2-3 足利直義
各地から寄せられてくる叛乱の報告に対して、その詳細を調べ上げ、加わった者の名を記録し、そして叛乱の背後にある物を見極めるとそれに合わせて対処を決めて現地の足利方の武士達に討伐や懐柔を指示する、と言う作業を日々繰り返している。
中央の政治の混乱は地方に波及し、各地の北条氏の遺領、そしてその中でも特に倒幕以降足利に新たに与えられた所領で叛乱が頻発していた。
これは朝廷に対する叛乱であり、形としては未だ朝廷の臣である足利はそれを討伐する立場であったし、足利に対して裏切り者としての消し難い恨みを抱いているであろう北条の残党は、足利としても潰してしまいたい相手である事は事実だった。
ただ、直義も兄である
叛乱には、北条とは強い繋がりの無かった豪族達も多数関わっていた。北条に引きずられる形だったが、それを引き起こしているのは結局の所今の朝廷の政に対する不満で、間違いなく武士達は朝廷に代わって政を行う存在を求めている、と直義は思っていた。
尊氏がそれになろうとするのであれば、今叛乱を起こしている者達の大半はいずれ味方になる。そう考えれば、単純に力だけで押さえ付け、すり潰すと言う訳には行かなかった。
足利こそが、と思い始めている者達がすでにいると言う手応えはある。今は表向きは朝廷に従いながら、慎重に地方の武士達の心を掴んで行く局面だった。
表向きの戦以外に一つ一つが煩雑で気の長い懐柔工作をずっと続けている。自分が意外なほどにそう言った工作に長けていて、そして楽しんでいる、と言う事をこの所直義は新鮮な気分で自覚していた。
兄の尊氏はそう言った面は全く駄目で、一見すると雑で鈍いとすら思える所、色々な物を軽率に投げ出してしまいかねないような投げやりな所があった。ただ、本当に大切な部分では自分には思いも及ばないほどの大きさで武士達の心を惹き付ける事をする。それは恐らく天下人の資質で、頭で考えるだけの自分では決して及ばない部分だ、と直義は思っていた。
恐らく足利の当主が尊氏では無く自分であったなら、北条氏を倒すために倒幕の軍勢に呼応する、と言う機を掴む決心は出来なかったし、それが天下への足掛かりになる、と読めもしなかっただろう。
今、尊氏は京に留まっている。自分が執権として鎌倉に赴任して兄と分かれて以降、兄が今何を考え、何をしているのか、考えようとする事を直義はやめていた。
兄は天下を取るために自分には見えない物を見て、じっと機を測っている。遠く離れた鎌倉からそれを忖度して動こうとしても仕方ない事で、今は自分は自分に出来る事をやるだけだ、と直義は思い定めている。
時折、放っておけば些細な事がきっかけで全てを台無しにしてしまいかねないような移り気な顔が表に出る事は確かにあった。だが、それは側に控える執事の
兄は自分よりずっと短所の多い人間だった。そしてその短所が最後には長所になってしまうような得体の知れない大きさがある。子どもの頃にそれに気付いて以来、直義は兄と張り合おうとする事を諦めていた。
自分は兄と比べて確かに小さいが、それでも兄に出来ない事を補える。そうやって自分と、そして師直が兄を支える事に徹している限り、足利の天下に手が届かない事は決してないはずだった。
自分がその程度には非凡な人間であると言う自惚れは、直義にもあった。
「直義様」
直義は忍びと言う物を好んではいなかった。役に立つ、と言う事は分かるのだが、賤しい者達、と言う意識がどうしても先に立ってしまう。ただ、尊氏も師直もその辺りに気が回るような人間ではなく、自然と三人の中で直義が裏の仕事を受け持つようになった。
「奥州で動いている者達からの話ですが」
「何だ?」
「隙を見付けた、と。許可を頂けるのであれば試みさせますが」
不快な表情を作りそうになった自分を直義は咄嗟に抑えた。陸奥守北畠顕家の暗殺を試みる話だった。
「構わぬ。手の者達に任せよ。ただし決して足利の名は表に出さぬようにせよ」
