第25回 ジンイン邸→ラング邸
客間に戻るまでショユエは不機嫌なままだった。
改めてソンが茶を淹れる。
それを啜るとショユエの気も少しは落ち着いたようだった。
「おじいちゃんは、自分のしたことを後悔しているんでしょうか」
「俺は、ただ夢を見ているだけだと思う。そうしたかった、でも出来なかった。そんな男の、憧憬だ」
彼の声はそれを非難するわけでもなく、かと言って擁護するわけでもなく、ただ淡々として、物は下に落ちるという当然の話をするかのようだった。
「俺にも妻がいる。子供が三人いる。俺に出来ることなら、なんでもしてやりたいと思うが、なにかと忙しくて小さい頃はやはり、あまり構ってやれなかった。家族のためだ。後悔はない。けれど、もう少し……と。今更、思うこともある」
「今、そう思うなら。今からでも、してあげたらいいと思う。まだ家にはいるんでしょう?」
「……そうだな。十数年ぶりに遠くから孫を連れて来る前に、出来ること、すべきことはあるのだろう」
彼は深い溜息をついて「本当に、まったく」と茶を飲んで、
「親子のことさえ難しいのに、他人、仕事となると、なお、ままならん」
と
ショユエは荷物から袋を一つ取り出した。
「これ、うちの村で作ったお茶っ葉です。よかったら、どうぞ」
「仁茶村か。懐かしいな。昔はよく飲んだ」
「今は?」
「これも、付き合いというものさ。まぁ、悪いものではないのだがね。うまいだろう?」
「まぁ。でも、うちのほうがおいしいですっ」
ソン・ジンインは苦笑い。
「いい村なのだろうな」
「はい。いつでも歓迎しますよ」
ソンは微笑で答え、ヂェンリィに顔を向ける。
「さて、あの日のことだったな。父から聞いた範囲で良ければ、私が話そう」
ヂェンリィは胸を撫でおろした。
「そうしてくれると助かるよ。で、単刀直入。私たちはヤー・ラング殺害の犯人を追っている」
「……なるほど。なぜ、きみらがつるんでいるのか不思議だったが、まずはメイフォンを疑い、探し出したのだな」
「察しが良いわね。流石は商人」
彼は椅子に深く座り直して言った。
「父は、メイフォンの仕業だとは思っていなかった。となると疑わしいのはラングの者となる。あのときジトンは、焦燥した様子で庭から内へ戻ってきた。ジィドゥの肩を借りてね。それは僕も知るところだ。その間に殺されたのだろう、と」
ヂェンリィは眉を寄せて、
「そのときにはまだ父は、ヤー・ラングは生きていた?」
「ジトンが言うには、屋敷に引っ込むときには、彼の背中に突き立てられたものはなかった。それが確かで、それが死因なら、そういうことになる。だが、その前のメイフォンとの戦いで死んだ可能性だってないわけではない。死体に刃を突き立てたのかもしれない。父は、そうは思わなかったようだが」
「そう」
と唇を噛むヂェンリィ。
嘘をついているようには見えなかった。
ショユエと出会わなければ、別だったろうが。
ヂェンリィはテーブルの下で力なく拳を握る。
胸中に去来した感情にどんな言葉を付ければ良いか、わからなかった。
ソンは更に続けて、
「一門の総意だったのか? それとも個人的理由か? わからないが、友人であったツァオも宴席で殺されて不信感のあった父は、それを決め手に一門と縁を切った。その後も、きみたち親子のことは気に掛けていたが、門人の手前、なかなか……。一門がほぼ解散になった頃には、父もあの状態だったしな」
「……そのことは別に。なんにせよ、うちはあの夜、仕事を遂行できなかった。切られるのは当然よ」
それでも、と詫びの金をいくらか押し付けられて、ふたりは屋敷を出た。
大通りをあてもなく歩いた。会話はなかった。
やがて人混みに疲れてくると適当な飯屋に入る。
日が傾いてきていた。
蒸し魚をつっつきながら、ショユエが呟くように、
「本当は、おじいちゃんをぶん殴ってやりたかったの」
「すれば良かったじゃないか。あの男も、好き勝手してきたんだ」
「出来ないよ、あんな風になってるって知ったら」
「人の良いやつ」
「できる? ヂェンリィは」
答えることはできなかった。
仮に親を殺された相手だとしても、もはや当人がそれさえ覚えていないとなったら……。
それはとても恐ろしい想像だった。
彼がそうでないことを祈りたい。
他の客が談笑し、酒を呷るなか、二人の席は静かな時間が流れていく。
世界からなにもかもが一切、消え去ってしまったかのようだった。
歩いている間、ヂェンリィはなにも考えずに済んだ。
けれど今は違う。そのことばかりを、考えてしまう。
ショユエと出会ってから、どこか心の準備のようなものは出来ていたのかもしれない。
ヂェンリィは、本人が思うよりも素直に、彼の言葉を受け入れられた。
意外にも激情に駆られることはなかった。
ただ……そうだったのか、と。
この十八年間は、間違いだったのか、と。
リウに刃物を突き立てたときの感触が蘇る。
ヂェンリィの、その手は微かに、だが確かに震えていた。
仇を討つべき相手が、すでに死んでいた――。
そう思った、あの日の空虚感とは比べものにならない。
胸が痛い。
母の顔が脳裏に浮かぶ。
まさか、ショユエにそこまで見透かされるはずがないけれど、
「ねえ、ヂェンリィ。――わたし、ラングの家に行ってみたい」
突然の、その言葉にドキリとした。
「なに? 急に」
「それもあって連理に来たかったんだ。だってジトンもラングも、マーマたちの家だから」
「……でも、ショユエ。すでに他の人のものになってるかも」
「いいよ。外だけでも」
ヂェンリィは、しばらく黙りこくった後、蒸し魚のタレに饅頭をつけて口に入れた。
いい機会かもしれない。
今の心持ちで、もしも蛇徳教あたりと対峙しようものなら、まともに動けるか怪しいものだ。
ここは一つ気持ちを入れ替えて、本当の仇に向かうためにも原点へ立ち返るのが良いのかもしれない。
あるいは、それは逃げなのかもしれないけれど。
少なくとも今、共にいる彼女の足を引っ張るわけにはいかない。
「ショユエ。食べちゃおう」
「うん」
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