第16話


 火曜日


 伯父との食事を終え、着物を解いてから近所のスーパーに向かう。午後4時からのタイムセールで目的の魚を手に入れると、荷物を手に家まで戻る。

 家の前で、人影が二つ、あった。

「ああ、戻って来た」

「高杉チーフ?」

 高杉ともう一人、隣に立っていたのは、父の大学時代の先輩だった、香川である。香川は何度もこの家に来たことがあるので不思議ではなかったが。

「それに香川のおじさま?」

 だが、二人のつながりに首をかしげた。

「ちょっと良いかな?智子ちゃん」

「どうぞ」

 智子は、家の中に二人を入れた。


 香川は行儀よく、まずは通された祖母の部屋の仏壇に手を合わせた。

「耕平は元気だったよ。会って来た」

 その言葉に、高杉がぎょっとした。高杉は、智子の父親は行方不明で、どこかで生存していることは確かだが、居場所は知らないと聞いていた。母親は交通事故で死んだ、身内は現在、京都にいる母方の伯父一家だけだと。

「お父さん、元気でしたか」

 智子は馴れている、と言いたげに二人にお茶を出した。


 父の耕平の居場所を知っているのは、香川と伯父夫婦しかいない。

 高杉は、途中立ち寄った街のことを思い出していた。香川が足を止めたのは、寺だった。何人かの僧侶が、植木職人と一緒になって寺の境内と門前とを掃き清め、庭木の手入れをしていた寺があったのだ。

「私と気が付いていたんだろうが、何も言わなかった。元気そうだったよ」

「元気でいてくれたら、それで良いんです」

 智子はそう言った。あの父は、今でも自分を責めている。妻の命が失われたことと、自分が生き残ったことと、自暴自棄になって娘の存在を捨てたことを後悔しているのだ。だから贖罪として仏門に入り、こちら側には戻って来られないのだろう、と思う。もしかしたら、ある意味心を病んでいるのかもしれない。伯父はそう言ったが、それでも元気でいてくれればよい、と智子は思っている。

 父は智子の存在を忘れてはいない。それだけで充分だった。


 もちろん、そう思えるまでには葛藤がいくつもあった。が、それを乗り越えての今だった。

「高杉君が、キタさんを介して私のところに来たよ。京都にいるだろう、君の居場所を教えて欲しいと。高杉君からも、柊君からも事の顛末は聞いた。災難だったね」

「最悪でした。頭では分かっているのに、立ち直れない自分が一番嫌です。あんな男に時間を取られるなんて」

「わかっているならそれで良い」

「はい?」

 お茶を入れている横で、香川がくすりと笑った。


 大学時代の後輩だった月島とは、卒業後も付き合いがあった。家族ぐるみでの付き合いがあったから智子のことも良く知っていた。さっぱりした性格で、決断力はある方だと思う。女性にしてはアクティブなところは父親に似たのか、と思っているが。


 今朝、智子が人を殴ったと、後輩の北川と柊から立て続けにそれぞれ連絡をもらった時には驚いた。驚いたが、自分が慌てて会社に出向いたときには話はもうほぼ終わっていたと言って良い。

「それは後で高杉君から聞くと良い。肝心なのは、私が事実上の身元保証人だからね、智子ちゃんに確認しなきゃならん。問題になっているのは、智子ちゃんが三谷君を殴り飛ばしたことだ。智子ちゃんは三谷君だからぶんなぐったのか、それとも誰でも見境なくぶん殴るつもりだったのか、そこを明確にしなきゃならん」

「彼だから殴ったんですよ」

 迷うことなく、智子は断言した。

「では、次回、会社で顔を合わせたら彼をぶんなぐるかね?」

「彼が実力行使でぶんなぐって来るのなら正当防衛として容赦なくぶんなぐりますが。自発的に仕掛けることはありません」

「そこを明確にしておきたかったんだ。次は、ないぞ?」

「はい」

 香川は頷いて出されたお茶に口を付けた。

 立場上、口には出さないが一連の経過を聞いてまず自分がボッコボコにしてやりたいと思ったのは内緒だ。

 久しぶりのスーツに身を包んで、家を出たのは電話があってから30分も経っていないことに妻は苦笑していた。


「ここは、あの頃のまま、か?」

「ええ。二階やリビングは真美たちが使うので随分手を入れていますけど、こっちの二部屋と中庭は手を入れていないと、言っていました」

「そうだな。…智子ちゃん、もしかしたら、仕事を辞めることを考えているのか?」

「そういう選択もあると思っています。三谷がまた絡んできたら、多分、ぶんなぐってギッタギタにするでしょうから、そういうこともあるかなと。まぁ、できるだけそうならないように努力はします」

「理解者がいるんだ。会社を辞めるんじゃないぞ?あの馬鹿男に負けてどうする?」

「馬鹿男…」

「今後のことは柊君と高杉君とに相談して決めると良い。それから、三谷君と婚約した彼女のことなんだが」

「ああ、そうですね、私、彼女にとってはストーカーなんですよね」

「君と一度話したいそうだ。もし、君が受けてくれるなら、という条件だが」

「良いですよ。でも実際、私は彼女に話すことはない」

「柊君が先方との交渉をしているそうだ。先方は、三谷君が言うように君がストーカーなのか、それとも君が言うように三谷君が悪いのか、それを見極めたいと」

「つまり、向こうは私のことをストーカーだと思っているってことですね」

「そうだね。でも、三谷君の話しか聞いていないから、というのがご両親とお嬢さんの言い分だ。休暇は明日まで、と聞いているが、智子ちゃんが良ければ、今すぐにでも、と言っている」


 今すぐ、という言葉に引っかかる。上司である高杉がここにいて、身元保証人ともいえる香川がここにいる、ということは、もしかして京都にまでその親子が来ているのではないかという智子の推理だった。

「北川は、大学の一級下の後輩だ。部活の関係ではないが、大学の時の、俺たちの交流についてはある程度知っているし、新入社員だった頃の智子ちゃんも知っている。それを踏まえて入社するとき私情が入るからと柊を付けたんだ。その柊が、会社として、知っている情報を出せと言われたら知る限りの情報は出すだろう。向こうさんはウチの得意先で、しかも創業家の一族に名前を連ねている。柊とも親しい。柊の評価と三谷の評価が違えば、向こうは不信感を持つだろう」

「三谷の言葉に不信感を抱いた、ですか?」

「ああ。それに、先方は独自に君のことを調べたらしい。たった数日の間に、会社での君の評判まで調べてきていたよ」

「まぁ、確かに、YK商事さんですからね。今まで直接やり取りしてきた担当者が何人もいますし、月島のことを覚えていても不思議じゃない。そうか、そういうことか」

 高杉が人間的な相関関係も含めて頭の中で地図を書けたので納得する。


「京都に来ているんですか?」

「ああ。高台寺の、加賀美のホテルしか取れなかったんだが。来れるか? 無理強いはしない」

「わかりました。支度をするので時間をください。そうですね、18時半か、19時くらいに」

「わかった。ホテルのフロントに声をかけてくれ。私の名前でどこか予約しておく。ラウンジか、レストランか」

「わかりました」

 智子は仕方ない、と割り切った。

「高杉はどうする?俺は向こうに行くが」

「月島に付き添います。正直、あの空気の中にいるのは辛いですよ」

「…嫌か?」

「目の前で、恋愛していた月島を見ていただけに」

「わかった。じゃぁ俺は先に行く」

 香川を見送りに出た後、智子は部屋に戻ってくると、高杉に洋室側に移ってほしいと告げた。


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