第26回 狼の屋敷に色あせた蘭、這い寄る蛇
ラング邸は空き家のままだった。
旅立った頃と全く同じ姿のまま、なんてことはない。
人の住まなくなった家は朽ちるのが早い。
空気が淀み、湿気が溜まる。
かびが生え、草木に侵される。
小動物や虫などは、
ヂェンリィが去ってから二年近く経っている。
そのときにはまだ、落ちぶれたと言えども面構えだけは変わらず立派なものだった生家は、すっかり朽ち果てていた。
「うわあ」
とショユエ。
「ひどいねぇ」
「中は? 見る?」
「あ、うん。見たい見たい」
「物好きなやつ」
二人は膝まで届く雑草を踏みつけながら、開けっ放しの門をくぐる。
庭のほうから屋敷を見ていく。
当然に酷い有様だった。
雑草はもちろん、木の枝も好き勝手に伸びている。
池の水はどんよりと濃い緑色。
縁側の廊下は上がろうものなら抜けてしまうのではないだろうか。
襖は元の絵が判別できない。障子なんて、ただの格子。
部屋には雨風砂が自由に出入りするのだろう。
「ヂェンリィの部屋はどこ?」
「さっき通り過ぎた」
「帰りに見よー」
「なにもないぞ。売れるものは売ったし、後は捨てた。二度と帰ることはないから」
「それは、そうだろうけど」
「メイフォンの部屋はこっちだ。確か、ジィドゥが使っていたところのはず」
言いながら縁側の角を曲がったところで、足を止める。
なにか違和感がある。
「どしたの?」
「……誰か、いる気がする」
「え?」
ショユエは声を潜めた。
「お弟子さん、とか?」
「まさか。ただの浮浪だと思うけど警戒して」
「う、うん」
ふたりは忍び足で歩を進める。
奇しくも、かつてメイフォンのものだった部屋に、その人物はいた。
頭の禿げた老人だった。
部屋の奥の壁に、身を預けた形で座っている。
死んでいるのだろうか。
一瞬、そう思えど、よく見れば肩が僅かに上下している。
死にかけには違いない。
室内に一歩、立ち入れば酸っぱいような臭いが鼻をついた。
口元や、襟首、袖口、それから畳と至るところで血糊が渇いている。
手首から先がない。
駆け寄ろうとするショユエの手をヂェンリィは引っ張った。
「蛇徳教の仕込みかもしれない」
「でも……」
「それにハオが言っていた。掌門――
「流石に考え過ぎだと思うよ。腕だって、ないし」
「かもな。けど、暗殺集団の頭だ。腕の五本や十本、なくたって、それはそれで不思議じゃあない。杞憂ならば、それでいい。ただの浮浪者だ。わざわざ気に掛ける必要もないだろ」
ショユエは老人とヂェンリィとを見比べ、
「心配してくれてるんだよね。ありがと」
「は? なにを馬鹿な」
「だから、もしものときは守ってね、ヂェンリィ」
手を振りほどき老人のもとへ行くショユエ。
ヂェンリィは舌打ちし、警戒しながら彼女に続いた。
「おじいさん、大丈夫ですか?」
男は呻き声を漏らし、微かに瞼を開けた。
よくよく見れば、男の体には薄っすらと蛇の目を思わせる黒い斑点が浮かんでいる。
(蛇徳の毒……? それを喰らって、まだ生きている。いったい何者!?)
ショユエが竹筒を渡す。
「お水です。飲めますか?」
彼が頷いたのを確かめると、栓を抜き口元にそっと運んだ。
三口も飲めば、いくらか苦痛も和らいだのか。
ご老体は途切れ途切れに言葉を発した。
「ありが、とう……。見ての、通り。死に、ぞこない。なにも、お礼は、できぬ、が……」
「少しでも楽になれたのなら良かったです」
朦朧とした
なにかに気付いたかのように。
じっと、ショユエを見つめる。
ヂェンリィは身構えた。
そこから一転、いかなる攻撃に晒されても良いように。
「もしや、おぬしは……」
「はい?」
「メイフォンとインファの子では、ないか……?」
なぜ、この老人があの二人の名を。
しかも仁茶村へ身を寄せる以前の。
ショユエが思わずヂェンリィを振り返ったことからも、直接の面識ないこと明らか。
「いや、違ったのなら、忘れて、くれ……。死にぞこないの、戯言……」
もしかして、とヂェンリィは恭しく膝をついた。
「あなたはヨウオウ・シツ先生ではありませんか?」
彼は自虐的な笑みを浮かべる。
「このざまを見て、そう問われるとは、な」
ショユエが首を激しく左右に振る。
「母たちの、その名と、わたしのことを知っているのは、あなただけだから」
「では、おぬしは本当に……?」
「ショユエと言います! 正真正銘、メイフォンとインファの娘でございます」
彼――ヨウオウは天を仰ぎ見る。
「そうか、そうよな。面影が、ある。なにより、その、経絡だ」
「わかるのですか?」
「この目は特別でな、見えるのよ……。産まれ付き、か?」
頷くショユエ。
「継いだか、やはり」
ヂェンリィには、一体なんの話か、わからなかったが、その様子に気づいたショユエが掻い摘んで説明をしてくれた。
にわかには信じ難いものだったが……。
「つまりメイフォンが後天的に増設したのと同じ経絡を、お前は産まれつき持っていると?」
「うん。全部ではないみたいだけど。でも普通の人とは違う経絡があるんだって、わたし」
「ふぅん」
ひとまず納得する。
感極まった様子のショユエを、これ以上、邪魔するのも無粋というものだろう。
「シツ先生。両親に代わって、お礼を申し上げます。あなたがいなければ、わたしはこの世に産まれ落ちることはありませんでした。わたしに出来ることなら、なんなりと……!」
「それこそ、助けてもらった礼だ。返してもらおう、とは、思わぬ」
「でも! ……あぁ、先生、どうしてこんなことに。なにがあったんですか?」
ヨウオウはゆっくりと事の顛末を話した。
蛇徳教の非道たるや!
