第七章 無関心で騙すのは無意識には効かない


布団からズルズルと抜け出し朝の支度をする。

あぁ、今日も電車は満員なのだろうか。

エナジードリンクは着いてからにしよう。

そんな事を考えながら寝ぼけた顔に化粧をし、荷物をかき集めて家を飛び出す。

まだまだ刑事として新人な野崎に落ち着いた朝などない。

朝シャワーして犬の散歩してから出勤なんて優雅な女性に憧れる時もあるがそんな余裕はない。

昨夜だって悶々と考えた結果深くは眠れていないのだから。

こんな生活をしているが最低限の守られた、いわゆる一般人だ。


昨日聞いた話の衝撃がまだ抜けていない。

彼女は…久保田奈緒はそんな最低限も守られずに命を奪われたんだ。

あの医師達のように奪ったのが医学のためならば許され、西森のように復讐のためならば檻に入れられる。

公にされない事件というのは思ってる以上にこの世に存在するらしい。

ナイの事件もそうだ。

結局警察といえど全て取り締まれるわけじゃない。

何か見えない力に制されれば手を引くしかないんだ。

スライドしていく景色を見ながら絶望と言うよりは失望といった脱力感を感じため息を漏らす。


しばらくすると電車は止まりうるさい駅を抜けて刑務所を目指す。到着し3人の待つ部屋へ。

少しは打ち解けたと感じていいることから昨日より少しは軽い足取りで部屋へと向かう。

その手前で刑務所員から川原に頼んでいたパソコンを受け取って説明をうけた。

使用条件や注意点を聞きパソコンを持って部屋の中へ。


「おはようございます。」


野崎の手に持ったパソコンに食いついた黒谷が話しかける。


「おはよ。許可出たんだ。」


「はい。ただこのパソコンは画面を共有し本部の人間が見ています。それと同時に録画もしていますのでおかしなことはできませんよ。報酬のためにも変な裏切りはやめてくださいね。」


