凄まじき、恐ろしき、黒き呪蜘蛛
「頼んだ蜘蛛君!」
「おじさん!」
アリスとマナを抱えた幹也が、大会場のドアを蹴飛ばしながら逃げる。
アテナは追わない。そんな面倒な事は彼女の下僕がすることだ。しかし、やろうと思っても今は出来ないだろう。
『キッキャアアアアアアアアアアアアアアアア!』
『ちっ』
座ったままのアテナは、現れた大型トラックにそのまま8本の足をくっ付けた様な呪蜘蛛が、片手間で相手を出来る様な雑多な怪物ではないと判断して舌打ちをして、だからこそ
神話に名高き最強の盾で。
あらゆる邪悪を退ける盾で。
女の首が嵌められた盾で。
メドゥーサの首が嵌めこまれた盾で。
『アイギス』
アイギスで。
最強の盾から発せられる必殺の石化の魔眼。
幾ら蜘蛛が速く、アテナとの距離を詰めようとこれでおしまい。蜘蛛は石と
『キキャッアアアアアアアアアア!』
『なんだと?』
ならず。
当然。
『死イイイイイイイイイイアアアアアアア!』
『ちっ』
もう目と鼻の先まで接近した蜘蛛に、アテナは再び舌打ちをしながら、それならばと得意の呪いで蜘蛛を蛙に
『キャッ!』
『なにっ!?』
ならず。
当然。
所詮は愚か者の首、何の役にも立たんかとメドゥーサの首を嗤っていたアテナは今度こそ驚愕する。そんな木っ端の力ではない己の呪いすら蜘蛛に通用せず、ついには蜘蛛の体がアイギスにぶち当たったのだ。
当然。
あまりに当然。
蛇も、猿も、猫も犬もこうではない。
彼らは祈りを与えられている。願いを与えられている。思いを与えられている。想いを与えられている。
世界を救うものであれと、強くあれと、勤めあれと、悪であれと。
だが蜘蛛は、蜘蛛のみは違った。そうではなかった。
祈りも願いも思いも想いもない。
対価もなにもなく単なる偶然でそのまま受け取った。
そのままの純度で受け取った。
呪いを
呪いそのものを
だからこそ薄いのだ。石化の呪いなど。女神の呪いなど。あまりにも薄い。ほんの一滴の汚水で、宇宙の黒に抗うほどの意味のなさ。
『このアテナに剣を抜かさせたな!?』
『ギッギャッギャッギャ!』
この後に及んでようやくこの大宴会場が、神判の場ではなく戦場だと思い至ったアテナが剣を抜き鎧を身に纏うが、蜘蛛はその言動が面白くて仕方ないと嘲笑う。
『ムシケラが!』
悍ましき顔の癖に、その大きな口を裂けさせてはっきりと分かるほど嗤う蜘蛛へ、アテナは輝く剣で成敗せんとした。
『ギキ!』
『こ、この呪は!?』
しかしアテナは、剣を降ろすために踏み込んだ体に急制動を掛けて、蜘蛛から出来る限り距離を取る。
その蜘蛛の体から溢れた粘性の泥に、ナニカに怯えるように。
その泥は、蜘蛛としての正体を現す前の鎧であり重しであった。
普段なら。
普段ならこんな事はしない。したら対処出来なくなる。過剰にすぎる。
今は違う。
重い泥を被るのではなく纏わす。泥ではなく呪いとして纏わす。
完全に一体と化す。
己を完璧な呪いとして完成させるために。
『ギッキャアアアアアあああああぁあああぁぁぁアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』
完全に一体と化した。
完璧な呪いとして完成した。
最早、大宴会場の半分を埋めるその体。
纏った泥はその体となりながら、しかし絶えず蠢動し、犇めき、のたうち、まるで万を超す生命の集合体の様にもごもごと蠢き、その巨躯に見合うよう体中から8本どころか100の足を呪いで編みこむと、床のみならず天井、壁に張り付かせ、机も椅子も、何もかもをその身に取り込んで更に巨大になり、距離を取ったアテナに高速で這い寄った。
どこまでも、どこまでも巨大に膨れ上がり、全てを呪いつくす。これこそが、凄まじき、恐ろしき、黒き呪蜘蛛の本当の戦闘形態。
『ちいいいいい!』
『ギャッキャアアアアアアアアアアア!』
大宴会場を殆ど埋め尽くしているのだ。アテナに逃げ場など無い。いや、戦の女神が逃げる筈がない。その突進してくる巨体に対して、アテナは盾を掲げて真っ向から受けて立った。
結果は……。
なんという事か。一体どちらを称えればいいのか。そんな恐ろしい蜘蛛の突進を受けてなお、罅一つ入らぬアイギスを称えるべきか。それとも、ありとあらゆる邪悪を寄せ付けぬその盾にぶち当たりながら、全く浄化されていない蜘蛛を称えるべきか。
『がっはっ!?』
いずれにしても、アテナが称えられることはないだろう。なにせアテナは、それほどの盾を構えていながら踏ん張れず、蜘蛛に壁へ叩きつけられるどころか、そのまま壁ごとホテルの外へ叩き出されてしまったのだから。
『キャッキャアアアアアアアアアア!』
ホテルの外に飛び出した蜘蛛は、無数に生やした足で外壁にへばりつくと、凄まじい速さで自由落下するアテナを追う。
「な、なんだあああ!?」
「きゃああああああ!?」
地上にいる人々はパニックだった。突然大きな音と共にホテルの外壁が崩れ去ると、その破片すら飲み込みながらなおも巨大となり、前の足と後ろの足が5階層ほども跨いでいるナニカが、外壁にべったりと張り付きながら足を動かして、高速で落ちて、いや、降りてきているのだ。
『おのれええええ!』