不快になった所で、暗殺で消してしまえるのであれば消してしまった方がいい相手なのは確かだった。天下を取るためには綺麗事だけで済む訳は無く、誰かが手を汚さなくてはならないのであれば、それは自分の仕事だ。
「はっ」
義博は表情を変えずに頷いた。この男は快も不快も表に出さず、忍び達を使う。
「それと、鎌倉で新しい動きを見せている者達がいるようです」
「目的は?」
「恐らく大塔宮の所在を探っているのかと」
「楠木正成か」
「陸奥からの者もいるようです」
朝廷から引き渡される形になった大塔宮は現在、直義の指示で二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉していた。
この尊氏の最大の政敵であった親王を、直義はどうにも扱い兼ねていた。
軽率であり、短慮である。しかしその裏には決して屈せず何をしてでも自分の意志を貫き通すと言う剛直さと荒々しさがある。今は一見すると失意の底にいるように見えるが、実際にはどれだけ力を奪っても何か一つのきっかけさえあればどこまでも燃え広がって行きかねない種火のような物だ、と直義は感じていた。そのきっかけと言うのは例えば楠木正成や北畠顕家によって助け出され、担ぎあげられる事かも知れない。
万全を期すには斬ってしまうしかなかった。しかし失脚しその身柄を引き渡されたとはいえ、この情勢の中、親王たる人間を安直に斬る、と言う訳にもいかなかった。やるのであれば、もっと世が乱れる時を待つしかない。
「良い、しばらくは放っておけ。東光寺の守りのみを固めておけば良い」
「はっ」
「奥州をどう見る、義博」
「見事に、治められております。戦では南部師行の働きが大きいようですが、それでも、あの静けさにはいささか不気味な物すら感じますな」
直義は頷いた。奥州は京から遠く離れ、さらに北条の得宗領であった土地も多い。しかもそこを治めに入ったのが未だ二十歳にもならない公家なのだ。それがこれほど見事に平定されてしまうとは、直義も思ってはいなかった。
今、足利尊氏に対抗出来る大将がいるとすれば、それは同じ源氏の棟梁の血を持つ新田義貞だけである。誰もがそう思っている。しかし真に警戒すべきは北畠顕家なのではないか、と関東から北を見ている直義は思っていた。
「今は忍びを動かす以外に手の出しようがない。もうしばらくはな」
「家長殿はまだ動くのは難しいようですな」
顕家に対抗するために奥州に入る事になっている斯波家長は父である高経の補佐のとして現在は紀伊で起きている叛乱に当たっており、もうしばらくは動けそうにない。多賀国府が力を蓄えて行くのを表向きは指をくわえて見ているしかないのが中々に腹立たしくあった。ただ関東周辺も乱れている以上、今は直義も大きく動きようがなく、いずれ家長が奥州に入った時に備える以外になかった。
家長は若干十五歳の少年だが、判断力は完成しており、その怜悧さと肚の座り具合には直義すら舌を巻く物があった。経験の無さを補う家臣団も良くまとめており、能力と家柄を見れば自分以外で奥州を抑えるために足利から出せるのは彼以外にいない、と言うのは尊氏、直義、師直三人の共通した結論だった。
公卿に北畠顕家あらば武家に斯波家長あり、という意識が無い訳でもなかった。それほどに足利にとっては至宝と言える若き人材である。
彼を名実ともに足利を担う武将に育てるのも、自分の役目だった。
話は終わった、と判断したのか、義博は一礼して出ていった。
一人になった直義はふと仕事を止め、自分が浮足立っていないかの自己吟味を始めた。
足利は源氏の一流であり、鎌倉幕府の中では最も有力な御家人ではあったが、それでもどこまでも北条一族の下風に立たなくてはならない身分だった。倒幕の戦の折に宮方に着く決意をした時も、少なくとも直義にとっては北条氏に圧迫されている現状から抜け出す事を望んでの事で、天下など見えていた訳ではない。
それが朝廷の愚かさや兄尊氏が直義の想像以上の器量であった事が相重なり、足利の天下、と言う物が目に見える所まで来てしまっている。