「はいはい。」


ニヤニヤと笑いながら黒谷はパソコンを受け取って触り始める。


「とりあえずこの事件に関係ありそうな頃拾ったらいいんだろ?裏サイトの掲示板とかの噂話見てくるわ。」


そう言って小気味いいタイプ音を響かせながら楽しそうに操作を始める。


西森はパソコンを触り始めた黒谷を見た後にジロリと野崎を見る。


「で、僕の頼んだ本はどうなりましたか?」


「あ…」


「もういいです。」


「すみません。すっかり忘れていました。」


「そんな気はしていました。」


「……」


申し訳なさと気まずさから言われてもないのにそっとナイのストローを抑えて向けてみる。

突然の事に首を傾げるナイだったが忙しそうな黒谷を見て納得しストローを咥えて飲んだ。

困っている野崎を見てやれやれと肩をすくめた西森は仕方ないと言わんばかりに口を開く。


「じゃあ、昨日は僕が話したんですから今日は2人のどちらか話してくださいよ。読み飽きたこの本しかないんで代わりに。」


どちらが話すんだ?と言わんばかりに2人は顔を見合わせた。

ナイはゆっくり左右に揺れながら黒谷をじっと見ているが話そうにない。


「わかったよ俺話したらいいんだろ。」


黒谷はパソコン作業をしたまま話し始めた。


「作業しながら話せるんですか?」


恐る恐る野崎は問う。

本当なら作業に集中してもらうべきなのはわかっているが、好奇心が抑えられない。

聞けるのならば黒谷の過去も聞いてみたいというのが本音だ。


「これくらいの作業なら話しながらでもできるからいいよ。けど聞いてから後悔すんなよ。」


そう言ってゆっくり顔を上げた黒谷は改めてある一人の人物を見ながら言い直した


「後悔すんなよ。」



そう言って、昨日の西森のように黒谷の話が始まる。

彼の話の始まりは、真っ昼間なのに今にも雨が降りそうな重い雲の下からだった…。




これは今から何年も前。

繁華街を彷徨く黒谷。

彼は健全に生きる人から煙たがられる存在、いわゆる半グレのようなものだ。

高校を中退してからはお世辞にも真っ当な人間とは言えない人達に世話になり、パソコンが得意だった事から技術を買われ様々なネット犯罪に協力していた。

この日もいつも仕事をくれる男に会いにいく途中だった。

ポケットにねじ込んだタバコを取り出して火をつける。

くわえタバコで道を歩き煙を吐き出せば目の前で直ぐに消える。

匂いだけが鼻に残ってまたもう一度吸い込む。

短くなったタバコを交差点のガードレールでもみ消して道端に捨てた。


タバコを捨てた場所すぐ近くにある雑居ビルの一角にある怪しげな事務所に入っていく。

表向きは不動産屋の看板がついていたがとても一般人が入りたいと思う雰囲気ではなさそうだ。

黒谷は中に入って受付の女性に頭を下げた。

受付の女性は黒谷の顔を見ただけで理解し奥へと通す。

中に入れば厳つそうなお兄さん達が物騒な会話を繰り広げていた。


「おお。黒谷来たか。」


厳ついお兄さんの中でもとびきり厳つそうな男が黒谷に声をかける。


「ここ座れ。今日はちょっと頼みがあってな…」


書類の束をバサリと黒谷の前に置いて話を始める。

いけないお仕事のようだ。

少し違法なアクセスをして少し違法な送金などをして欲しいという依頼だった。

いつものことだなと思い内容を聞いて報酬金を取り決め依頼を受ける。


「黒谷。いつも悪りぃな。」


「いや、俺の方こそいつもいいお小遣いもらえて助かってます。」


「で、悪いんだがもう一つ頼みがあんだよ。」


「はい?仕事っスか?」


そう言うと厳つい男が顎で合図をした。

すると1人の若い男が1人の若い女性連れてきた。


「こいつ。ちょっと家に住まわしてやってくんねぇ?」


突拍子もなさすぎて黒谷は目を白黒させて2人を交互に見る。


「えっと…」


「詮索すんな。行く所がねぇからしばらくの間住まわせてやってくれ。生活費は俺から払うから心配すんな。もちろん報酬もだ。」


「まぁ…それならいいんですけど…汚いっすよ?俺ん家…」


「構わねぇよ。な。サチ」


サチと呼ばれた女はコクリと頷いた。


長い金髪で華奢なその人は気が強そうで綺麗な女性だった。

その女性に向かって軽く頭を下げる。

なんだか面倒そうな事に巻き込まれたなぁ…嫌な予感がビシビシとするが好奇心と諦めで頭を激しくボリボリとかいた。


いつまでとか、なんでとか、誰とか

聞きたいことは山ほどあったけど、詮索するなと言われればもうこれ以上聞きようがない。