そのまま地面のアスファルトに墜落したアテナは、血走った眼で自分に止めを刺そうとする蜘蛛を睨みつけながら、迎え撃とうとアイギスの盾に更なる力を送り込む。
『ギキャッ!』
『ぐううっ!?』
アテナも避けようとはした。だがそれよりも早く、外壁を100を超える足で蹴り、加速を付けて落下してきた蜘蛛を避けることが出来ず、アイギスを上に構えて何とか耐えるが、アテナの真下のアスファルトはその蜘蛛の重さに耐えられず、それこそ蜘蛛の巣のような大きな罅割れを起こした。
「ば、化け物だああああああ!」
その蜘蛛の姿を見たことによって、狂死した人間はいなかった。最初っからその類の呪いは発していなかったのだ。しかし、呪いがなかろうがあろうが、いまだボコボコと体を蠢かせて巨大化している蜘蛛の姿に、逃げ出さない人間はいないだろう。
『聞け人間ども!』
「あ、あれはアテナ様!?」
だがそれは、敬愛するべきアテナがいなかったらの話だ。蜘蛛を何とか振りほどき、避ける事に徹し始めたアテナは、周囲の人間達に呼びかける。
『私の尊き姿を世に流すのだ!』
『ギッ!?』
蜘蛛はマズいと思った。アテナの目論見は分かったが、それを阻止するには力も姿も大きくなり過ぎていたのだ。
そしてアテナの命令はすぐさま実行された。
「アテナ様が化け物と戦っている!」
「アテナ様負けないで!」
「負けないでー!」
「アテナ様ー!」
「アテナ様ー!」
人々が手に持っていた端末から、日本に、世界にそのアテナの姿が流されていく。化け物に襲われ、危うくなっているその姿が。
それにアテナの信奉者が、世界中の人間が黙っているはずがない。文字通り、その信仰は世界覆ってアテナへと流れ込んでいく。
『ムシケラ如きがよくもやってくれたな! 死ねい!』
『ギイイイイイイイ!?』
その世界の信仰を身に纏い、かつてない程光り輝くアテナはその剣に渾身の力を籠めると、蜘蛛の脳天へと突き刺した。
『ギイイイイイイイイイイイ!?』
断末魔の金切り声を上げる蜘蛛は、体中を出鱈目に蠢かせながら、ついにはひっくり返って足が折りたたみ、ぴくぴくと痙攣しながら、やがてそれも止まり始め
『この屈辱……!』
アテナが思い浮かべるのは、蜘蛛が現われる直前にいた男の事だ。あの男がこの蜘蛛の飼い主に違いないと、顔は全く覚えていなかったが、すぐさま見つけ出して八つ裂きにしてやると決心した。
「アテナ様ー!」
「アテナ様ー!」
その周囲にいた人間達が、世界の人間達が、一斉にアテナの勝利に喜びの声を上げる。
そう、完全に勝利したのだ。
現に蜘蛛が起こしている痙攣が、今
ついに止まった。
『ぎゃっ!?』
「え?」
世界中の全員が、アテナも含めて困惑の声を上げた。
『ぎいっ!? ぎいいいいい!?』
アテナの体が蠢いていた。その美しさに見合わぬ声を上げながら、アテナは必死に体を抑えるように、自らの体を抱きしめ
『があああああああああ!?』
「ひいいい!?」
る事は出来なかった。
何故なら両腕ともがなかった。
いや、変わった
いや、突き出た。
人間の、女神の体とは思えない、ナニカ長く先の鋭いものが、アテナの腕であった部分から突き出ていた。
『なにぎゃ!?』
次は足だった。
足もまた、腕のナニカと同じような、それこそ足のようなナニカが、アテナの足から突き出た。
『ごっ!? ごぼぼぼぼ!?』
アテナの全身が、その美しい体の下でナニカが蠢いていた犇めいていたのたうっていた。
そのナニカはアテナの中でどんどんどんどん大きくなり大きくなり、ついにアテナは言葉すら発せられなくなる。
『ぎゅ!?』
アテナは体中から体液をまき散らしながら、ついにその背が弾けた。
まるで脱皮の様に割れた背からは、黒い黒いナニカが
次いで弾けた腹からは、黒い黒いナニカが
腕も足も背も腹も弾け、最後に残ったのは未だ美しいながら、血の涙を流しているアテナの顔
『や、やめ、やめええええええええええ!? びゅぎゅ』
も弾けた。
『ギギ』
アテナの顔の皮は、まるで牛のような角の先端に僅かにこびり付く。
顔もあった。それはまるで鬼のようなつり上がった目を…………
牛と鬼?
『ギッアアアアキャアアアアアアアアアア!』
「あ、あ、あ」
「ひいいいいいい!?」
人々が腰を抜かすその先に
アテナの体を突き破りながら元の大型トラック程の大きさに戻った、いや、生まれ変わった、アテナに憑り付き蘇りし蜘蛛の姿在り。
憑り付き蘇る?
アテナは選択をまたしても誤った。殺すべきではなかった。封印するべきだった。
しかし知る筈もない。
この怪異溢れる日の本において最強の妖怪、その一つ。
その名を知る筈がない。
伝承を知る筈がない。
しかし知るべきだった。
名を
牛鬼
伝承は
己を殺した者に憑りつき
その者を新たな牛鬼として蘇る。
『ギッキキャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』
蜘蛛が吠える。
報復は果たされた。
人を呪わば穴二つ。
因果応報。
アラクネを蜘蛛に変えたアテナは
自らが蜘蛛となる事で正しき報いを受けるのだった。
雷鳴が轟いた。
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