
「いや・・・・・・、どうなんだろう。元々は二泊三日のつもりだったけど、道が復旧しないものにはどうにもならないというか」
僕がそう答えると黒羽は「・・・・・・そうか」と短く答えた。顔には少しだけ陰りが見えた。
それ以降、僕らの間で会話が交わされることは無かった。
食事を終えると、食後のコーヒーが出た。柊花ちゃんはカフェオレ。それも飲み終えてしまうと、夕食の時間は完全に終わった。
「それでは、皆さん。ゆっくりと夜をお過ごしくださいね」
燦さんはそう告げると、自室へと戻っていった。黒羽もいつの間にか何処かへ行ってしまった。
残された僕らはしばし歓談を楽しむも、話題に尽きると、別棟の部屋へと戻っていった。
そして、現在。僕は割り当てられた一室で東雲さんの所で行った調査のまとめをしていた。勿論、これは大学に戻ってからやれば良いことだ。だが、やはり一人になるとどうしても手持ち無沙汰になってしまう。隣の部屋に遊びに行けば良いのかもしれないが、異性の部屋に容易に訪れるほどの度量を僕は残念ながら持ち合わせていない。そうすると、否応なしに勉学に励まざるを得ないのだ。まあ、良い。学生の本分は勉強なのだ。
馬鹿に重たいノートパソコンを開いて、資料を纏めていく。特に苦という訳ではなかった。一日目だし、それにちゃんとした形にするのは提出前に終わらせれば良いのだ。
そうしているうちに僕は気になる内容を見つける。
「生贄・・・・・・・・・・・・?」
それは天羽・地尾伝説について。彼らに捧げられる供物についてだった。
【天羽が地尾へと姿を変え、この地を守った後、人々は地尾を恐れた。地尾は救いの神であった一方で、自分たちを食らう可能性のある化け物だった。それは表裏一体の存在だった。それ故、人々は地尾に生贄を捧げた。地尾が穏やかな守りびとへと変わる為に。人々が捧げた生贄を地尾が食らうと、地尾は再び天羽へと姿を変えた】
不思議な話だ。人を食らう神。
勿論、人身御供は珍しいことではない。古くは八岐大蛇への娘の生贄、水害を防ぐための堤防の人柱など数え上げたらきりのないことだろう。
ただ、『食らう』という表現は非常に奇妙に思える。勿論、アフリカの少数の部族では霊的な儀式の一環として人間を食う伝統もあるらしい。しかし、日本にカニバリズムの伝統など存在しただろうか。それも神が人間を食らう等という・・・・・・。
「さすれば神も化け物か・・・・・・」
興味深い伝説だ。もし、自分が神学を専攻にしていたのなら喜んで飛びついていただろう。
しかし、僕の専攻は民俗学だ。あくまで天羽・地尾伝説は趣味の一環で楽しんでいるに過ぎない。
僕はそんな思索を中断させると再び資料作成に移った。
一時間ぐらい経っただろうか。僕はふと何処からか聞こえてくるピアノの音色に気付いた。
柊花ちゃんか凰花さんだろうか。聞き覚えのあるメロディだが曲名が思い出せない。コマーシャルや映画の音楽に使われていた有名な曲だ。
気付いた時には僕は部屋を出ていた。廊下に立ち、音が聞こえてくる方向を探る。どうやら二階からのようだ。
どうして、僕は部屋を出てしまったのだろうか。音楽を聴くことは好きだが、別にクラシック音楽を嗜好している訳でもない、それどころか曲名すら分からない始末だ。それでも足は音の出処へと向かっていた。何故だろう。僕は誰がこのピアノを弾いているのかを知りたかったのかもしれない。優しくて、まるで包み込むような音色。ゆっくりと滑らかに音をつなぎ合わせる指先。それを間近で見たかったのだろう。
階段を下りると、音との距離は近くなった。廊下は三階と同じようになっていて真っ直ぐ続いている。僕はもっと近づこうと足を進めた。
廊下の奥の部屋が音の在処だった。部屋の扉は少し開いていて、そのせいで音が漏れていたのだ。薄暗い廊下に部屋の明かりが一筋糸を引いたように指していた。その隙間から僕は覗き見る。
大きなグランドピアノがあった。その奥には本棚が壁に沿うようにしてずらりと並んでいる。ただ弾いている人が誰かは分からない。それを知る為には些かドアの隙間が狭すぎるのだ。
もっと見てみたい。そんな好奇心に駆られた。
僕は大胆な行動を取っていた。ドアに顔を寄せながら、その隙間を広げた。
ただ、その行動はあまりにも軽率だった。
古いドアは金属の結束部分が錆びついていたせいで、少し動かしただけでぎぎっと音を立ててしまったのだ。
「・・・・・・誰?」
女性の声がした。と同時に先程まで流れていた音楽が中断した。僕は覗き見たという行動よりもあの美しい音色を止めてしまったということに後悔していた。
「誰も居ないの?」
再び女性の声。少し怯えたような声色だ。凰花さんでも柊花ちゃんでもない。これまで会った人とは違う声だ。
「えっと・・・・・・」
僕も恐る恐るドアを開いていく。覗いていたことを咎められるのではないだろうか。そんな考えが頭によぎる。