圧に負けてサチと呼ばれた女性を連れて家に帰る。

帰り道では気まずさを解消する為に声をかけてみた。


「えっと…サチさんだっけ。俺の家汚いけどいい?一応ソファとベッドあるから寝る所はあるし、風呂トイレ別の家で…あとは…」


「私は何でも大丈夫。すみません突然。」


ぶっきらぼうだけど、申し訳無さそうに返事をしてとぼとぼと後ろを着いてくる。

話すことに困って無言のまま歩けば家に着いていた。

家に招き入れ散らばったゴミを適当に纏めて座れる場所を作る。

都内に無理矢理借りたワンルームはとても狭く日当たりも悪い。

厳ついお兄さん達に世話になって借りた部屋なので文句は言えないが、壁は薄いし狭いとても居心地が良いとは言えない部屋だ。

その狭い部屋にソファとベッドを詰め込み、その上パソコン機器がひしめいている。

3つのモニターが煌々と照らす2人がけソファにサチを座らせた。


「狭いしものが多いけど自由に使って。ただパソコンは仕事の事があるから絶対触んなよ。お兄さん達怖いから」


「うん」


「居るものある?パジャマとかなんも持ってねぇよな?」


「今の服で大丈夫。平気」


そういう彼女の服はショートパンツにTシャツ。寝にくそうではある。


「俺ので悪いけどスウェット使う?」


適当にクローゼットからスウェットを掴んで彼女に渡す。

洗面所を顎で指して促すと、彼女は黙って着替えに行った。

服を着替えて恐る恐る部屋に戻ってきた。


「サチちゃん…って呼んでいい?」


「うん、サチでいいよ。お兄さんは?」


「俺は黒谷将。」


「じゃあ、将。」


「いいよ。サチは訳ありだろ?なんか聞いたらやばそうだから聞かないけど暫くはここに居る?」


「いいなら居る。迷惑だと思うから適当に出かけるし…寝る場所だけ貸してほしい」


申し訳無さそうにソファの上でモジモジと下を向く。


「あぁ、別に寝る所にしてもらっていいし

お兄さん達に言われたら断れないしいつまでいてもいいんだけど…暫く居るなら色々買い揃えた方がいいよな」


「別にいいよ…」


遠慮しているのだろうが、きっとこれから必要な物が増えるんだろうななんて考えながら、お茶を彼女の前に置いた。


「適当に寛いでて。ちょっと頼まれ物があるから作業するわ。冷蔵庫に入ってるもん好きに食べていいから。足りないものはコンビニとかで…って金持ってる?」


そう聞くと彼女は肩をすくめて首を横に振った。


「そんな気はした。いいよお兄さん達お金くれるって言ってたから立て替えとくよ。とりあえず1万渡しとくから食事とか好きに使って。なくなったら相談してくれたら。」


「ごめんなさい。」


「ん。」


1万円を渡し彼女の横に座ってパソコンを触り始める。


「見ない方がいい?離れたところに座った方がいい?」


「あぁ、いいよ見てもわかんないような作業だから。床汚いし」


そう言ってサチを隣に座らせたまま作業をし始めると、サチは口には出さないが驚いていた。

たくさんの文字列や見たことのない画面に圧倒されているようだった。

しばらく作業を続けているとおもむろにサチが立ち上がって離席した。

トイレか何かかと思って放っておいたが中々帰ってこなかった。

あまりに長かったので振り返ってみると後ろでサチがゴミをあつっめて掃除していた。


「あ…勝手にごめん」


「いや、むしろ助かるけど気使うなよ?」


「いや…その…」


「どうした」


「寝るのに…あまりにも汚かったから…つい…」


「それはすまん。」


そのまま掃除を任せて作業に戻った。

何時間作業していただろう。

途中でサチが外出して戻って来た気がしたが気に留めず作業を続行してた。


長時間の作業で疲れた体を伸ばすために、軽めのストレッチをして後ろを振り返る。

すると サチが オシャレな料理をしてた 

なんてことはなく、買って来たと思われる大量の肉を焼いていた。


「豪快すぎねぇか晩御飯!!」


思わず爆笑してしまった。


「男の人に作る料理とかわからないしとりあえず肉でいいかなって。」


「合ってるけど、やり過ぎだぞ。」


肉のみの晩ご飯を作ってもらい笑いながら食べた。

素性のわからないヤバい女なのかもしれないが、晩飯の相手くらいにはなりそうだ。

肉を食べ終えまた仕事に戻る。

サチは片付けをし風呂に入りベッドを陣取って寝たようだ。

気にしつつも作業を続け空が白んできた。


「寝てないの?」


背後から声がかかり振り返る。

