さよなら風たちの日々 最終章―2 (連載43)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第43話


               【3】


 ぼくは蒼ざめていた。顔から血の気が引いていた。嫌な考えが、ぼくの頭の中を占領したからだ。その考えはどんどん膨らんできて、渦巻いてきて、それはほぼ確定的になる。

 ぼくは父の言葉を反芻してみた。

「大事な話があるって、ずいぶんおまえを待ってたんだぞ」

「暗い顔をしていたぞ。これから板橋に行くって言ってたぞ」

「高島平の団地だって言ってた」

 大事な話。もしかして、喫茶店が潰れたのかもしれない。あるいは結婚がダメになったのかもしれない。だからあいつはぼくの家に来たんだ。

 暗い顔。あいつは黙っているといつもそんな顔だから、それは参考にならない。

 板橋。高島平団地。この意味するものは何だ。結婚して、今はそこに住んでいるのか。板橋から喫茶店があるお花茶屋まで通っているというのか。電車の乗り継ぎで時間はかかるが、その距離での通勤は不可能なわけではない。

 ぼくはヒロミが大好きなハードボイルド小説のセリフを思い出していた。

「いい話と悪い話がある。どっちを先に訊きたい」

 いい話なら、ヒロミはただ単に高島平の団地に住んでいるだけだろう。こんな時間だ。ヒロミは今頃団地内の自宅にいて、深い眠りの中に溶け込んでいるに違いない。

 悪い話ならどうだ。ヒロミは何をしに、ここに来た。毎年十人以上がこの団地から飛び降りて、社会問題になっているこの団地に、何をしに来た。

 おい、ヒロミ。ウソだろ。悪い冗談だろ。

 ダメになったら、おれのところ来いや。そう言われたヒロミは、ぼくの家に来た。けれどヒロミはぼくと会えなかった。そしてその足でヒロミは、ここに来た。

 

 考え過ぎでもいい。間違いでもいい。ヒロミは絶対、この高島平団地の、どこかの屋上にいるに違いない。理由は分からない。でもヒロミはみずからの命をここで絶つつもりなのだ。

 手がかりはない。でも六十六棟もある団地のどこかに、ヒロミはいるはずだ。

 夜空を仰いだ。その夜空がぼくの頭の上で、めまぐるしく回転しだした。捜さなければならない。見つけださねばならない。あいつが最期の行動を起こす、その前に。


               【4】


 歩道と植え込みの間に設置された高島平周辺の住所掲示板。ぼくはその前で途方に暮れていた。この六十六棟の団地の中から、どうすればヒロミを見つけることができるのだろう。警察に通報してみようか。すると周辺はパトカーと消防車が集まり、大騒動になるだろう。マスコミも来るに違いない。そんな中、ヒロミが寝巻にガウンを羽織って、ひょっこり自分の住居から出てきて、「どうしたんですか。何かあったんですか」なんて警察に訊いたりでもしたら、目も当てられない。それ以上に、ヒロミの姿を大勢の人の目に触れさせたくない。

 ぼくは何の手がかりもないまま、ぼんやりと住所掲示板を見つめていた。その掲示板の各住所の位置には、すべてに数字が書き込まれている。その数字を見ているうち、ぼくはあることを思い出した。

 ヒロミは以前、こんなことを言ってはいなかっただろうか。そう。それは晩秋の上野公園でヒロミが話してくれた、彼女自身の数字に関するこだわりだ。

「わたし、ヒロミじゃないですか。だからそれを数字にすると、一、六、三になるんですよね。だからわたし、何か数字があったりすると、たいてい一、六、三っていう順番で選んでしまうんです」

 もう一度掲示板を見た。それは凝視と言っていいほどだった。それをなぞる自分の指先が、かすかに震えているのが分かる。

 高島平一丁目に団地はなく、団地があるのはは二丁目と三丁目だ。それを一、六、三の順番に当てはめていくと、三丁目の団地群がそれに該当する。ぼくはさらに掲示板の三丁目団地エリアを指でなぞってみた。それを一、六、三の順番でみていくと、10-6棟、11-6棟、次に11-3棟、10-3棟、さらに10-13棟が一、六、三の数字の対象になる。

 ぼくは住所掲示板でそれらの団地の場所を確認し、オートバイにまたがった。神さま、どうかヒロミが、一、六、三に関連する団地にヒロミがいますように。お願いだから、そこにヒロミがいますように。


 ぼくはヒロミとの出来事に、いつも神の存在を感じることがあった。それは森羅万象、すべてのものに神が宿るという神道の教えではなく、人の生きる道を説いた仏教でもなく、人を戒めたり、救ったりする宗教の神だ。ぼくは人生で初めてその神に祈りを込め、指で十字架を切った。


               【5】


 オートバイを三丁目団地の敷地内に停める。見上げると三丁目団地の各棟には、その側面に大きく棟番号が記されている。その中、10-6棟は五階建ての中層団地で、屋根はあるが、いわゆる屋上構造にはなっていない。ならば次は11-6棟だ。

 ぼくは深呼吸をしてから、ゆっくり11-6棟に歩いた。その棟の入り口が何か所もあったため、ぼくは一番手前の入り口から中に入った。エレベータはスキップフロア方式と呼ばれるもので、かごは各階に停まるのではなく、三、六、九階にだけ停まり、それ以外の階の住人は階段を昇り降りして自分の住居にいく仕組みになっている。ぼくはエレベータに乗り込むと、ためらわず九階のボタンを押した。それから九階からは、階段を使って屋上に上がってみた。


 屋上は周囲に高さ180cmほどの金網状のフェンスで囲まれており、その外側に排水ドレンと高さ30cm、幅30cmほどのパラペット(外縁)が設置されている。

 ぼくは辺りを警戒しながら屋上周辺を時計回りにゆっくり歩いた。屋上には照明がない。地上の街路灯や団地の通路照明、各部屋の窓明かりが雲の反射して、その光がぼんやりと屋上を照らしているだけだ。雲のすき間から、少し空が見える。星は厚い雲に閉ざされて見えない。月も雲に覆われていて、その輪郭だけが間接照明のように薄暗く周りを明るく照らしているだけだ。

 暗がりの屋上。街路灯の反射光、通路照明、か細い月明りだけが頼りの屋上。その屋上に人の気配はない。ぼくは注意深く、その屋上を歩いた。

 この姿を団地の住人に見られたら、ぼくは絶対不審者に思われるだろうな。警察に通報されるだろうな。そんなことがふと、頭をよぎる。そうしてぼくは、何かにつまずかないよう、転ばないよう、細心の注意を払って屋上を歩いた。

 やがて暗闇に目が慣れてくると、最も西側に近いフェンスの外側に何か黒い物体が見えてきた。それを見た刹那、心臓が収縮した。息を殺して、恐る恐る近づいてみる。髪の長い女性のようだった。顔は見えない。うつむいているので、髪で顔が隠れてよく見えないのだ。その女性は屋上のフェンスの外側、パラペットの上で膝小僧を抱えて、うずくまっている。再び心臓が収縮した。

 ヒロミだ。そこにいるのは、間違いなくヒロミだ。ヒロミがそこで、膝小僧を抱えてうずくまっているのだ。ぼくはこの僥倖に感謝した。神はこの場でようやく、ぼくに味方してくれたと思った。ぼくは目頭が熱くなるのを感じながら、ヒロミに近づいていった。

 そして声をかけた。

「ヒロミ・・・ヒロミ。だよね」




                           《この物語 続きます》







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよなら風たちの日々 最終章―2 (連載43) 狩野晃翔《かのうこうしょう》 @akeey7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