三章

復讐者と仇の娘

第12回 茶の村にて

 見られている。

 そう感じたリウは家族に、財布を忘れたなんて嘯いて、自宅のある坂道を登っていった。


 どこからかは、わからない。

 相手は恐らく一人。


(心当たりはなくもないけど……でも今更……)


 あの後、リウはメイフォンらと共に、インファの元側仕えだという女性ユアンの故郷を訪れた。

 そこで一年ほど、師姉に鍛錬をつけてもらった。


 いつまでも世話になるわけにはいかない。

 名前をリツと変えて各地を転々。

 この町に流れ着いたのが、もう十八年ほど前のことである。


 そして今の妻と出会った。

 たまたま立ち寄った飯店の看板娘で、たちの悪い連中に絡まれていたところを助けたのが縁となった。

 連中とは、しばらくいさかいが尽きなかったものの、撃退を続けているうちに諦めたようだった。


 今更また、ちょっかい掛けてくるとは考えにくい。


 ラング家も、もちろん頭を過ぎったが……。

 あちらこそ今更ではないだろうか。


(彼らにしてみれば、あの日のことは、仕事を一つ失敗しただけのはず。彼女チュミンと一緒に逃げたならともかく。執着はしないだろう)


 なにはともあれ、正体を明らかにすれば済む。

 リウは、今の自宅でもある飯店に入って、追跡者を待ち受けた。


 妻と幼い子供、そして義理の両親たち、家族一同で町の祭りを楽しむため、早々と店仕舞いしたばかり。

 そのため店内には誰もいない。

 今なら一人。誘いと思い、去るか。

 それとも……。


 果たして、戸は叩かれた。


「どちらさまですか?」

 リウは問うたが答えはない。


「開いていますよ」

 すると、静かに扉が開いていく。


 入ってきたのは女のようだった。

 なだらかだけれど起伏のある体型。


 顔はよくわからない。

 外套マントのフードを目深に被っていた。


「なにか、ご用ですか?」


 女は後ろ手に戸を閉めて、

「指輪を出せ」


「なんの話ですか? うちには、そんな洒落たものはありませんよ。飯店ですしね」

「とぼけるな、リウ・ラング。ラングの面汚し。ヒャクゴウの指輪を盗ったのは、お前だろう」


 怒りを越えて、憎悪の籠った声だった。


「……ぼくは、確かに、リウです。でも指輪は知らない」

「なら、メイフォンか? あの女の居場所はどこ?」

「彼女でもありません。なにか、勘違いされているようです。あれは、連理レンリ町の」


 リウは身構えた。女が一気に距離を詰めてきたのだ。

 手には匕首ひしゅが忍んでいる。


 なんてことはない。

 躱すにしろ、叩き落とすにしろ、リウには簡単なこと。

 だが、そのとき彼女の顔を隠していたフードが外れてしまった。


「――チュミン」


 懐かしい顔に驚き、止めそこなった刃物はまるで、そこにあるべきかのように、胸の中央へ吸い込まれていった。

 リウは後退り、ゆっくりと倒れこむ。


 チュミンによく似た顔をした女は彼を一瞥することもなく二階の自宅部分に上がった。

 そうして家探しに精を出したが、目当てのものは見つからない。


「……メイフォンのほうか」


 忌々しげに呟いた。

 その手の中には、彼女に当てた書きかけの手紙がある。


仁茶ジンチャ村。そこにあの女が」


 やがて、階下から悲鳴が聞こえた。

 リウの家族が、戻ってこない彼を心配して帰ってきたらしい。


 女は窓から逃亡した。

 もうここに用はない。



   *   *   *



 のどかな村だ。

 短髪の女は足を止めて、右手の丘の彼方まで続く、青々とした茶畑を眺めた。

 茶摘みに従事する女たちの歌声が、蒼穹に響き渡っている。

 それから子供たちの元気な声や、鶏や豚の鳴き声も聞こえてくる。


 女が村の者でないことは、取れぬ眉間の皺と、薄汚れた外套マントからも明らかだった。

 女は、自分が久しぶりに穏やかな気持ちになっていることに気付き、鼻で笑った。


(馬鹿だな……これから仇と会おうといいうのに)


