7-21 北条時家
時家がとにかく一番に腐心したのは、五百の部下達に自分をしっかりと保たせる事だった。
北条時行は一万を超えた軍勢の中を自分の足で歩き回り、十人、二十人と言う兵の集まりに対して北条一族の怨念を説く。
それは本当に一族の怨念、と言う表現がしっくり来る物で、時家が聞いていてもたった一人の子どもの口から出ているとは到底思えないほどに暗く重たい物だった。
その怨念が、関東一帯から集まって来ている北条一族の残党に、凄まじい団結と士気を与えている。全員が幽鬼のようになって、一族の怨みを果たすために何の迷いもなく命を捨てる軍勢を作り上げている。
時家の部下達もはぐれ者であったとは言え北条一族の郎党だ。この怨念に触れ続けていると呑まれかねない、と思い、時家も時行のそれを打ち消すように、部下達の間を回っては言葉を交わす事を数日おきに繰り返した。五百の兵はしっかり他の軍勢とは分けていたが、総大将である時行がやってくるのまでは止める事は出来ない。
今日も時行は時家の陣にやって来て、兵達の間を回っているが、今の所、部下達は自分達が陸奥守の配下である、と言う意識をしっかり保ち続けていた。ただこれがこの先も長く続くようなら、時家が話すだけでは耐えきれなくなるかもしれない。
時行自身には、時家の部下を取り込もう、と言うような特別な意識は無いだろう。ただ足利との戦のために兵達に北条一族の怨念を説き続ける事が、自分の役目だと思い定めている。
時行の軍勢はかつての北条得宗被官の生き残り達が中心となっているが、それをさらに纏められるほどの大物はいそうになかった。時行を中心にした合議は思い出したように行われているが、それは形だけの物で、実際には時行や主だった者達の側にいる五辻宮配下が軍勢を操っているのはすぐに見て取れた。
今も時行には、僧形の男が二人、左右を守るように付いている。
やがて時行は、自分から時家の方にやって来た。そして、鎌倉で滅びた北条一族の事に付いて、時家にも語り出す。こんな風に時行が自分から近付いて来る時以外、時行に近付くのは難しかった。
はっきり、人の心を揺り動かし、引き付ける何かがそこにはあった。時家自身は北条得宗に対してかなり冷めた感情をないまぜにしているが、それでも油断すると引き込まれそうになるほどだ。
実際に時行の何が人を引き付けているのか、と言う事を考えても、言葉には出来ない。
戦の大将の中には、武勇や駆け引きの巧緻と行った物とは全く別の、ただ大将としてそこにいるだけで軍勢を強くし、兵達に自然と命を捨てさせるようになる素質を持っている者が稀にいる。
時家が知る限り今この国でそんな素質を持っていると思える者は足利尊氏一人だけだったが、時行にも同じような素質があるのかもしれない。
「時行殿」
途中で時行の言葉を遮り、時家は声を発した。
「はい」
怪訝そうな顔をし、それでも時行は話すのを止める。
「一度はあなたを見限ったそれがしに、恨みは無いのですか?」
そう言われると時行はさらに戸惑ったような顔をし、まずは横に控える僧形の男を見た。男が何も言わず頷く。
側にいる者の意を確かめなければ、自分の言葉でこの程度の質問に答える事も出来ないのが今の時行だった。ただ、自分で考える能力が無い訳ではない。
「時家殿が見限ったのは、私や北条ではなくあの時蜂起していた軍勢でしょう。時家殿はあそこで鎌倉を取っても足利兄弟に利用されるだけだと分かっておられ、その事で私達を諫めておられたのに聞く者がいなかったのですから」
「それで時行殿の元を離れるのは、我ながら不忠だと思っていましたが」
「負け戦と分かってそれに最後まで従わないのが不忠なら、最初に鎌倉が落ちた時に父上達に殉じなかった者達は私も含めて皆不忠でしょう」
「それは、確かに」
「私は、最後は逆賊尊氏と直義を討つために敢えて生き恥を晒していると思っています。時家殿が一度私の元を離れられたのも、陸奥守様に従われたのも、それと同じ事だと信じております」