寝起きのサチがこちらを見ていた。


「うん。仕事終わるまではだいたい寝ないでぶっ続けでやる」


「ふーん…」


不服そうな返事をしたサチは無防備に背中を向けて寝直した。

よく分からないが女心と言うやつか。

素知らぬふりでパソコンに目を戻した。

ここで襲わねば男が廃る等言う者も居るだろうが、彼女を紹介してきた相手が怖すぎてそんな気にはなれない。

そんな事で死ぬ気は無いと思いながらも少し悔しい。


作業に没頭していた間、サチは朝に出かけ夜に帰ってきた。

外出して気分転換したのか少し顔色も機嫌も良いようで、嬉しそうにしながら風呂に消えていった。

そんな頃作業が終わり黒谷は気絶するようにソファで眠った。


どれくらい眠っただろう。

ぼんやりした頭で辺りを見渡す。

丸2日徹夜した後の倦怠感は凄まじかった。

時計を見れば朝の9時。

昨日の夜サチが帰ってきてすぐに寝たから12時間ほど寝続けたようだ。

ベッドを見ればサチが寝息をたてていたので、起こさないように横を抜けてシャワーを浴びる。

脱衣場にはサチの脱ぎ捨てた下着や私服が丸めて洗濯カゴに投げ込まれていた。

よく見れば投げ込まれたタオルに極微量の血が見えた。

怪我をしているのか?いや、これは聞かぬ方がいい物かもしれない。

悩みながらも下着を横目に

据え膳食わぬは…いや、まだ死にたくない。

そんな事を思いながら身支度を整えて厳ついお兄さん達の元へ報告に行く準備をする。


「起きた…」


声がしたので振り返ればのそりとサチが起き上がって目を擦っている。


「お、起きたか。仕事の報告に事務所行くけどサチちゃんも来る?」


「うん。する事ないしついて行っていい?」


「わかった。」


そう言って、外に出れるように適当な服をサチに貸した。


「サチちゃんさ。下着投げ込んでたけど今どうしてんの?」


「昨日貰ったお金で買ってきたよ。期待した?」


「してねぇ!」


ケラケラと笑いながらサチは着替えに行って、少し大きいが黒谷のデニムとトレーナーを着て外へ出た。


事務所まで歩き、途中でまたタバコに火をつける。

するとサチが手を出てきた。


「1本!」


「ん。」


ソフトボックスから1本タバコを出しサチに向けると彼女はそのまま口で受け取った。そしてライターを手渡してやる。

シュボッと音がした後チリチリと燃える音がし、彼女の呼吸音がした。


「喫煙者だったんだ」


声をかけると彼女は笑顔で返事した。


「吸ったり吸わなかったり!イライラした時とかは紛らわせるのにいいよね!」


イライラした時にタバコは最適だ。

煙をくゆらせてる間に適当に時間をやり過ごせる。

考え事も、暇つぶしも最高の相方はタバコかもしれない。

今度は黒谷が彼女に笑顔で返事をし、短くなったタバコをまた以前と同じガードレールでもみ消した。

彼女もそれに続きガードレールでタバコをもみ消し、吸殻をアスファルトに落とす。

散った赤い火花は地面に着く前に真っ黒な灰に変わって…いやそれどころか地面に着く事さえ無くどこかに舞って行った。


事務所に上がるといつもの受付のお姉さんに中へ通される。

中からはいつもより激しい怒号が聞こえるが関わらないのが1番だ。


扉を開けば見知らぬおじさんが厳ついお兄さんに頭を下げているが見えない事にしよう。


「お疲れ様です。頼まれ事完了してますよ。確認して貰えました?」


「おー!黒谷!さすが仕事が早ぇな!確認してくるからちょっと待ってろ!」


そう言って部下に顎で指示をすると、部下はパソコンを叩き、厳ついお兄さんに向かって頷く。


「よし、ご苦労さん。報酬これだ。」


茶封筒を受け取りパラパラと中身を確認し、お辞儀して懐にしまう。

その時後ろの方で「許してください!許してください!」と叫び声がした。


「黒谷。騒がしくして悪いな。お行儀悪いやつが居てよぉ。」


「いや。平気っすよ。それよりお小遣いなんか多かったみたいっすけど…」


「あぁ!サチが世話になる分だ。気にすんな」


「あ、はい。」


それを聞いたサチは軽く頭を下げた。


「サチの事はあの人に頼まれてっからな…」


一瞬厳ついお兄さんの顔が険しくなったのを見逃さなかった。小さく言われた”あの人”とは誰だろうか。


「え?あの人?」


「サチを隠しとけって依頼人がな。まぁ気にすんな。」


「はぁ…」


この世界では首を突っ込んだだけで死ぬ事になる事が多過ぎる。

どこにも首を突っ込まず根無し草をしている方が幾分長生きできるだろう。