「少しでも、儂に、どうにか出来ることがあれば……と。国中を巡り、そのざまが、これよ。救うべき者らを、救わねばならぬ者らを、ただ死に追いやった……」
ショユエが涙ながら首を横に振る。
「そんな風に仰らないでください。あなたは多くを救ってきたではありませんか」
ヂェンリィも、また。
「そうです、シツ先生。悪いのは全て、蛇徳教の連中です」
「……朧気ながら、聞こえていた、ぞ。おぬしらも、奴らに因縁が、あるのだな?」
「はい」
とショユエは語った。
母のこと。ヂェンリィのこと。
指輪のこと。南泉町でのこと。
聞き終えたヨウオウは遠くを見た。
「そうか……メイフォンは、逝ったか。ちゃんと、看取ってやれたか?」
「穏やかな、最期でした」
彼女が息を詰まらせながらも力強く頷けば、老爺は微笑んだ。
「幸せなことだなぁ。こんなにも頼もしい娘、愛する者らに包まれて、逝けたのだ」
ぽろぽろと涙を流すショユエ。
「ありがとうございます。シツ先生のおかげです。本当に、ありがとうございます!」
しばしの沈黙。
いや、休息を経て、彼は言った。
「指輪を捨てよ。おぬしらのそれは、本物ではなかろうが、奴らにはそれでも構わぬ。最後の一つは、まがい物の中に、あるだろう。儂と、レキ・コのを得た今、奴らはいっそう、江湖をひっくり返してでも、百合の指輪を求めるだろう」
レキ・コ――その名もヂェンリィは聞き及んでいる。
「確か北西を拠点としている……そうか、それで蛇徳は北へ」
「悪運の強い奴、生き延びている、だろうが……。それから、あの辺りは、腕の立つ悪党も、多い」
「仲間の補強、ですか」
「毒も、改良されておる。前ならば儂も、ここまで消耗せんかった。かなりの、ものよ」
内功には解毒の法もある。
彼ほどの達人ならば当然に体得しているものだろう。
それでも敵わぬ毒を、彼らはこの十七年で、調合できるようになったというわけか。
暗殺を生業とする連中にしては、あまりにも過ぎたる力ではないか。
「なにより掌門、巴蛇が代わった」
「どのような人物なのですか?」
「優男……常に笑みを絶やさぬ。まだ若い。儂の、かつての弟子。名をシュウ・ユ、と言う。先代よりも残酷、と言えるやも、しれぬ。先代は……仕事以外での殺しを、良しとせんかった。奴は、シュウは覇道に憑かれておる。次の天華五輪、ひいては江湖、いや……この国を……」
ショユエが驚きを零す。
「先生のお弟子様が、そんな……」
「儂の、不徳の致すところ、だ」
「すみませんっ! そんなつもりじゃ」
「いい。儂は結局、身近な者すら、悪の道から、救えなかったのだ。たとえ奴が、元より蛇の手の者だとしても……気付き、救わねば、ならなかったのだ。だが、それも、もう」
しかし、とヨウオウ・シツは、よろよろと立ち上がる。
その肩を支えようとする少女ふたり。
不意にヂェンリィは部屋に影が差したことに気づいた。
外では夜の
その影の正体は雲か?
いや雲に手足があろうものか。
庭から、一人の男が縁側へと上がり、床がギシリと軋んだ。
その男にヂェンリィは見覚えがあった。
「ジィドゥ! ジィドゥ・ピャン!」
彼は、かつて属していた一門の長の娘を、かつての弟子を一瞥し、ヨウオウに向かって、
「驚きましたね」
言葉とは裏腹に、冷静に、
「まだ生きておられるとは」
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