確かに血が熱くなる物はあった。だがそれでも自分は浮足立ったり、冷静さを欠いたりなどしては行けない、と直義は日課のようにこうして自分を見詰め直す事を繰り返していた。
自分はどこまでも小さくまとまって、兄の取りこぼしを拾って行けばいいのだ。
「義博様の手の者では、陸奥守は消せませんな」
不意にそんな声がした。思索を打ち切り、顔を上げると一人の男が部屋の隅に立っている。
「断りなくこの部屋に入って来るな、赤」
「申し訳ありません。ですが表から入ると他の忍びの目にも留まりやすくなりますので」
赤は薄く笑って答えた。
自分にも常に警固は付いている。特に腕が立ち隙が無い者を集めているはずだった。それでも易々と許しを得る事無くここに入って来た事に、直義は驚きと薄気味悪さを感じざるを得なかった。
義博の下にいる者達とは別に直義が直接使っている忍びだった。赤、青と名乗る兄弟が頭目で、下に十名ほどがいる。
義博配下とは分けて使っているのは、この兄弟が自分達を売り込んで来た時、義博の手の者達と比べて明らかに上の腕を見せてみた事と、自分達が主に暗殺を生業とする忍びである、とはっきり名乗ったからだった。
使い始めたのはちょうど倒幕が成ってからの頃で、義博にもこの兄弟の事は伝えていなかった。問われたら話すつもりだったが、義博から何かを尋ねて来た事は無い。直義が別に忍びを使っている事に気付いていても干渉する気が無いのか、それとも義博の手の者にはこの兄弟の存在すら掴む事が出来ていないのか、直義には判断がつかなかった。
赤と青は見た目は同じだったが、赤は良く喋り、青はほとんど無駄な口を効かないので、区別は簡単についた。
天下を取るためには綺麗事だけでは済まない。その中でこの兄弟は一番暗く汚い部分だ、と直義は思っていた。
「陸奥守は裏側も手強いか」
「本人には隙もあるように見受けますが、下にいる忍び達がどうして中々」
「そうか、義博では無理か」
「義博様ご本人が、もうどこかで倦んでおられますな、忍びを使う事に」
「どう言う事だ、それは」
「義博様の手の者の動きを見て何となくそう思っただけでございます。それがしのような身分の者が口を出す事ではありませんでしたな。戯言と思ってお聞き流しくださいませ」
「いや、その言葉は覚えておこう。それで消せるか、お前達には」
「中々うすら寒くなるような仕事になりますが、直義様の御下命とあらば。ただし仕込には手間と時間が掛かりますので、まずは義博様の手の者達が仕損じてから、と言う事にしたい物ですな」
「時期はお前達に任せる。私には忍びの事は分からぬ」
「ありがとうございます」
「京や鎌倉での楠木正成や陸奥守の手の者達の動きは、お前はどれほど掴んでいる、赤」
「それなりには。ただ我らの姿をあまり見せたくもありませんので無理な探り方はしておりませんな。無論、調べろと仰せであれば調べますが」
「いや、良い。大塔宮の奪還を目指して動いている者達がいる。その者達を消してしまえるなら消してしまいたいと思ったが、お前達に取ってもたやすい事でないのならば無理にとは思わぬ」
「申し訳ありませぬが暗殺の準備を進めながら片手間に出来る事はありませぬ。それに正直な所、陸奥守配下の忍び達をかわして陸奥守を消すのよりも、配下の主だった忍び達を直接消す方がいささか難しゅうございますな」
「そういうものか」
「まあ、それもそれがしの見立てでは、でございますが」
言って赤は薄く笑った。やはり不快な男だった。所詮下賤の身分の者、と思おうとしても、言葉を交わしているとどうしても得体の知れなさに気圧されているような気分になり、見下し切る事が出来ない辺りが、ますます直義を不快にさせた。
「話が終わりならば出ていけ」
直義は手を振って出て行くように促しながら言った。赤は一礼すると部屋から消えた。
一人になると、直義は一度中断された思索を、再開し始めた。
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