第33話 プールで遊ぼう 釣り編

「あー……つー……」


 俺はゾンビのような独り言を呟き、最近よく待ち合わせ場所にしているY字の歩道橋で、珍しく加美川先輩を待っていた。


 結局あのあとあまり眠れず、一時間ほど目を瞑(つぶ)り、仮眠を取ったということにして俺は待ち合わせ場所に行くことにした。


 前回、前々回と遅刻を重ね、流石にこれ以上は遅刻できないと考えたからだ。


 夏の太陽は今日も殺人的で、暦の上ではあと一、二週間もすれば、秋のはずなのに、空にたたずむソイツは空気を読む気がないとばかりに今日も強火で人々を焼いている。


 とにかく、くらくらするほど暑かった。


 調べた限りでは今日一日は快晴、午後から四十度を超えるそうだ。

 絶対バグってる。天気のばか。


(しかし先輩もついてないよな……)


 天気アプリからアプリを切り替え、先輩からのラインを見れば、電車が止まった旨のトークと、ごめんと可愛らしいペンギンが謝罪しているスタンプ。


 ニュースサイトを開けば俺と先輩が使っている電車が人身事故だか、駅構内でのトラブルがあった速報の記事があり、運悪く先輩がその影響を受けてしまったらしい。


(かと言って俺も徹夜……というかほぼ完徹だし……)


 仮眠時間1時間でこの猛暑は流石に死んでしまうだろうと、俺は他人事のように現状をぼんやり考えていた。


 現に地面がぐらぐら揺れている。


 喉元過ぎれば熱さもまた涼しいだったか、背筋に寒気が走る。


(あ、あ、やば、これ熱中症じゃーー)


