第27回 狼の涙

「まだ生きておられるとは」


 ヂェンリィは一瞬で頭に血が上った。

 その言葉は、つまり、そういうことでなければ決して出てこない!


「お前のせいか――ッ!」


 跳び掛からんとするも動けない。

 ヨウオウだ。

 貸してやったはずの肩を、腕でがっちり拘束してきている。


 彼は、か細い声で、

「見えぬか。奴の掌には匕首が収められておる」


 それが本当なら、今、飛び出せばやられていたのは自分だ。

 ヂェンリィは、ぐっと奥歯を噛み締めた。


 ジィドゥは、やはりヨウオウしか眼中になさそうに、

「解毒されましたか? いや、違うか。遅らせている程度でしょうか。その短い余生、少しは穏やかに過ごされてはどうでしょう」


「それを出来るなら、最初から、別の生き方をしたさ」

「お嬢、この哀れな年寄りに凄惨な光景を見せるつもりですか?」


 急に呼びかけられ、ヂェンリィは肩を弾ませた。


「指輪を出してください、お嬢。さすれば命だけは助けましょう」

「……だったら父からも、指輪だけ奪えば良かった! そうしたら私は……!」


 きっと、この人生は大きく違っていた。

 憎悪の産湯に浸かることもなく、両親と仲睦まじく、門人も大勢抱えて、己は武術に触れることなく、誰か武功に長けたか、政治力のあるのを婿に迎えて、子どもは最低でも三人くらい、最初は男の子で二人目は女の子、三人目にまた男の子、人並みに大事はなくて小事はある、ゆるゆるとした一生を送っていたはず。


 奪われたものの大きさに比べたら、この命なんてはしたものだ。


「ジィドゥ、お前だけは絶対に、許さない!」

「親不孝な娘だ。チュミンがどうやって育てたか、忘れたわけでもあるまい」


 全身が燃え上がるようだった。

 怒りと憎しみが沸々と心臓を煮詰めていく。


 シツが苦し気ながらも声を発する。

「耳を貸すな、ヂェンリィ!」


 かぶせるようにジィドゥは続けて、

「ヤーを殺す必要など、確かに指輪が欲しいだけなら、ありません。そのヤーにツァオ殺しを唆すことも。お嬢が巣立つまで面倒を見たのは、北上組に加われなかったこともありますが、もちろん、それだけじゃあ、ない。不思議な話ではないでしょう? 指輪が欲しいのは巴蛇であって、俺じゃないんだから」


