第16回 仇の妻と朝
三日後の朝。
ヂェンリィは鶏の鳴き声で目を覚ました。
隣の寝台を見れば、まだショユエは夢の中。
メイとインの寝室を静かに出て一階に降りると、インはもう起きていた。
「おはよう、ヂェンリィ。卵採るの手伝ってくれる?」
「あ、はい」
「朝早くて偉いわ」
「そんな……習慣ですから」
「うちの子は弱くてねぇ。それでもメイが元気だった頃は、鍛錬のために起きていたんだけど」
奇妙なことになっている。
ヂェンリイは、そう思わずにいられなかった。
この母親にしろ、その娘にしろ。
どうして愛する人を殺しに来た者と、こうも自然に寝食を共に出来るのか。
結果的に、そうならなかったとはいえ。
彼女らから見れば、誤解ゆえのこと、とはいえ。
理解し難い。
その一方で、ここでの生活を悪くないようにも感じていた。
いや、どうして悪いことがあろう。
安らかな心地で目を覚まし、おはようと優しい言葉を交わし、夜にはおやすみと微笑み合う。
生まれてこのかた、そんな日はなかった。
たった一日でも過ごせれば奇跡のよう。
かけがえのないものだ。
「止めないんですか?」
ヂェンリィは訊ねながら、鶏たちを足で軽く小屋の隅へ追いやる。
その隙にインが地面に産み付けられた卵をひょいひょい拾っていく。
「ショユエが決めたことだから」
彼女は卵の入った籠をヂェンリィに渡し、今度は箒を手に掃除を始めた。
「これが、わたしの罰なのかもしれないから」
「罰?」
ショユエがメイフォンについて語ったときにも聞いた言葉だ。
ヂェンリィはいくらか苛立たしい気持ちになった。
「駆け落ちをしようと誘ったのは、わたしなの。わたしたちが駆け落ちしなければ、あなたのお父さまが殺されることは、きっとなかったわ」
「馬鹿馬鹿しい。殺したやつが悪いのです」
いくらなんでも、そこまで遡って清算を求めるほど愚かではないとヂェンリイは吐き捨てた。
なおもインは続けて、
「メイフォンと出会わなければ。ジンイン家が真っ当な商売を心がけていれば。ラング一門があの町にいなければ。メイフォンが野盗でなければ。わたしが諦めて結婚していれば。因果は因果を生み、その因果がまた因果を生み……あの子が産まれ、あなたを導いた」
「くだらない!」
遠因など、突き詰めれば産まれてきたこと、人類発生、世界の誕生にだって辿り着く。
「だから、なんですか? 天罰が下るって? 親の因果が子に報うとでも? わかってるの? もしも本当に真犯人がいたとして、見つけられたとして、そいつが簡単に罪を認めるわけがない。逆に殺されるかも。それでもいいのか? 母親だろ! この村で生きるのが幸せなことだって、私にだってわかる!」
沸々とした怒声に鶏が甲高い声をあげ、二人の足元を飛び回った。
思わずカッとなって、ぐちゃぐちゃになった胸から出た言葉にヂェンリィは後悔した。
この母が娘を愛していないはずがない。
そんなこと、この三日で充分にわかっている。
インは悲痛そうな顔で、
「わたしは、怖いの。メイフォンが死んだとき本当に辛かった。でも、これが、わたしたちの罰なのだと思った。それでも、あの子がいて、看取ることができて、わたしもメイフォンも、幸せだった。だから天命は、あなたを招いたのよ、きっと。まだ罰は、終わっていないんだわ。ここで、ショユエを留めたら、もっともっと重い罰が下る気がしてならないの。あの子にまで先立たれたら今度こそ、どうにかなってしまう」
だけど、
「今生の別れなら、まだ耐えられる。罰を選ぶなんて不遜なことなのはわかっている。でも!」
インはヂェンリィの手を取り跪く。その手は震えていた。
