第30回 百合経

 ハオが緊張と興奮からか、拳を震わせる。

「これが――百合経ヒャクゴウキョウか!? いや、まさか、本当にあるとはな!」


 気持ちはヂェンリィにも、わからないでもなかった。

 全く興味なかったが、こうして目の当たりにすると、ある種の感動が胸の奥底に湧いてくる。


「しかも書物の形をしていないとは、ね。想像していなかったな」

「ああ、まったくだ」


 不意にショユエがヂェンリィの袖をちょんと引いた。

 耳に口を寄せ、こそこそと。


「ねえ、あれ」


 指差すほうを見れば、岩に例の秘術が刻まれていた。

 授子功である。一部の文字には人為的な欠落が見られた。


「天下無双も、人質を取られたら終わり、か」

「わたしは、その心は、ただの天下無双よりも価値あるものだと思う」

「でも敗けた。どんなに崇高な精神も悪逆なる暴力には敵わない。優しさは弱点でしかない」


「だからって、それを捨てたら、本当の敗けだよ。ヨウオウ先生があそこまで強くなれたのも、単に百合経のおかげじゃない。わたしは、そう思う。その弱さを抱え続けたから強くなれたんじゃないかな。強さ以外のものを大切にしろって、マーマに言われたよ」


「……そうね」


 ショユエの言葉は事実なのだろう。

 彼の強さの源泉は、それなのだろう。


 肯定する半分、こうも思う。

 為したいことを為せずに死ぬこと、それこそが本当の敗けではないか、と。


 洞内を見て回っていると、ハオが首を傾げた。

「なあ、内功しかなくねえか?」


「確かに」

 とショユエ。

「全部を見たわけじゃないけど、外功の技とか型とかは、今のところないね」


 外功と内功。

 どちらに重きを置くかで、流派を外家と内家とに分ける向きが武林にはある。

 そんな彼らでも、一方のみを学ぶなんてことはない。

 内功に優れていれば外功の威力も増すし、外功が充分でなければ内功も満足に発揮できないからだ。


 二つを切り離すことはできない。

 外功偏重のきらいがある武術書とて、基礎的な内功くらいは記してあるもの。

 ましてや天下無双、百合宝樹が秘伝なのだ。


 ヂェンリィは言った。

「分冊してるんじゃないかな。そういう武術書も多いし。だとしたら外功の部は、この村ではないと思う。狭い範囲で分ける意味は薄い」


「そういや」

 とハオ。

「百合剣ってのもあったっけな」


「手にすれば武林を支配できるという、もう一つの伝説か」

「そうそう。もしかしたら、剣ってのが外功を意味してんのかもなぁ」

「あり得るかもな。存在するのならば、の話だけど」


 ともすれば、ヨウオウ・シツが百合経を完全には体得していない可能性も浮かんできた。

 加えて、秘伝はなにも、古語で刻まれるばかりではなかったのだ。

 見慣れぬ文字が、重要と思しき箇所に散見される。


 フゥシィが言った。

賢珠ケンズ語だと思う。梵字ぼんじとも言って、シャキヤ教の経典にも用いられている」


 そしてハオ。

「お前、読めたよな? ふん? 多少、か。解読は難しい、と。俺らが先に会得しちまえば、蛇なんざ楽勝だと思ったんだがなぁ」


 内功の修行は慎重に期すべきもの。

 下手すれば経絡を傷つけ、廃人と化すこともあり得る。

 けれど僅かな時間に、ほんの一端でも身につけることが出来たならハオの言う通りだったろう。


 ショユエがむむぅと唸った。

「それよりさ、どうする? こんなの持ち出せないし」


 まずハオの提案。

「書き写したものを本物ってことにして、どっか別の場所に誘き出すってのは?」


「信じるか?」

 とヂェンリィ。


「書物だった場合は、そうするつもりだったろう?」

「私は、そのときは書物の半分だけを渡して、残りを人質にするつもりだった」

「さっすが。伝説をバラすなんて豪胆、お前くらいのもんだな」

「転写で同じ手を取るなら、いかにも古そうな紙と、充分な文量を写すための時間が必要だ」

「となると、少し厳しいか。奴らの動きがわかんねえからな。朱嶺派は網張ってるだろうけど」


 次いでショユエ。


「じゃあ、やっぱり村人たちには、どこかに避難してもらわなきゃ。できれば、すぐにでも」

「だな。……っと、なんだ? フゥシィ。あ? 通路を埋める?」


 最悪なのは、蛇徳教の手に渡ってしまうこと、と彼は考えたらしい。

 一理ある。ヂェンリィは頷いた。


 対してハオは渋い顔。