グランドピアノの前には一人の女性が座っていた。正しくは少女と呼ぶぐらいの年齢だろうか。見た感じ高校生ぐらいに見える。
肩まで伸びた髪の毛。陶器のように白い肌。ラベンダー色のハイネックヨークのワンピースから伸びる長い足は細く、力を入れれば折れてしまいそうだった。その足下は白いソックスで覆われ、ベージュのルームシューズを穿いている。それは丁度、グランドピアノのペダルの上にあった。
少女と目が合う。全く見知らぬ男性が突然部屋に訪れたため、その目には警戒心が満ちていた。
「・・・・・・貴方は誰?」
牽制するような問いかけをする。鍵盤の上を踊っていた細い十の指は今は彼女の膝の上に乗せられている。
「えっと、僕は佐柳、佐柳潤」不格好な自己紹介をする。「色々あって、ここで泊めさせてもらうことになって・・・・・・」
「ああ、園子が言ってた・・・・・・」どうやら伝達はされていたようで、彼女は少しだけ警戒心を解いた。「それで・・・・・・何の用?」
小さく首を傾げる。その行動は可愛らしく、少し柊花ちゃんに似ていた。
「えっと・・・・・・、ピアノの音が聞こえてきて、それで良い曲だったから誰が弾いてるんだろって」
「ピアノ分かるの?」少女が訊ねる。
「いや、全然」僕は首を振る。「ただ漠然といい音だなって。だから演奏者が誰なのか気になった」
「・・・・・・そう」
少女は短く答えた。そして指先を見つめる。細い指には爪がちょこんと付いていたが、それらは全て綺麗に短く切り揃えられていた。
「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」不意に少女が口を開いた。
「え、何?」僕は思わず聞き返した。
「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」今度はゆっくりとした口調で彼女が言った。「あの有名なバッハ。この曲の作曲者」
そう言うと彼女は鍵盤の上に手を置いた。再び、先程まで流れていたメロディが奏でられる。途中までその曲を弾くと、また彼女は演奏を中断した。
「『主よ、人の望みの喜びよ』って曲。キリスト教の賛美歌」彼女がそう教えてくれた。
「凄く良い曲だね。僕はあまり詳しい訳じゃないんだけど、聴いてると落ち着くというか・・・・・・。上手く言えないんだけど、透き通った湖の中にゆっくりと沈みこんでいく感じがする。海じゃなくて湖なんだ。水面には波紋一つない湖」
「中々文学的な表現だね」少女は言った。「私もこの曲は好き。世界の終わりの直前に流れているような気がするの」
世界の終わりの直前。
僕はその表現が凄くピンと来た。それはきっと僕が静かな湖に堕ちていくと言ったことと殆ど同義だった。その音楽は優しいのに、何処か独りであることを否応なしに実感させるような所があったのだ。
「君は――」
「葛花・・・・・・、神直毘葛花」
僕が訊ねるのと同時に葛花は名乗った。神直毘家の次女、神直毘葛花。部屋に引きこもりがちの葛花。何度も話には上がっていたが、本人を目の当たりにするのは初めてだった。
葛花はそう言うと再びピアノを弾き出した。ヨハン・ゼバスティアン・バッハによる『主よ、人の望みの喜びよ』。
彼女の指が白鍵と黒鍵の上で舞った。鍵盤が沈み込み、同時にハンマーが弦を叩き、音を奏でた。
美しくて、壮麗な音色。だけど、何処か寂しくて、僕にこの世の終わりを感じさせた。
これは弾き手の問題なのだろうか。
もしも、葛花じゃなくて凰花さんが弾いたらもっと違う雰囲気になるのだろうか。柊花ちゃんが弾いたら飛び跳ねるような明るい曲になるのだろうか。
僕には分からなかった。ただ、分かっていたことは僕は葛花の弾く『主よ、人の望みの喜びよ』が好きであって、他の人が弾いたそれではないということだった。
四分間の楽曲が終わる。彼女は再び膝の上に手を乗せると僕の方をじっと見つめた。
「貴方、何時まで此処にいるつもり?」
これは早く部屋に戻れということなのだろうか。何時まで、私の側に居るつもりなのだと。
そんな僕の表情を読み取ったのか、彼女は付け加える。
「何時まで、この屋敷にいるつもりなの?」
僕の目を葛花はじっと見る。まるで、目の奥の水晶体も網膜も全て覗き込むようにじっと見る。
「それは・・・・・・、分からない。早く戻らないといけないけれど、道は封鎖されてどうにもならないし・・・・・・」
「そう・・・・・・」
僕がそう言うと短くそう答えた。視線は既に彼女の膝の上にある指先に向けられていた。
「でも、早く帰った方が良いわ」彼女は続けた。「此処にいれば・・・・・・、悪いことになる」
「悪いこと?」
僕は訊ねた。しかし、彼女は顔を伏せたまま何も答えてはくれなかった。
感傷の鑑賞-斎木佐衣子と山村の首斬り- 真琴龍 @makoto_ryu_gam
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