「ーーサク君、お待たせ。って!? さ、シャク君! ……サク君、大丈夫?!」


 物凄く遠いところから、先輩の声が聞こえた気がしたので、俺は重たい手をなんとか持ち上げて先輩に返した。


「……べ、……べルプでず。涼しいところに……」


 自分でもびっくりするほど、ゾンビのような声だった。


 ゾンビというかミイラかも知れないと、飛び飛びの意識で考えたところでついぞ力尽きて俺は膝を折った。


 石畳に触れた部分がが熱かったが、いまはそんなことよりも、ここから離れないと死ぬ。マジで死ぬ。


「マクドナ行きましょう。荷物持つから早く。立てる?」

「はい……」


 俺は先輩に荷物を持ってもらい、フラフラとマクドナへ緊急避難を開始した。


 歩くこと三分、Y字の歩道橋のすぐそば、我ら学生の利用率ナンバーワン、マクドナの中はまさにオアシスであった。


 俺は涼しい冷房の効いた店内に安堵し、運よく空いていた四人がけの席を陣取り、机の上で溶けるように上半身を預けた。


「サク君、大丈夫? お茶だけど飲める」

「あ、ありがとうございますー……」


 顔を起こす気力もない。

 だがせっかく先輩が買ってきてくれた水分だ。

 俺は精一杯の力で体を起こしお茶に口をつけた。


 どっと体から汗が噴き出す。

 よく冷えたお茶は体に活力を戻してくれた。


「もう、そんなにフラフラになるまで待たなくても、連絡入れるとかあったでしょ」


 先輩は口を尖らせたように怒りのセリフを並べてくる。


「はは、すみません。寝不足でうっかりしてました」

「まったくサク君は……」


 その後、お茶をゆっくり補給し、九死に一生を得た俺は先輩にめちゃくちゃ怒られた。

 おかげでだいぶ店にいることになり、なんだかんだ体力も比較的回復し、寒気も落ち着いたので、俺はプールに参加することにした。


 バスに揺られること40分、着いたら先輩が起こしてくれるとの好意に甘え、俺はバスの中でぐっすり眠らせてもらった。


 先輩に起こされ目を覚ますとバスは海岸線を走っているのか、窓から大海原が見え、俺は海水浴とプールを間違えたか、はたまた夢でも見ているのかと自分の頬をつねった。


 痛かったので夢じゃないようだ。


「何してるのサク君」

「いや、なんか夢でも見ているんじゃないかなって」

「なにそれ」


 隣の席の加美川先輩か呆れた顔になる。


 今日の先輩は薄い水色のワンピースに白いサマーパーカーを羽織っている。

 珍しくスカート丈が短く、膝より上もよく見え――いや、うんじっくりは見ないで置こう。


「どうしたの?」

「いや、珍しいものが見えた気がしたので」


 鞄を膝の上に乗せているので実際にはよく見えていないし、そこまでじっくりはみていないのだが。


『――次は終点。本日はご利用ありがとうございました』


 終点を告げるバスの運転手のアナウンスに従い、俺と先輩はバスから降りた。気がつけばバスの乗客は俺たちだけだった。


「ここが待ち合わせ場所ですか?」

「……ホテルよね?」

「間違いなく、ホテルですね」


 バスから降りた俺と加美川先輩は目の前の建物に唖然とし、もう一度スマホを開き、須山さんからもらった案内を確認した。


 場所はここで合っている。

 たが、ここはどう見ても、海辺が一望できる、オーシャンビューを売りにしてますと言わんばかりのホテルではないのだろうか。


 見れば三階建ての白塗りの建物、学校ほどの大きさがあるだろうか、泊まるといくらになるのかわからないが、学生が来る場所ではないことはよくわかる。


 蝉がどこからか、俺たちの夏は終わらないと、叫んでいる。


 全世界男子に問いたい。

 女性と二人で一緒にホテルに入るってなんか緊張しませんか?

 俺はします。今しています。


 しかしながら今日の最高気温四十度を予測された夏の太陽は、容赦なく俺たち襲いかかる。


 北風と太陽の話があるが、現代社会においては太陽でさえ、俺たちの服を脱がせることはできない。なぜなら冷房の効いている建物に逃げ込めるからだ。


(熱さのせいでだいぶ思考がバグっているな)


 俺は再び膝を折る前に先輩を促し、ホテルの中に入ることにした。


「……とりあえず中に入って待ちません?」

「そうね」


 俺の意を決した提示を先輩はすんなり承諾した。

 空回りしているなとむずがゆくなりながらも、二人してホテルの中に入ると、待ち受けていたのは受付とラウンジ。そしてそのラウンジのソファに座り、浴衣姿でくつろいでいる須山さんを見つけた。

 城戸も一緒みたいだ。黒を基調とした服を来て、須山さんの隣で頭を抱えている。


「あ、二人とも! 待っていたわよ!」

「須山さん、その恰好は?」


 加美川先輩が須山さんに疑問を投げかける。


「何って私とノボルで一泊このホテルでお泊り旅行」


 須山さんはケロリとそう返した。


「お、お泊り旅行……だと……!」


 流れ弾を受けた俺は恐れおののいた。

 彼氏と彼女がホテルで一泊何かが起こるわけでもなく……。

 俺は頭を抱えている城戸を見た。


 前髪で表情が隠れているが、苦悩に満ちた雰囲気の彼を見ていると、どうやら大人の階段上られてはいなさそうだ。


 大方徹夜でゲームでも遊んでいたのだろう。

 そういうことにしておこう。

 これ以上は俺の心が穏やかではない。


 一息ついて話を聞くと、須山さんの企画はこの海辺のホテルに備え付けているプールを借りて遊ぶということだった。


 お盆も開けて、旅行客が少ないこのホテルは、施設単独の貸し出しも行っており、貸し切りとまではいかないものの、かなり人が少ないそうだ。


 城戸の件もそうだが、それならそうと先にいってほしい。


「いやー、ごめんね。でもこっちの方がゲームっぽいじゃん」


 そう弁明する須山さんに何となく、昔フィクションを探していた自分をダブらせてしまい、文句の言葉を飲み込んだ。


(チケット用意したのは須山さんだし。なんか本当の目的のダシにされた感じがないわけではないけど)