 ならば彼が、その日々で手に入れたものはなんだ。

 崩壊させた一門に最後まで残って得られたものは、なんだ。


 ヂェンリィには思い当たるものがあった。

 だからこそ叫び、ついにシツの腕を振りほどいた。


 その突撃を止めたのは、ショユエだ。

 駆け出した彼女の横から体当たりをかました。


 ふたりに当たることのなかった二本の匕首――片や白刃、片や黒刃――がヨウオウへと飛来。

 彼は目暗まし効果をものともせず腕で叩き落すと、膝から崩れ落ちていった。


 酷なことだろう。


 相手はいくら天華五輪と言えども、両腕を失い毒に侵された身。

 それから、もう数日は経って未だに生きていること自体が異常だ。

 当の本人とて認める、残り僅かな命。


 その最期の灯など線香にも劣ると、彼が断じてしまっても無理からぬこと。


 彼――ジィドゥに、気付けというのは、あまりに酷なことだろう。

 翁は膝から崩れ落ちたのではなく前傾姿勢に移行したのだ、などと。

 それが突貫のための予備動作なのだ、などと。


 ましてや、その瞬間、彼の目端にはショユエの放った指輪が入ったのだ。


 ヨウオウが畳を踏みしめる。畳が爆ぜる。

 その音でようやくジィドゥは悟ったが、時すでに遅し。


 飃蘭ヒョウランと名高き英傑の、全身を使った膝打ちを胸に受けて心臓破裂。

 血反吐ぶちまけながら庭へと飛んでいった。


 これには、ジィドゥを助太刀すべく彼が匕首を投擲したときには屋根から庭へと降り立っていたヒ・コウも肝を潰した。

 元よりヨウオウの生存からして想定外だったのだから、もう少し様子を見るか、死ぬのを待てば良かったものを。

 死にぞこないと油断し、また既知の仲がいるからと先走ったジィドゥが悪い。

 ヒ・コウは、屋根に待機していた猫目の女たちに目配せして退散を決め込んだ。


 さて、ヂェンリィはというと追うように庭へと降り、物言わぬむくろと化したジィドゥの傍らで立ち尽くした。


 師兄や師父のようでもあった、真の仇敵の最期が、これだなんて誰が想像できただろう。

 運命的なわけでも、劇的なものでもない。

 討ち取った相手が、かのヨウオウ・シツだとしても、だ。

 あまりにも空虚だった。


 ショユエが声をあげた。

「シツ先生……!」


 見てみれば、彼は尋常じゃない量の血へどを吐き出しており、今度こそ本当に倒れてしまう。

 畳の上に崩れ落ちた彼を、ショユエは抱きかかえた。


「せ、先生っ! しっかり!」


 ヂェンリィも駆け寄る。

「シツ先生……」


 ヨウオウは荒々しい息を吐いていたが、意識ははっきりしているようだった。


「偽物、だ」

 指輪のことだろう。

 あの一瞬で見抜いたらしい。


「二人とも……村へ、帰れ。帰るのだ」


 仇はもう、いないのだから。

 彼の目はヂェンリィに、そう語りかけていた。


 これこそが摘蟲撒水テキチュウサンスイと呼ばれる由縁ゆえんなのか。

 初めて出会った小娘なんかのために復讐という害虫を摘み、幸福という花のために水を撒く。


 それを蹴飛ばすは、なんたる大悪か。

 ヂェンリィはそう思いながらも、首を横に振った。


「父の仇なんか、どうだっていいんです」


 ショユエが目を丸くする。

「ヂェンリィ……?」


「産まれる前のことだ。父親だって実感もない。ずっとずっと、そう思っていた。今もそれは変わらない。母のことだって、ずっと嫌いだった。自分は武術家でもないのに、私に武を押し付けて! いつか父の仇を討てと、勝手なことばかり! 家を出たら、そのまま自由に生きてやるって……ずっと思ってたんだよ」


 ヨウオウが「なのに、なぜ」と。


「母が……手紙を遺してたんだ。復讐なんか忘れて、自由に生きろって。笑っちゃうでしょ? あんだけ恨んでたくせに。次々に門人がいなくなって、苦しい生活の穴埋めに体まで売って。自分はろくに飯も食わずに。ただ、私を復讐者として育ててたくせに。最期の最期……勝手な女だとは思わないか? 本当に……」


 だけど、と彼女は言葉を継ぐ。


「思っちゃったんだよ。没落する家に、残るは私一人だけ。生きていくには、武しかないって考えたんじゃないのかって。武術家の娘だから、なおさらに。武術さえ身につけていれば江湖での生き方なんざ、いくらでもあるって。……ねえ、都合の良い夢だって笑う? でも、そう思っちゃったんだ」


 ――あんな愛し方しか、出来なかったんじゃないのか、と。


 ショユエが目を見て答える。

「きっと、そうだよ。だって、そのおかげで今、ヂェンリィは生きられてる」


 そしてシツも言った。

「ならば……なおさら、ではないか。あとは、達者に暮らせ。母の願う通りに……」


 ヂェンリィは叫んだ。

「だから! だから許せない! それでも母の恨みは本物だったんだ! でも相手が違った! 偽りの憎悪を、ジィドゥはずっとずっと嘲笑っていた! 母を抱きながら! 奴が死んだら終わり? ふざけるな! 私の家を無茶苦茶にしたのは誰だ!? 蛇徳教あいつらだ! それが今、わかった! だったら、私のやるべきことは、一つだ!」


 復讐はまだ、終わっていない。

 大粒の涙を零しながらヂェンリィは訴える。


「私は……母に報いたい。たとえ真実ではないとしても。私の願望が見せる蜃気楼だとしても。ここで引き下がったら、私は私を、許せない。もう、それで一人殺しちゃったんだよ、私は。それを今更……!」


 母が亡くなったときも。

 手紙を読んだときも。

 その手紙を燃やし、旅に出たときも。


 ヂェンリィ・ラングは、決して涙を見せなかった。

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