Bitter 小学生・男子

第5話 Bitter(前)

 今でもときどき思い出す。小学六年のときに引っ越してきた学校のクラスに馴染むのに、お前はずいぶん苦労して、結局はしくじったんだったな。クラスに葉子ちゃんがいなければ、事態は変わっていたんだろうか。



「よろしくね」

 後ろの方の空いた席を示され向かった先で、明るく迎えてくれたのが、葉子ちゃんだった。笑顔の眩しい、可愛らしい子だって、お前は思ったな。

「わからないことあったらなんでも訊いてよ」

 どぎまぎして彼女の隣の席に着いたら、首を伸ばして内緒みたいに小さな声で言ってくれた。隣から漂ってくるミルクのいい匂いと、あたたかな息とが、その言葉の甘さと合わさって胸を溶かした。



 葉子ちゃんが親切だったのは、一つには彼女が学級委員だからというのもあったんだろう。男女から一人ずつ選ばれる学級委員の、葉子ちゃんは女子代表だった。

「仲良くしてあげてよ? ちゃあんとしないと先生に言いつけるからね」

 そう言ってお前に引き会わせた相手がもう一方の学級委員、裕介くんだった。

「えっらそうに指図すんじゃねえよ」

 拗ねたような顔して憎まれ口を叩く裕介くんは、それでも「おう、こっちだ」とお前の手をとって、男子たちの群れの方へ引っ張っていってくれたな。


「サッカー得意か?」

 残念ながら得意じゃない。お前は運動全般駄目だった。

「まあどっちでもいいや」

 裕介くんが蹴って寄越したサッカーボールは、ちょうどお前の右足の前にきれいに届いた。慌てて蹴り返したけど、当たり所が悪くてあさっての方向へ飛んでいってしまった。

「へったくそ」

 そんな声が聞こえてきたな。お前は頭を掻いてうすら笑いで応えた。顔は四方へぐるっと廻したけれど、誰ともまともに目を合わせられなかった。

 やっぱり失敗しちゃった、とお前は内心思ったんだ。



  ***



「男子は隣の教室だよ」

 転校してきて二週間ぐらいのことだっけ。

 気がつけば教室内は女子だけになっていた。給食のあと遊びに校庭へ出ていくみんなを後目しりめに、お前はひとり机に座ってぼおっと空を見ていた。そのうち体育のための着替えで男子はみんな隣の教室に移動していた。

 あたふたと廊下に出て、着替えを持ってきていないと気づいたのは、扉が閉められたあと。お前は扉の前で二分ぐらい逡巡した末にノックした。顔を出したのはクラスで一番身体の大きな……たしか、美乃梨みのりちゃん。


「なか覗かないでよー?」

 慌てて横を向いたっけ。体操服のことを言うと、

「あー、持ってったげるよ」

 と声がして、葉子ちゃんが出てきた。彼女はもう体操服に着替えていたんだ。


「着替えなんて、さっさのさー、よ。私、こういうの得意なんだよね」

 眩しい笑顔だったな。

「大丈夫? みんなと仲良くやってる?」

 心配そうに眼を覗いてくる葉子ちゃんにお前は小さく頷き、急いで男子の着替える教室に飛び込んだんだ。



 体育でのペア探しは、クラスに溶け込めていない転校生にはただでさえハードルが高い。まして運動の苦手なお前と組もうなんて子はいなかった。仕方ないから裕介くんが仕切って、「お前あいつと組め」と適当に宛てがってくれた。


 休み時間にもときどき裕介くんが誘ってくれたな。

 お前は素直についていった。でもボールをパスされてもうまく返せなくて、サッカーは成立しない。鬼ごっこなんてすぐ捕まるし、鬼になったら永久に誰を捕まえることもできない。

 仕方がないからわざと捕まえられようとする子が出てくる。すると今度は誰か生贄を捕まえて鬼のお前に差し出すゲームになって、ルールがどんどん改変されていく。

 そんなルール、お前が覚えられるわけなかった。もうなにがなんだか分からない。分からないながらもうすら笑いでみんなの後ろを走ってたっけ。




 子供って、あたらしい遊びを生み出す天才だ。ときに妙に鋭い観察力を発揮したりもする。

 ちょくちょくお前が体を掻いているのを見つけて、はじめはただ不思議に見ていたのが、そこになにか法則があるように思いだした。


 サッカーでボールを人に奪われたとき。

 授業で当てられて、ちゃんと答えられないとき。

 なにか言おうとして、思うように伝えられないとき。

 そんなときお前は、恥ずかしさと、居心地のわるさと、焦れったさと、そして憤懣でいっぱいになって体を掻かずにいられなかった。


 おぼろげに法則が掴めてくると、より探求したくなるものだ。探求して、分かったことがあれば実地に確かめたくなる。確かめることができたら得意になってみんなに話して、繰り返し再現させて見せる。

 いつしか級友たちの間では、お前が体を掻くよう仕向けるのがあたらしい遊びになっていた。



 おかげで腕や、頸のうしろや、あごの下なんかはいつも赤く腫れあがって、ときには血がにじんでいたりもしたもんだ。


 男子の間で流行りだしたその遊びに女子は加わらなかった。でも、お前の肌に血が滲むのは気味が悪いと嫌がった。できれば近づいてほしくないと思う素直な感情が、また新たな遊びを生み出すのも自然な成り行きだ。


 さとるくんに触ってはいけない。触られたらアウト。悟くんの触ったものもアウト。


 残酷な遊びは、今度は男子たちの間にも広がった。

 すべては遊びで、そこに悪があるなんて、きっと子供たちは考えなかった。すこしはうしろめたさを感じたかもしれないけれど、目の前の娯楽を前にそんなものは簡単に吹っ飛ばすことができた。



  ***



 葉子ちゃんは、その遊びには参加しなかった。

「かわいそうじゃない。止めさせてあげてよ」

 教室の外へ裕介くんを呼び出して言ったんだ。裕介くんは不服顔だ。

「俺に言うなって。だいたい、始めたの女子じゃんかよ。お前が止めりゃいいじゃん」

 ほかの子たちが聞こえないところでふたり話すのを周りが揶揄からかうから、裕介くんは頬をあかくして、急いで教室へ戻った。



 ちょうど教室のなかでは、級友の意地悪な質問に答えようがなくて、お前がうすら笑いをうかべていたんだ。裕介くんが舌打ちするのが聞こえた。つかつかと歩いてきた裕介くんが、また頸を掻こうとするお前の手首を押さえた。

「掻くんじゃねえよ」

 その掴んだ手の先、指の爪のうらには古い血が赤黒く残っている。


「こんな指してっから気味わるがられんだよ」


 掴まれた手をお前はしばらく見下ろしたあと、どうしていいか分からず裕介くんを見た。でも裕介くんが手を離すと、つい耳の後ろを掻いてしまったんだ。


「話聞いてんのかよ……くそっ」

 机を蹴って裕介くんが去って行くのを、呆然としてお前は見送ったな。クラスの子たちも一瞬しんとして、教室を出ていく裕介くんを見送った。

 理由は当人たちにもよく分からなかっただろうけど、その日を境に男子はお前に体を掻かせようとする遊びを止めてしまった。


 お前を避ける遊びもそのうちなんとなく下火になった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る