第17話
祖母が使っていたのは、8畳間の和室と6畳間の和室をフローリングに改装した部屋で、洋室になった部屋には、ミニキッチンと小さなダイニングテーブルと茶箪笥が置かれてある。
昼間着た利休鼠の着物をもう一度着るとしても、少しはアレンジしたい。その着物は今和室の片隅で広げられている。
「どうしようかなぁ、おじさまのホテルだものね」
加賀美は、香川の大学時代の部活つながりにあたる人物で、京都では指折りの老舗旅館の経営者一族に名前を連ねている。今は一線から引いて息子に任せてはいるが、昔からの鋭い審美眼は相変わらずだ。そういう意味で織物の世界にいる伯父とも仲が良いし、父とも仲が良かった。
「加賀美さん、ってそんなに有名なのか?」
「みたいですね。私には普通のおじさまですけど」
そう言って香川の使った茶碗をシンクに運び、ちゃぶ台を横に寄せた。
「うーん、薄墨の帯は地味って言われちゃったからなぁ」
昼間、伯父と会った時は薄墨の幽玄な下地に、鮮やかなアジサイ柄の帯を合わせたが、もっと若々しくて良いと助言された。年齢的に落ち着きすぎていると言ったが、その場にいた伯母や会社の人たちは祖母譲りの色合わせだと絶賛された。
取り出したのは、鮮やかな若草色の帯締めに、青みがかった瑪瑙の帯止めである。いやいや、ここは赤をもって来るべきかとも悩んで、ガラス玉の色鮮やかな赤をした大ぶりの帯留めをチョイスしてみる。それから少し悩んでから白地に横縞の帯を選ぶ。この横縞の帯が墨を流したような古典帯柄をモダンにした、薄青や薄緑が入った横縞で智子の年には地味になりそうな利休鼠の色味を逆に引き立てている。
「は?着物を着るのか?」
「だって、ジーンズしか持ってきていないし。ワンピースだってジャージのワンピースだし。あとはこれ?」
今着ているのは、量販店で売っているような部屋着用の無地のワンピースにサンダルである。ゴミ出しに行くのは良いが、とてもじゃないがホテル向きではない。
帯揚げを黒から薄墨、白へとグラデーションさせたものを選び、白地に薄緑の麻のバッグと草履を合わせる。
「ちょっと、入らないでくださいね」
智子はそう言って障子を閉めると、支度を始めた。
「高杉さん」
「何だ?」
「私が出て行ったあと、何かあったんですか?」
ああ、そのことか、と高杉は思い出して笑った。あれは痛快だった。
「あの後、柊専務を含めてもう一度三谷の事情聴取があった。社長も同席したし、途中からは香川さんもだ。会社が問題視したのは、ストーカーなのか見境なく暴力をふるうような人間かどうか、だったよ。三谷は事実だと言った。ストーカーだったし、暴力を振るわれた、とね。そして、つきあっていたという事実は否定した。もちろん、プロポーズの話も否定した」
そうか、と智子は納得した。三谷にとって、智子は都合の良い女で、利用するだけ利用する、いちいち別れ話をするまでもない存在だったのだと思った。たとえ、結婚話があったとしても三谷にとっては取るに足らない存在なのかと。
だから、平気で表では結婚しておいて、裏では智子を愛人として囲ってしまおうという計算をしたのだと。
それを自分で認めるのは非常につらい事ではあったが、もう智子の中では徐々に過去のものとして受け止めつつある。時折、不意に湧き上がってきては沈んで行って心乱し涙することもあるが、ゆっくり沈んでゆく澱のように自分の中では折り合いがつきつつあるのだ。無理やり押し込めている事実はあるが。
「その事情聴取している間の話だが、三谷の仕事を振り分けられた総務の同僚の何人かや、営業部や経理の何人かが三谷の仕事を引き受けません、と宣言した」
「え?営業が、ですか?」
「ああ。直接営業が関係あるとは思えない。でも業務をフォローしない理由というのが、月島にプロポーズしたのに、どうして交際していたと言わないのか、プロポーズの事実を認めないのか、という爆弾を落としてくれた。町田も鳥飼も、田辺も、三谷の分の仕事はしないと公言した。三谷の言い分が嘘だと知っているから、謝罪して会社をやめろという要求はおかしいと。その話はすぐに社内に広まったよ。あの時、内密にと言ったはずなのに田辺も鳥飼もやってくれたよ。その話が、当然事情聴取中の社長たちの耳にも入った」
三谷の業務は申請書類関係で、業務はほとんど業務部あてに送られてくるメール便と社内便の書類仕事である。誰かがフォローを拒否したとしても、改めて仕事を振り分ければ問題のないことで、実際の仕事に何かが起きるわけではない。だが、フォローを拒否するという個人的な理由は「私情を会社に持ち込み、理不尽な要求をした」ということに当たる。三谷への痛烈な批判だ。
「営業部からは町田と田辺と鳥飼、それから小川が久世課長に呼ばれて事実関係を確認されたそうだ。ほかにも、経理や総務から同調した何人かが。交際の事実もプロポーズの事実も、手術の事実もあって上層部は頭を抱えていたよ」
そうなのだ。退院後、一人であれこれする気にもなれないし、誰にも相談できないこともあって、真美に相談し、結局京都で手術を受け、静養した後東京に戻ったのだ。
「それより、面白かったのは小川だよ」
「え?」
小宮にいろいろと口をはさんだあの小川である。
「プロポーズされたのは渋谷にあるイタリア料理店のルシェロ、で間違いない?」
「え?どうして?」
「君が鳥飼や町田に送ったSNSの写真を見た小川が、これ、俺の親父の店だ、って一言。そこから三谷がその店を予約していたことがばれて、プロポーズの件も本当だったとお店側から証言が取れた。とどめは香川さんの一言。社長から突然の呼び出しで、月島のプライベート近況を聞かれたから、てっきり結婚話がまとまったのかと思って、名前は聞いていないが社内恋愛している、2年付き合っている、誕生日にプロポーズされたんだという話をその場で答えたんだ」
話がまとまったのかと思って会社に来てみれば、実際は違っていたのだから香川の驚きはすごかったのだろう。だからこそ、ここに来たのだろうと智子は思う。
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