 ちらりと城戸を見る。

 沈んでいる彼をみると、思うところは山ほどあるが、下手なことをいうと地雷を踏みぬきそうなので、思うだけにしておこうと、俺は心を大人にした。


 ややあって、宇和島先輩と黒木さんも合流し、俺たちはホテルのプールを借りることになった。


 受付でチケットを見せ、案内と注意事項に名前を書き、男女に分かれ更衣室に入り、そうして俺たちはプールへと移動した。


「これまた」

「おお、海が見えるぞ!」

「すごい……」


男三人揃いも揃って似たような短パンの水着を着て、各々感想を口にした。


見れば海を眺める宇和島先輩の腹にはシックスパックがうっすら浮いている。

俺と、城戸は、まあ、平均男子並みだ。

心情的に先輩の隣には立ちたくない。


 ホテルのプールは海側がガラス張りの造りになっていて、海が一望できるようになっている。

 メインのプールはというと25メートル6レーンのなかなかに立派なプールがでんと中央に、あとは隅に気持ちばかりのサウナとビート板置き場、プールサイドは大人数の客を想定してか結構広めにとられている。


 オーシャンビューを押し出すため壁一面を高いガラスにしたことで、施設の充実に予算が当てられなかったのがものすごく伝わってきた。


 いや、もしかしたら、人が多ければ多少見え方は違うのかもしれないが。


(それにしても本当に貸し切りじゃないか)


 貸し切りに近いとは聞いていたが、本当に誰もいない。


 立地的な交通の便の悪さのせいだろうか、旅行客も遠出してわざわざ何もないプールに入るより、同じく海が見渡せるとパンプレットに書いてあった露天風呂に行くのだろう。あと学生にこのホテルは不釣り合いなので、遊ぶ客がこないのかもしれない。


(なるほど、穴場とはこうして生まれるものなのか)


「おまたせー」


 逆サイドの入り口から声が聞こえ、そちらに視線を送ると須山さんがこちらに笑顔でで駆け寄ってきていた。


 いつもの伊達眼鏡をつけた彼女は、学校指定の水着を着ている……のかと思ったら何かのアニメで見たことのある水着を着てらっしゃる。あれはスクール水着に似た何かだ、上と下できわけるタイプの古いデザインをしてらっしゃる。


「城戸、お前の彼女でかいな……」


 宇和島先輩が呟く。


「あまり本人には言わないであげて下さい。結構気にしているんです」


 城戸がそっと宇和島先輩の呟きに返す。

 彼らの言う通り、着痩せするタイプなのだろう。須山さんの胸は豊満であった。


 城戸に駆け寄っていく須山さんのそれはワンテンポ遅れて揺れていた。


 心の用意ができていなかった俺は思わず須山さんの胸に視線を持っていかれてしまった。

 異質な動きをするものに視線がいくのは動物的本能だと、俺は心の中で5回ほど言い訳した。


「須山さん、ちょっと待って」

「……海が見える」


 須山さんの後には、黒木さんと、加美川先輩がおずおずとこちらにやってくる。

 黒木さんはフリルの付いた黒いトップとビキニ、たしかフレアビキニとかいうやつだ。白い肌とのコントラストが「あぁ、これが受けるんだろうなぁ」という印象を与えつつ、綺麗な黒髪ロングと背筋の良い静かな佇まいが似合いすぎて、少し怖い。