「火薬はねえからなぁ。拳で……いや、俺まで埋もれちまうか」


 ショユエが「はい」と挙手。

「壁を作るのは?」


「ああ、それなら悪くねえ。間に合うかどうかは、微妙な線だが」

「決まりだな。その方向性で進めよう」


 洞穴を出て、寺を後にするヂェンリィ一行。

 その様をが見ているとは露知らず。



   *   *   *



 朱嶺派の対蛇徳閥と合流できたのは、翌日のことである。

 渋る村人たちを避難に移せたのは彼らの力によるところが大きい。

 実態はさておき、むしろ実態を知らぬ相手にこそ武林正派の看板はよく効く。


 空になった村長の家にて、ヂェンリィとハオは対蛇徳閥の代表と対面した。

 五十代ほどの男である。名をシン・エンといった。


 元は役人で、家族共々、毒を含まされた。

 蛇の目の毒ではなかったらしい。彼のみが生き残った。

 毒の副作用で白濁したという右目には、眼帯をしている。

 残る左目には泥のような暗黒を宿している。


 ヂェンリィは思った。

 きっと自分も似たような瞳をしているに違いない。


「エン殿。このたびは私どもの要請を受けてくださり、ありがとうございます」

「こちらこそ貴重な情報を感謝します、ヂェンリィ殿。シツ殿の件は、誠に残念です」

「ええ」


 頷き、好まれそうな言葉を選ぶ。


「……我が師の遺してくれた、この好機。必ずや蛇を討ち取りましょう」

 気持ちの上で嘘はない。


「うむ。直弟子のお二人が加勢してくれるのなら、こんなにも頼もしいことはありません」


 ヂェンリィとショユエについて、ヨウオウとの関係をそう説明したのはハオだった。

 実際このほうが、話を進めるのに都合が良かった。


「ところで、ショユエ殿は?」

「さあ。先生の亡き後、一人になりたがることがありますから」


 もちろん嘘だ。

 フゥシィと共に壁作りの最中である。


「そうでしたか。おいたわしや」


 ハオが口を開いた。

「さって、それじゃあ、情報共有といきましょうぜ。巴蛇が代替わりしたことは、ご存知で?」


「いや、初耳です。ガイ・オウ? セイ・レツ? いや、ヒ・コウか?」

「シュウ・ユという者だそうです。だろ? ヂェンリィ」

「ええ。シツ先生いわく」


 シンの顔が険しいものとなった。

「例の裏切り者が……なんと……」


 ヂェンリィは続けて、

「それから毒の改良、人員の補強を北上中に行ったようです。これも先生の見立てですが」


「我々の持つ情報は北上以前のもの。彼らには目と呼ばれる諜報班と、牙と呼ばれる実働班とあります。目は百人を越える。補強したのは、まず牙のほうでしょうな。相応の実力者ばかり。当時は十五人ほどでした。多く見積もっても五十人はいきますまい」


 対蛇徳閥は、その倍ほどである。

 一見、人数の利はあるものの、と彼は渋い顔して続けた。


「これは朱嶺派全体の鍛錬の傾向になるのですが、一芸に特化させるようにしているのですな。口惜くやしい話。正義のために集う者が皆、才能に溢れるわけではない。それを戦力として仕立て上げるには得意なものを伸ばし、複数人で組むのが良いのです」


 ヂェンリィはハオをちらと見る。

 彼やフゥシィの戦い方を思い出していた。


 エンが続けて言った。

「一人に対して三人なら、まず間違いない。今回は精々、一対二。五分五分でしょうな」


「毒がある」

 とハオ。

「分は悪いと思いますぜ」


「……そうですな。対策として我ら独自の解毒薬も用意してありますが、改良されたものに、どこまで通じるか。もちろん、毒のほうも用意しています。必要とあらば、そちらにも」


 ヂェンリィは、

「やはり頭を討つのが一番でしょうね。巴蛇……か、今回の陣頭指揮を担う者」

 と言いつつも巴蛇が直々に来ると確信していた。


 向こうはまだ百合経を書物だと思っているはず。

 部下に任せきりで持ち逃げされようものなら、天下の笑い者となってしまう。


 エンは「同感ですな」と首肯した。


「んじゃ、その方向で練るとしようや」

「ヂェンリィ殿、ハオ殿。後ほど蛇牙録をお渡しします。現在も属す者がどれほどいるかは、わかりませぬが」


 その日の夜――間蝶から知らせが入った。

 おおよその人数、五十。

 この調子なら蛇は、翌日の夕刻には村に着くだろう、と。

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