第37話 錯綜する男女の綾





 ひたひたとつづく足音のなか、念仏坊さまの語りがとつぜん再開されました。


「女の気持ちとはおかしなものでございますねえ。あれほど避けていた男が日を追うごとに慕わしくなり、忘れられなくなっていたのでございます。二度目の誘いにわたくしは易々と乗っておりました。超一房さま、軽蔑なさいますでしょう?」


 問われたわたくしは首を強く横に振っておりました。

 男女の間には、理屈では推し測れないものがあると身に沁みておりましたゆえ。


「通広さまのお目に留まったのは、それから間もなくのことでございました。困惑いたしました。お情けをお断りするなど下女の身にできようはずもございません。作男を思いながらも、通広さまの想い女になるしかなかったのでございます」


 うつむいて歩を進めながら念仏房さまは当時の苦悩を思い返されておられます。


「通広さまの胸に抱かれながらも、粗野な作男の所作が鮮烈によみがえることもございました。そんなわたくしに、作男は遠くから昏い視線を送ってよこすばかり。男の表情が荒んでいくようで、わたくしは凶事の予感に怯えておりました」


 汗ばんだ胸元から自分の体臭が匂い立ち、息苦しいほど鼻孔を満たします。われとわが身のなまめかしさをいやというほど思い知らされる瞬間でございます。女ざかりの尼ふたり、わが身の生臭さに耐えながら、峠道を下ってまいります。


 前に出たりあとになったりして軽い足取りを運んでいる超二房も、やがては同じ苦しみを味わうことになる、そのことに、わたくしは強い罪の意識を抱きました。


 偉丈夫で男前の上人さまに見初められて舞い上がってしまい、なんの考えもなくこの子を産みましたが、人の一生に多かれ少なかれ苦悩はつきものでございます。


 この子自身には一片の罪もないのに、そしてまた、自ら望んだわけではないのに辛い煩悩や苦悩を背負わせるとは、なんという子不孝なことでございましょうか。

 わたくしは自分の無智の恐ろしさに遅まきながら震えずにいられませんでした。

 

 わたくしの思いとは関係なく、念仏房さまのご自分語りは粛々とつづきました。


「実際、通広さまの閨に横たわっておりますと、暗闇の庭にひそむ凶暴な力を感じたことも一再ならずでございました。奥方さまからも強く疎まれていることを承知していたわたくしは、不安な、落ち着かない気持ちで身体を堅くしておりました」


 つい先刻までかっとばかりに強烈な太陽が降り注いでいたというのに、にわかに掻き曇った空には陰鬱な雲が分厚く立ちこめ、いまにも大粒の雨が降って来そう。


「本当の恐怖は遅れてやってまいりました。通広さまが病床に伏されて間もなく、納屋の裏で待ち伏せていた作男を、わたくしは拒みきれなかったのでございます。病人を裏切っている自分、この身体に棲みつく魔物を空恐ろしいと思いながらも、もはやおのれでは制御できないほど、魔物は巨大に育っていたのでございます」


 身に覚えの大いにあるわたくしは、ひたすら草鞋を見つめて歩を進めました。


「それは出家の直前までつづいていたこと、聖戒は知っていたかもしれません」


 そうだったのか……わたくしは思いました。

 少年がわたくしに向けたまなざしには、そういう事情がひそんでいたのか、と。


 率直にご自身のことを打ち明けられる念仏坊さまに、わたくしの内に沸々と尊敬の思いが湧いてまいりました。見栄や虚飾を捨てきれないわたくしには、とうてい適わないことでございます。そんなこととは知らず、上人さまとの仲を疑い妄想にとり憑かれ邪念に操られていたわたくしは、まことに救いがたき女でございます。


 ぽつ、ぽつと雨が降り出しました。

 超二房の頭陀袋の雨衣を着せてやりながら、わたくしは、驚愕、称賛、恥辱、後悔、尊敬……ありとあらゆる感情が入り混じった思いを持て余しておりました。

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