第18話


「そう言う訳で、逆に柊専務の怒りをかってね。しかもその後、仲人である専務に例のお嬢さんから直接、君に会いたいと連絡が入って来た。仲立ちを頼みたいと本人からも両親からも言われてはね。その時は調査中としか言えなかったんだが。結局、小川のファインプレーと香川さんの一言で三谷は観念して全部白状した。お嬢さんと結婚して、同時に愛人として付き合いたいっていう本音も出た。だから弱みを握ってってことなんだろうけど。まぁ、筋からして警察には駆け込めないだろうし、最初から月島を排除することが目的だったろうから、話はこれ以上広がらないだろう。ただ、専務も社長もカンカンに怒っていたから、今後の出世はないだろうな」

 高杉は続ける。

「会社側は早期の幕引きを願っている。月島に関しては、業務中の出来事ではないし、仕事に支障をきたしたわけではないので大したことにはならない。ただ、社長を含め役員も人事部長も、暴力をふるったことに良い顔をしていない。同情する余地があったとしても、三谷に落ち度があったとしてもだ。その上で、二発三発、もっと殴っておけばよかった、という発言は真意はさておき、本当にやってくれるな、と注意が飛んだ。それで終わりになるだろうというのが俺の見立てだ。三谷に関してはこれからといった部分が強い。発言と言動が疑われて人事部の平戸さん預かりになった。総務の荷物を全部引き上げさせられて、今は自宅謹慎中だ」

「謹慎、ですか?」

「ああ」

 智子は障子に囲まれた部屋の中で、着々と支度をしていた。

 さっと髪をまとめ、アップにすると襦袢や足袋を身に着け、肌襦袢をまとって着替え始めていた。

「どうして?普通はそこまでは…」

「痴話げんかならそこまではしない。注意して終わり位だ。業務に支障を与えていないなら尚更だが…。三谷は警察に持ち込むと言って会社業務に混乱をきたした。三谷自身に原因があるのに、だ。しかも、君にコテンパンにやられた小川でさえ君の味方に付いた。絶対に何かある、といって三谷に対して不信感を抱いたんだ。当の小川は名誉挽回のつもりらしいけどね。心を入れ替えて一緒に働きたいそうだ」

「そうなの」

「あれから、小宮君と話している姿を見た。小宮君本人も、まだぎくしゃくはしている部分はあるが、仕事上のことに関して問題はないと言っている。小川は適度な距離をつかむまで四苦八苦しているそうだがな。良かったよ」

 そう言いながら思い出し笑いをする高杉。

「人事の吉永課長は君のことを高く評価していた。」

 高杉がくすくす笑った。

「吉永課長は見た目通り、人事評価はズバズバものをいう人だ。しかも誇張も虚偽も言わない。だから社長の決断は早かったよ。三谷を処分して、君には注意で済ませるとね」

 社長の即決具合も三谷は憤慨していたが。

「信頼できる仲間たちと仕事をしたいということに主眼を置くと、君の仕事ぶりは誰もが認めているからね。ちゃんと木曜日から出勤するんでしょうね?って、町田が死にそうな顔で訴えていたぞ?」

 くすくす笑いながら町田のものまねをした高杉は、本当に安心したように笑っていた。

「京都に来て、少しはリセットできたようだな」

「少しずつですけど」

「心配することは何もない、それを伝えたかった」

「引きこもりを引き取ったつもりはない、と真美に言われました。引きこもりになるつもりもないですけど」

「引きこもりか」

 確かに、都合が良いかもしれない。


 祖母が使っていた6畳の部屋は小上がりになっている畳部分もあって、洋間である智子の部屋と繋がっている。小さなシンクとキッチンが付いていて、電子レンジも使えるようになっているから引きこもりができると真美が言ったのは過言ではない。

 しかも、使い勝手の良いように調節されたことが見て取れるあれこれや、使い込まれた道具や、壁に掛けられた京織物のタペストリーや額に入った書に、亡くなったという彼女の祖母の気概を感じてしまう。


「香川さんは、お父さんの先輩だった、と聞いたけれど?」

「大学時代の先輩後輩だそうです。大学は違うんですが、ボート部で、学生連合が所有する合宿所で意気投合したらしくて」

「ボート? オールで漕ぐボートだよね?」

「はい。今でもその仲間たちと家族ぐるみで。おじ様たちはおじ様たちで、子供たちは子供たちで連絡を取り合っているんです。子供のころは琵琶湖のコテージで、もうてんやわんやの合宿状態だったんですよ」

 智子がちょっとだけ笑った。


「その、お父さんのお仲間も京都にいるんだ」

「そうですね。京都と大阪と、神戸と、奈良と。何かと口実をつけて集まってます。奥さんたちも子供たちもですけど」

「なのに、君は京都に戻らなかった」

「…父が、東京にいつ戻っても良いように」

「え?」

「父は東京の人で、仕事のことや、生活のこともあって大学卒業後は、就職も結婚後も東京で暮らしました。母は、大学のキャンパスで父と出会って、じっくり考えて東京に嫁に出たと言っていました。お互いに信頼できる、尊敬できる人だったから結婚したと、一緒になったと口をそろえていましたよ」

 時折、しゅ、しゅ、と衣擦れの音がする。

「父は、自分だけが生き残ったことを悔いているんじゃないかと。事故の後、香川さんたちが父を探し出して事情を聞いた時、事故直後からの半年くらいは、後追い自殺をしようと思ったんだけど、出来なかった、智子がいたから出来なかったって言っていて。それを聞いた時、私はまだ父を親として尊敬できる、って。だから父がこの先私と一生会わない、会えなくても、生きているだけで十分だと思ったんです。母が亡くなったことは父のせいじゃないし、そこは気に病むべきことじゃないんだけど、父はきっと立ち直って自分で東京に帰れるようにって、私は東京に残ることにしたんです。エゴですけどね。私や、東京という居場所があれば、父は生きることを選択してくれるんじゃないかというエゴです。父には、地獄かもしれないけど」

 高杉はいいや、と首を振った。

「三谷が婚約したというニュースを聞いて、物凄いショックで、信じられなくて。でも一方でああやっぱりって思った自分もいて。尊敬できる、信頼できる相手じゃないなぁって。彼女のことを隠していた段階で、もう彼のことを尊敬できないなぁって思った自分がいたんです。一番ショックだったのは、授かった子供をどうするかっていうときに何も話さなかったことです」

 誰もがそれはひどいと思った瞬間だった。

「話してくれても話さなくても、手術の選択をすれば結果は変わらなかったとは思います。でも話してくれれば、シングルマザーになる決断もあった。そういう大事な時に、嘘をついて平気な顔して最終決定の同意書にサインしたんだって思ったらもう尊敬も信頼もできなくて。両親の影響ですかね」

 智子は自嘲気味に笑って手を動かす。鏡台に映された自分の姿は、ある種の覚悟を秘めたようで苦笑する。


「尊敬も信頼もできないくせに、何故か未練が残ってしまっていて。これ、未練なのか、それとも子供のことが引っかかっててぐるぐるしているのか、自分でもよくわからなくなってきて。自分の感情に折り合いがつかなくなって、ちょっと京都まで逃避行しちゃいました」

 体に染みついたように慣れた手つきで着物を着て、大丈夫かな、と微調整する。

「でも、今はここにきて良かったって思っています」

 不意に、家の中に別の音が生まれる。「ただいま」という甲高い声がして、ぱたぱたと足音が近づいてくる。

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