 母が亡くなると、ヂェンリィ・ラングは故郷を発った。

 彼女が生まれる前に父は殺された。

 その犯人を母はずっとずっと憎んでいた。

 惨めな生活も全て奴らの所為。

 ヂェンリィは、母の恨み言を子守歌代わりに育った。


 母の無念を晴らす。

 その旅路も、今日、終わる。

 終わらせる。


 ただ、この長閑な村を血で汚すことだけは心苦しく思う。


「どうかしましたかー?」

 ヂェンリィの前を行く少女が振り返った。


 名をショユエという。

 ヂェンリィの二つ下、十六歳で、くりくりした目とふっくらした頬が幼さを醸し出している。

 背はヂェンリィより低め。髪は肩に掛かる程度。

 村の入口付近で洗濯物を干していた娘たちに声を掛けたところ、真っ先に案内を買って出てくれたのが彼女だった。


「なんでもない」


 ヂェンリィが答えると、ショユエは首を捻りながらも「そうですかー」と先導を再開する。


 間もなく、ある家についた。

 村の大半のそれと同じ、木造の赤い屋根の小さな家だ。

 隣には高い柵に囲まれた土地がある。

 鶏を育てているようだ。コケコケ鳴くのが聞こえる。


 ショユエはヂェンリィに向かって、

「ちょっと待っててくださいねー。マーマ、お茶摘みしてるので!」

 と声を掛け、今度は茶畑のほうへ走っていく。


 ヂェンリィはぎょっとした。

(あの子が娘?)


 やがて一人の女を伴い戻ってくる。

 その女の左頬には刃物でズタズタに裂いたような、凄惨な傷跡があった。


 顔に傷があること、それ自体は、そう珍しいものでないことをヂェンリィは知っている。

 お陰でこの三年間に三度、はずれを掴まされた。


 けれど今回ばかりは、確かな筋からの情報だ。

 リウ・ラングという共犯者からの。


「はじめまして」

 とヂェンリィ。

連理レンリ町からやって来ました」


 ショユエの母は驚いたように目を見開いて、どこか諦観めいた息を零す。


「ようこそ、いらっしゃいました。どうぞあらって――あがって、ください」


 彼女に促されるまま椅子に座った。


「ショユエ。お茶をお願いね」

 娘は二つ返事で台所へ向かい、窯でお湯を沸かす支度を始める。


「お構いなく」


 ショユエの母は机に置き去りになっていた裁縫道具を、棚の上に片して対面に腰掛けた。

「ここのお茶、名品なのよ。遠慮して損することはありませんわ」


 ヂェンリィに、そこまで長居するつもりはない。

 早速、本題に入る。


「ショユエのお母様。あなたの名は、インファ・ジンインで間違いありませんか?」


 彼女は頷いた。


「今は、仁茶ジンチャ村のインと名乗っているけれど。確かに以前は、その名を使っていました。……あなたは父の遣い? それとも、兄の?」


 ヂェンリィは首を横に振る。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私はヂェンリィ・ラング。父はヤー、母はチュミンです」


 インファは「やはり」と呟いた。

「お母さまによく似ておられます。彼女はお元気ですか?」


 冷静なつもりだったけれど、両親の名を出した彼女は、体を駆け巡る血の一滴一滴が、沸騰していくのを感じていた。

 火を止めるか、冷や水を掛けるかでもしなければ、もはや自分では制御できない。


「メイフォン・ラングはいますか? それとも別れた? なんであれ隠し立てる気なら――」


 ヂェンリィは、腰にひっそり吊るした匕首ひしゅへ手を伸ばす。

 鍔のない短剣である。暗器の一種で、いかに隠し持つかが肝要だ。


 彼女の場合は、わかりやすい武器として持っている。

 素人相手への脅しには、これで充分。


 そのとき。

 風切り音がヒュンヒュンヒュンとヂェンリィに迫る。


 間一髪。

 左手でその正体――包丁の柄を掴む。

 飛んできた方向、台所を見ればショユエが膨れっ面をしていた。


(ぼやけた子だと思ったけど、できるな)

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