相変わらず虚ろな、しかし同時に真っ直ぐとした瞳で時行はこちらを見詰めて来た。気圧されるような気分になり、時家は思わず目を逸らしそうになったが、どうにかそれを堪え、頷き返す。
「無論、心の底では同じ思いを抱いております」
気圧されているだけでなく、自分が思った以上に時行に対して一族としての感情を持ち始めている事を意外に思いながら、時家はそう答えた。かつて鎌倉にいた頃は、従弟とは言え疎遠な関係だったのだ。
夜になり、本営に楓が訪ねて来た。
「良く入って来れたな。部下達にはしっかり見張りを命じていたんだが」
時行の軍勢を味方だとは思っていなかった。特に中に入り込んでいる五辻宮の配下は、隙さえあればすぐさま自分の暗殺を狙って来てもおかしくないだろう。
「いやあ、さすがにそれは無理ですから。私の顔を知ってる人を見付けて通してもらいましたよ」
楓はいつも通りの軽薄に見える表情だった。しかし何かを吹っ切ったような印象を時家は受けた。
「何か、陸奥守様からの指示が?」
「はい。書状には出来ない事なので、口頭でお伝えします。だから私が直接来ました」
そう前置きすると楓は帝の本当の狙いと、陸奥守が帝を止めるために上洛する決意をした事を伝えて来た。
帝の目的を聞いても、時家には大きな感情は浮かばなかった。そう言う理想もあるのだろう、と思っただけだ。それよりも陸奥守が天下を大きく動かす戦をする決意をはっきり固めたと言う事と、自分がどんな形にせよそれに加わる事が出来る、と言う事の方が、感情を大きく動かしてきた。
「だがそうなると、時行殿の軍勢は厄介な存在になるな。新田義興殿の軍勢もだが」
「ええ。友軍として同行させればどこかでこちらの作戦を台無しにされる恐れがありますし、それ以上に突然背後から襲って来る事も有り得ます。かと言って形としては味方ですから先手を打って叩くと言う事も出来ません」
「内部から働きかけられれば、とは思っていたが、五辻宮の勢力が強く今の所中々それも難しそうだ。そして軍勢として見れば、この軍は恐ろしく強い」
「そんなに、ですか?」
「精鋭だとかそんな言葉で表現できる物ではない強さをこの軍は持っている、と思う。脆い部分は脆いだろうが、この軍が持っている力がいざ外側に向けば、雪崩のような勢いになると思う」
「何とかして、関東に釘付けに出来ませんか?」
「急には、思い付かないな。仮に時行殿一人をどうにかしても止まるのかどうか、と言った所だ。何しろ全軍が尊氏と直義を討つべしと言う怨念に凝り固まってしまっている」
時行率いる北条の残党がそんな集団になる事を見越して以前から働き掛けていたのだとしたら、帝と五辻宮の慧眼には侮りがたい物があった。
「確実にこの軍勢を止めるには、正面から戦って相当数の武士を討ち取るしかないだろう、と思う」
そう言うと楓は腕を組んで考え込んだ。
一つ、時家の中には思い付いた手があった。しかしそれは今口に出せる事では無い。実現性があるかどうかまだ分からない手だからだ。そして自分が思い付いたと言う事は、恐らく陸奥守とそして師行も気付くだろう。
「ところで、兵糧などは苦労してませんか?それに付いても必要があれば聞いてくるように言われてるんですが」
ここで自分が悩んでも仕方ない、と割り切ったのか楓は話を変えて来た。
「今の所は。関東には北条に心寄せるものも根強いからな。何なら、食事を軍営で取っていくか?」
「あ、じゃあご馳走になります。色々、陸奥での事も話したいですし」
「それはいいな。師行殿や勇人の近況など聞かせて欲しい」
この時行の軍勢の異常な空気から、少しだけでも逃れて奥州軍の空気に触れたい、と言う気分もあった。
「はい」
時家の言葉に、楓は嬉しそうな笑顔を作って頷いた。軽薄さの無い、年頃の娘らしい笑顔だ、と時家は思った。
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