9-4 足利直義

 関東から京に入って来る情報は錯綜し切っていた。

 今の所確実な情報は、斯波家長が討ち死にし、陸奥守率いる奥州軍が鎌倉に入ったと言う事だけである。

 大敗した事もあるのだろうが、それ以上に敗戦の責任を斯波家長一人に負わせたい上杉一族と、それに抗おうとする斯波一族との争いが混乱に拍車を掛けている。

 そして高一族を中心にした比較的家格の低い武断派の武士達の多くは、その争いに乗じて次の戦で主導権を握る事を目論んでいる。

 鎌倉を奪われても尚、誰も真剣に奥州軍の上洛に備えようとしていないようにすら思えた。北陸の新田義貞も九州の武士達との戦いもこちらが優勢な中、単独で進軍してくる奥州軍は手柄を立てるいい相手だと言う侮りの空気すら武士達の中には蔓延している。

 奥州軍の軍勢は十万に届かぬ数だと言う。ここからどれだけ増えても、奥州軍単独では十五万を超える事はないだろう。

 こちらは全力であれば誇張なく五十万の軍勢を集める事が出来る。目に見えている物だけを見れば、味方の中の侮りの空気もやむを得ない所はあった。

 しかし、戦の前にこれでは朝廷の中で愚かな権力争いを繰り返してきた公家達と変わらぬではないか、と直義は辟易する思いだった。

 いや、人の集団とは常にそう言う物である、と言う事は直義も分かっていた。

 今まで足利方がとにもかくにも一つにまとまっていたのは、尊氏一人がしっかり屋台骨として立ち、武士達の不満や不安を受け止めて来たからだ。

 楠木正成が湊川で死に、京を奪ってからと言う物、尊氏はその武士の棟梁としての務めを半ば放棄しているようにすら直義には見えた。

 直義が直接会いに行っても、以前のような出家願望を語るだけで、政務や宮方との戦いに関しては無気力な態度を見せる事が次第に多くなっている。

 兄は本気で天下を先帝(後醍醐帝)の望む通りにさせるつもりか、と直義は次第に苛立ち始めていた。

 先帝がその足利内部の混乱に乗じて武士達の中で密かに影響力を増して行っているのを掴んでいるのに、有効な手も打てないでいる。

 家長が最後には陸奥守と組む事にした、と言う事は、赤が伝えて来ていた。

 それを聞いて直義が感じたのは裏切られた、と言う思いよりも、自分達の不甲斐なさを突き付けられた、と言う思いの方だった。

 家長に見限られても仕方がない、と直義自身も思うほどに、今の足利は天下を担うと言う役目を果たせていなかった。

 だから家長が討ち死にしたのも、本当は自分と尊氏が殺したような物である。

 家長は尊氏の居室に向かった。

 途中で師直とすれ違う。師直は高一族を始めとした武断派の武士達の引き締めと、他の派閥の武士達との軋轢の解消に腐心しているが、それも尊氏自身の煮え切らない態度のせいで上手く行っていないようだ。

 表面上疲れた様子は見せていないが、内心はだいぶ辟易しているのが直義にも伝わって来ていた。

 それでも師直は、足利一族の執事として無心で尊氏に尽くそうとしているように見える。

 師直は何言わず直義に黙礼するとそのまま去っていく。声を掛けようとしたが、何も言葉は出て来ずそのまま見送った。

 尊氏は居室で写経をしていた。


「家長が討ち死にしたか」


 直義が入って来たのに気付くと、尊氏はまずそう言った。


「はい。陸奥守と密約を結んだ上で、奥州軍を上洛させるために戦った結果の様です」


「家長が我らから独立して別の道を歩み出す事はあるかも知れぬとは思っていた。しかし陸奥守と手を結ぶとは、な」


 尊氏は写経する手を止めずにそう呟いた。その顔からは一見すると感情は読み取れない。


「我らの不甲斐なさの故です。この国のためには先帝を止める事が何よりも先決だと思ったのでしょう」


 直接はっきり語り合った事はないが、この兄が先帝と五辻宮の暗躍やその目的についてここに至るまで把握していないとは思えなかった。


「それは少し違うぞ、直義」


「違う?」


「家長が陸奥守と組み、我らと別の道を歩む事にしたのは、家長がこの国の天下を担う器であったからであろう。それは今のわしの不甲斐なさとは関係の無い事だ」


 尊氏が何を言っているのか、咄嗟に直義には掴めなかった。


「家長には家長なりの理想の天下があり、それを目指すために陸奥守と組んだのだろう」


「有力な武士が皆それぞれ理想の天下を目指す事を許していては、天下は収まりませぬ。そこで皆の理想に上手く折り合いをつけて沙汰を下すのが、武士の棟梁の役割ではありませぬか」


「それで本当に天下が収まるのか。下にいる武士達の顔色だけを見て、様々な争いをその場しのぎの沙汰でやり過ごす事によって自分の地位を保つ、そんな武士の棟梁に天下を収める資格があるのか」


 尊氏は顔を上げないまま言った。直義に対して語っているのか、独り言を語っているのかは、分からない。


「それは、先帝の理想に従う、と言う事ですか。兄上」


「やはりお前も、先帝の真の目的には気付いておったのだな」


「楠木正成殿に、湊川で。家長殿を除けば、誰にも、話してはいませんでしたが」


「そうか、正成殿に、か」


 尊氏は一度写経する手を止めた。しかし顔を上げる事はやはりしない。


「本当は、新田義貞を通して光厳院を擁するよう言われた時に、わしにはあの方の目的が分かった気がしていた。まさかそんな事はあり得ぬ、と言う思いもあったが。しかし乱世が進む内に、他にあの方の目的はあるまい、と確信するようになった」


「あの方が目指す物は、それはそれで一つの理想である、とは思います。しかしまさか本気で武士の棟梁としての役割を投げ出されるおつもりですか」


「違うのだ、直義」


 ようやく、尊氏は顔を上げた。


「武士の棟梁として、天下を担う者として、わしも考えに考えた。この国に取って、どのような政の形が良いかをだ。どれだけ考えても、最後は今のこの国の政の仕組みが間違っている、と言う答えだけは変わらなかった。武士が武士の身分に執着する事は、この国に取って害にしかならぬ」


 それが、この国の全ての武士の頂点に立つべき人間が言う事か。

 直義は思わずそう言いそうになり、しかしその言葉を飲み込んだ。

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