今回も深く知ろうとするのは辞めた。


「まぁ、しばらくサチは頼むから、適当に生活費は請求しに来いよ。仕事も回すけどそれ以外でもいつでも来いよ。」


その時だった。気前よく笑ったその男の後ろでパンッと乾いた音がした。


「あーもー。客が来てる所で何してんだ」


まるで子供がミルクを零した程度のリアクションをした厳ついお兄さんは床に拡がった赤いミルクを眺めて注意する。


「ダメだろうが。カタギ巻き込んだら。」


「すいません…」


圧に押された部下達は頭を下げた。


「黒谷、サチ。なんも見てねぇな。早く帰れ」


「はい。お疲れっした」


そさくさと2人でその場を後にして事務所を出る。


「サチちゃん大丈夫か?」


サチの顔を覗きこめば、胸元を抑えてハァハァと荒い呼吸をしていた。


「そりゃショックだよな。ほら、タバコ」


1本箱から取り出しサチに渡す。

するとまたサチは口で受け取った。

しかし動揺したのか黒谷の指まで噛んだ。


「何してんだこら。」


驚きながらも手を引き抜くと、サチも驚いた顔をしてその後少し照れて笑って見せた。

火をつけてやると深い深呼吸で煙を吸い込む。

2人で煙をふかせながら、行き道で捨てた2本の吸殻の横を抜けて家に帰る。


家に帰れば気まずそうにしているサチ。

やはり男の家で2人きりは気を使うのだろう。

とは言え、仕事の終わった今することも無い。

彼女の事は気になるが聞いて深入りしてしまえば身を滅ぼしそうだ。


「黒谷さんはなんでこんな生活してんの?」


踏み込んできたのはサチの方だった。

質問に答えていれば時間は過ぎるだろう。


「俺はね…中学くらいから真面目にするのが飽きちゃって、地元のイケナイ先輩とかに紹介されてこんなお仕事してる。パソコン強いって取り柄があってよかったわ」


「ふーん。先輩ともお仕事するの?」


「ううん。先輩はね…まぁどっかの土の中にでも居るんじゃないかなぁ」


「ごめん」


「いいよ。この辺はそんな世界だから。仕方ねぇよ。だから俺は深入りしないって決めたし、さっきの事務所だってちょっとばかし喧嘩してただけだろ」


「そうだね。ちょっと喧嘩してた」


「そうそう」


「家族は?」


「俺は家族と縁切って出てきちまったから誰とも連絡取ってない」


「そっか。私はね。弟がいる」


おもむろに話し出したサチをちらりと見る。

自分の事を話す気になってくれたのは嬉しいが、これが深入りってやつだ。と頭の中で警報が鳴る。


「家族最低だから居ないってことにしてるけど、弟だけはすごく可愛い。」


「いいじゃん。今でも仲良し?」


「うん。弟はすごいいい子だから親に逆らわず家族ときちんと過ごしてるけどね、私は親にも嫌われたから飛び出したの。けど、弟は可愛いからこっそり会いに行ってる。」


この若さでこの世界に関わってるんだから、家庭環境は良くないだろうなと思っていたが、思っていた通り複雑なようだ。


「実は昨日も会いに行ってた。弟に」


「それでご機嫌な顔して帰ってきてたのか」


「そう。姉さんに会えて嬉しい!って喜んでて。弟めちゃくちゃ頭良いの。それで今度大学だって。東京帝国第一大学。日本で今1番頭のいい大学受かったんだよ。」


「へー。頭のいい弟か。サチちゃんはそうでも無さそうなのにな」


少し嫌味を言って笑えばサチの頬が膨れた。

けれど、弟の話をする時だけ彼女は心底幸せそうに笑っていた。

その本当に幸せそうな笑顔が黒谷の好奇心を刺激する。

彼女が知りたい。関わりたい。

けれど、そうすればここでは生きていけないと戒めてぼんやりとした笑顔を向けるだけだった。


それから2人で色んな話をした。

知りすぎないために好きなテレビや好きな服、好きな場所や好きな食べ物。

くだらない話をして笑って夜が深くなればそれぞれの寝床で眠りについた。


昼間に事務所で見たように。

簡単に人生が終わってしまう世界で、こんな風に知りたいと思ったのは彼女だけだろう。

けれど、まずい事に何か訳ありでヤバそうな女だ。

青春映画のように後先考えず突っ走れるほど馬鹿じゃない自分が情けない。

頭を巡らせながら眠りに落ちれば。

夢の中では昼間の事務所の死体の横であの笑顔で笑う彼女がこっちを見ていた。

夢の中でも俺は選べと迫られているのか。

強迫観念が夢の中まで追ってきた。


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