 スタイルはほっそりとしていて、須山さんと比べると、うん、まあ、その――。


「……似合う?」

「鉄板かと、思う」


 黒木さんの問いに俺はそう一言返して置いた。

 よく似合っているのは事実だ。

 これ以上ない組み合わせだとは思う。


 俺の回答に疑問符を浮かべた黒木さんを一度置いて、俺は彼女の隣に佇む加美川先輩に顔を向けた。


 加美川先輩は三つ編みをほどき、ゆるくウェーブがかった髪を、肩より少し下で遊ばせている。


 着ている水着は黒木さんとは対照的にぴったりと胸全体を覆う、飾り気がない白のトップと同じ色のスパッツのようなボトム。


 トップは胸を守っているものの、丈は短く腹部が見えている。キレイな形のヘソが見え、普段見えない部分を見てしまったと、俺はなんだか気恥ずかしくなってしまった。


 例えるなら、陸上競技かトライアスロンにでも参加する人みたいな格好だ。


 シンプルなデザインなだけに露骨に体のラインが出るので、すらりとした印象と柔らかそうな曲線部分が眩しい。


「うぐ……」


 あまりの眩しさに俺は膝を折った。

 下を向き目頭を押さえる。

 体中がバグったように寒かったり、暑かったり、頬に血が集まったり、胸がつっかえたように息が上がる。


 全部寝不足が悪い。

 寝不足のせいにしておく。あと熱中症も付け足しておこう。


「ちょっと! サク君どうしたの?」

「大丈夫です。ちょっと一杯一杯なだけで」

「そ、そう……? さっきみたいになりそうだったらはやく言ってね」

「は……い?」


 顔を上げると先輩は屈んで視線を合わせようとしたのか、俺の視界に彼女の胸と太ももが眩しく写る。


「あ……」


 限界だった。

 俺は顔が火照るのを自覚した。


 違うそういうつもりじゃないと叫びたくなるのを堪えて、俺は立ち上がり、プールに向かい走り出した。


 逃げたいわけじゃない。

 でも逃げないと、何かが壊れてしまう。


 こういう時になんて言葉を用意すればいいのだろう。


 日々本を読んでいれば丁度良い言葉が見つかるかもしれないのだが、生憎(あいにく)と今の俺には、この自分の気持ちを表す言葉なんて持ち合わせていなかった。


 自分に着いた火を消すように、俺はプールに飛び込んだ。


 プールの水の中は温水なのかややヌルく体に溜まっていた熱がゆっくり逃げていく。

 顔の火照りも時期抜けるだろう。


(はぁ、生き返る……)


 そのまま水中で人心地つく。

 十数秒も潜りつづけていると、頬の熱も落ち着いたように思われる。


 やや息が苦しくなってきたので、俺は呼吸のために地面に足をつけて、自らの顔を出すことにした。


 さてここで問題。


 完徹し、異様に強張った体を準備運動でほぐさないまま走り、ヌルい水とはいえ冷やすとどうなるか。


 答えは簡単。


「あ、い、痛ーーッ!」


 見事、俺は足を釣った。


「はぁ……」


 そんなこんなでプールから助け出された俺は、プールサイドで体育座りをし、みんなが楽しくはしゃいでいるのを眺めていた。


 宇和島先輩と黒木さんが肺活量勝負と素潜りの時間を競い、城戸と須山さんがまったりと泳いでいる。


「サークー君」


 ぼんやりみんなを眺めている俺の背後から加美川先輩の声がかかる。

 それと同時にピタリと俺の頬へ冷たいものが当てられ、俺は驚き「びゃぁっ」っと素っ頓狂すっとんきょうな声がでてしまった。


(な、なんだ!?)


 防衛本能が働いたのだろう、やられた頬に手を当てると、よく冷えたペットボトルがそこにはあった。


「先輩、驚かせないでくださいよ」

「大会の時のお返しよ」


 加美川先輩はクスクス笑いながら、俺の頬からペットボトルを離し、改めてこちらに渡してきた。


「ありがとうございます」


 俺は加美川先輩からペットボトルを受け取り、蓋を開け、口をつける。


 冷たい水が喉を通る。

 吹き出しそうだったいろんなものが胃の中に収まっていく。


 どこかで読んだ『尋問する相手には水を与えてはいけない。なぜなら物を飲む行為は心理的に言葉を飲みこむことにつながるからだ』と言う話を思い出した。


(あれは本当だったんだな)