「お願いします、ヂェンリィさん。こんな、わたしの頼みを聞いてくれるのなら、どうかあの子と一緒に行ってあげて。そして帰らせないで。守って欲しいなんて図々しいことは言わない。ただ、あなたと一緒に旅立ってくれたら安心できる。あなたも強いんだもの。二人ならきっと、どこにいたって生きているんだと信じられるの。会えなくても、幸せを確信できる。だから、お願いします」
ヂェンリィには目の前の女が、とても哀れな生き物に見えた。
「お父さまのこと、本当に、ごめんなさい」
ヂェンリィは神仏を信じていない。
そんなものがいるのなら、自身に必ずや仇を討つ機会を与えてくれるはずだ。
しかし現実はどうだ。
リウを手に掛けることは叶っても、メイフォンはすでに死んでいた。
指輪も所在不明のままだ。
「天罰なんか、あるものか」
インがハッと顔をあげた。
その顔は涙に濡れていた。
ヂェンリィは握る手をほぐすと、そっぽ向いて言った。
「だいたい、メイフォンの最初の殺人は生きるためだったんだろうが。貴女が、ジンイン家で生まれ育ったのだって誰にどうこう出来るって言うんだ。しかたないじゃないか。生きていくためには。それしかなかったんじゃないのか。なにを選べる。人に、なにが、どこまで選べるっていうんだ」
「それは、でも……今思えばきっと、他に、道が」
「そのときは、それしかなかったんだろう! 生きるために! 鶏を絞めるのとなにが違う。豚を食べるのも罪なのか? ならば天は今すぐ、全ての人を裁かなくてはならない!」
「……人を食いものにするのは、違うと思うけれど」
「かもな」
鼻で笑うヂェンリィ。
それから彼女を真剣な目で見据える。
「貴女たちの事情は、本当のところ、よくわからない。でも貴女たちが愛し合っていたのは、わかる。そんな二人が十三年間――それで充分だと思う。もっと罰して欲しいなら役所にでも行け。門前払いだろうけど。私もごめんだ。私が討たなきゃならないのは、貴女たち母娘じゃない」
インは頭を下げて、静かに呟いた。
「ごめんなさい。ありがとう」
この女は――ふたりは――ずっとずっと、誰かに許して欲しかったのかもしれない。
だけど誰にでもできることではなかった。
娘や身内では、許しになどならないのだから。
「びっくりしちゃった」
インは涙を拭って微笑んだ。
「あなたに、そんな風に言ってもらえるなんて思ってなかったから」
見るに堪えない。
良い人が苦しむのは、とても嫌な気持ちになる。
彼女は、これからも罪の意識を抱えて生きるのだろう。
許されたところで、それが無くなるわけではないのだろう。
人が良いから。
そして、つくづく哀れな女だ。
最期になってようやく思い知れば良い。
娘や孫に看取られて逝く、その瞬間に。
天罰なんてものはないのだ、と。
(……やっぱり天罰なんてない。きっとメイフォンも、そんな風に死にやがったんだ。恋人と娘に看取られたんだから。うちの母とは大違い)
ヂェンリィは彼女に背を向け、鶏小屋の戸口に手を掛ける。
「一緒に行くつもりはなかったけど、気が変わった」
「ありがとう、ヂェンリィ。あなたも付いていってくれたら心強いわ、本当に」
「真実はなにものにも屈しない。そう、母は言っていた。でもショユエが真実を霧の向こうにやってしまった。本当に可愛げがない。減らず口ばっかり。しょうがないから、私も行く」
今度こそ真実を見つけるために。
変わらないのなら、それで良い。
そうでないのなら、百倍の憎悪を滾らせよう。
「指輪だって見つけなきゃ。それだけ。インさんに頼まれたから行くわけじゃない。だから、あの子は必ず、うちに帰す」
背中越しに彼女の頷く気配がした。
「そのときは、ヂェンリィさんも一緒ね。そうだったら嬉しいわ」
「メイフォンの墓を蹴飛ばすためでも?」
そうはならないと、インは微笑んだ。
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