 実感し、ほうと一息つく。

 あのバグのような体調は一旦落ち着いたようだ。


「隣、座っていいかしら」

「え、はい」


 そんな俺の様子を見ていた加美川先輩は、なにを思ったのか、俺の右隣にタオルを敷き、その上に俺と同じように体育座りで座った。


 少し距離が近い。


 触ろう思えば彼女の髪に触れる程度には。


「足の具合どう?」


 こちらを向く加美川先輩と目があった。

 じっと見ていたつもりじゃないが、彼女を見ていたことを隠したくて、俺は少し慌て、誤魔化すように笑った。


「いや、まだ、違和感はありますけど、歩くぐらいなら大丈夫です」


 うまく笑えているだろうか。

 よく分からない。


 俺の言葉に加美川先輩は「よかった」と肩の力を抜いて息を吐き、その後、丸まった背中を伸ばすように腕を天井に向けて持ち上げ、体を伸ばした。


 しばらく二人で、プールで遊んでいるみんなの様子をみる。


 宇和島先輩と城戸がクロールで競い合い、須山さんと黒木さんはどこから持ってきたのか、ビニールのボールでバレーのようなことを始めている。


 室内プールは音が響いたが、人が少ないためか静寂の中に水の音や、はしゃぐ声が切り取られて置かれているように錯覚する。


 ゲームでいうところのBGMがなく、その上で効果音ががなる演出のようだと俺は足を抱えたままボンヤリとその光景を眺めていた。


「ねえ、サク君」


 加美川先輩の声。ちらりと隣に視界を向けると、先輩は、彼らを見ながら、膝を抱え、どこか遠くを見るような表情をしていた。


「私ね。君にお礼が言いたかったの」

「お礼……ですか?」

「そう、覚えてる? サク君が初めて私の小説を読んだ時のこと」

「覚えてますよ。小説読んで泣いたのあれが初めてだったんですから」


 忘れるわけがない。


 先輩と出会って、後を追いかけ、たどり着いた文芸部。


 入部を希望するなり、突然、印刷された紙が飛んできて、読まされて、そこに書かれた物語に泣かされた。


 誰も死なない、みんな幸せになる話だった。


 あの時からフィクションを探すのやめて、フィクションを作る人になろうと俺はそう決めたのだ。


「あの話を書くまで私、バッドエンドばかり書いてたの。読み手を傷つけるような後味の悪いものや不条理な物ばかり」


 初耳だった。

 王道のような恋愛小説をメインに手広くいろんな作品を書いているものだとばかり思っていた。


 実際に加美川先輩はそう思わせるだけの数を執筆している。


「思えば文章で読み手を泣かせたら勝ちとか、そんな小さいことに囚われていたんだと思う」

「加美川先輩にもそんな時期があったんですね」

「サク君は目下進行中じゃないの」

「次回からキャラクターは大切にするつもりですよ。色々勉強になることもありましたし」


 先輩が「本当かしら」と疑いのまなざしでこちらを見てくる。

 今、真正面から彼女の顔を見てしまうと先ほどの二の舞になりそうで、俺は視線をそらした。


 彼女はどんな表情をしているのだろう。

 ため息が聞こえ、先輩また顔をプールに向けたようだ。


「……あの話は、本当、気まぐれで書いたのよ。たまにはバッドエンド以外も書いてみようかなと思って書いたのがあの作品。サク君に読んでもらったらボロボロ泣いちゃうんだものびっくりしたわ」

「あの時は俺もビックリしました。まさか言葉だけで涙がでるとは思いませんでしたよ」

「でも、それで分かったの。これもいいんだって。バッドエンドを書き続けてたら一生、分からなかったかもしれない」


 ガラスの向こうにある海を見ているのだろうか。

 それとももっと先の何かを見ているのだろうか。

 俺は先輩の視線の先を追ってみたが、あるのはやはり海だけだった。


「悲しみだけが人の心に残るわけではない。それに気がつかせてくれたサク君には本当に感謝している」

「そんなとんでも――」


 俺は加美川先輩の言葉に返そうと、隣の彼女へ振り向き、言葉を飲んだ。

 彼女はこちらに顔を向け、柔らかく微笑んでいた。

 いつか見た夢を追う人の表情だった。


「ありがとう」


 そういって先輩は立ち上がった。


 ガラス越しの海を背景にプールに向かう彼女を見て、俺は手を伸ばしかけ、そっと戻した。

 誰も止めなかければ、今にでもあのガラスを超えて文章の海へと行ってしまいそうだと、あまりうまくない例えと一緒に。


 分かっている。その海に出なければ先輩は自分の夢を叶えられないのだ。

 ――海に行く技量の無い俺がその邪魔をしてはいけない。


「サク君、そろそろ入らない?」


 一度、こちらを振り向き、加美川先輩は一緒に来ないかと訪ねてくる。

 俺は目をゆっくり瞑り視界を一度閉じた。

 軽く手を振って俺なら大丈夫と言い聞かせる。


「もう少し休んでからにします。水、ご馳走様です。ありがとうございました」


 ふとTRPGの判定の話が頭を過った。


 どんな絶望的な判定でもクリティカルが出れば成功できる。

 確率は十分の一だ。振ってみればいい。案外出るかもしれない。


(できるわけないじゃないか……)


 ああ、そうか、よくわかった。

 ――俺はただダイスを振る勇気がなかったのだ。

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