第11回 駆け落ち明暗

 さて、ようやくジンイン邸を去れるという段になり、騒ぎを聞きつけやってきたのだろうが、果たしていつから窺っていたのか。


「待ってくれ、インファ!」

 家の影から現れたる男が一人。


 リウも幾度となく顔を合わせたことがある。

 この邸宅が主、ジトン・ジンインその人だった。


「インファ、行くな! 不幸になるだけだ!」


 メイフォンは黙したまま。

 彼女に抱きかかえられたインファが答える。


「親より先に死んだ、親不孝なむふめを、お許しください」

「なにを馬鹿なことを! さあ、こっちへ来い」


 彼女は寂し気な笑顔を見せて、

「十三年前のあの日、インファ・ジンインはんだのです。わしだって叶うことなら、早くに亡くなってしまった母の分も、親孝行をしたかったけれど……死人にどうして、そのようなことが出来るでしょう」


 父から顔を背けるように、メイフォンの首へしがみつく。

「インファ! そんな女と一緒になって、どうなる! まともな暮らしも出来まい!」


 メイフォンは彼に頭を下げると、塀を跳び越えていくのだった。


 三人は、その足でラング邸へと向かった。

 見張られていたらしいことを考えたら、こちらはこちらで虫が火中に飛び込んでくるのを待っているかもしれない。

 と、メイフォンが共に忍び込むことを提案するも、リウは首を横に振った。


「実力こそ師兄の率いていた方々が上ですが、数はこちらが多いです。先ほどのような大立ち回りが、また上手くいくかは……。どうか、師姉はインファ様と、お逃げください」

「あんた、いつの間にあたしを侮れるようになったの?」

「……すみません。でも、万が一ということもあります。お二人になにかあったら……」


 インファが口を開いた。


心配ひんぱいしてくれて、ありがとう。でも、わしたちも心配なのよ。だから間を取りましょう」

「間、ですか?」

「十分、いえ五分だけ待ちます。メイフォンもそれでいいでしょう? 待ち伏せされてるなら、すぐわかると思うわ。それとも、ここで何時間も立ち話する?」


 そう言われるとメイフォンも渋々承知した。


「少しでも妙な気配があったら助けに行くわ」

「メイフォン師姉、インファ様。ありがとうございます」


 塀を跳び越えたリウは、息を殺して歩き出した。

 ラング邸は、ジンイン邸と比べてしまえば狭いほうだが、彼らとつるんでいただけあって、町の中では上位の広さと言えよう。


 しばらく行けば小さな橋の掛かった池がある。

 その先に彼女の寝室がある。


 誰かが待ち伏せしているような様子は特にない。

 杞憂だったようだ。


 そう思っていると、池の向こう岸に人影の立っているのに気付いた。

 リウに緊張が走るも一瞬のこと。


(……星を見るのが好きだったな)


 記憶の中の彼女より髪は長く、腰に流れるほどとなっているが、間違いない。

 少し太っただろうか。


 ずっと会いたかった。

 なのに、あともう少しというところで動けなくなってしまうのは、どうしてだろう。


 いや……わかっている。

 彼の言っていたことは、きっと、本当なのだ。

 だけれど、このまま会わなければ、わからないままでいられる。


 しかし――それは、いかなる運命の悪戯か。


 戻ろう。

 リウが決意した、そのとき。

 彼女もきっと、同じように、部屋に戻ろうと思ったのだろう。

 天から視線を落とし、暗がりの中にいたリウと、確かに目が合ってしまったのだ。


「誰? モウさん?」


 リウは迷い、その天命を受け入れることにした。


「ぼくだよ、チュミン」

「え……?」


 彼女は、彼をようく見ようとして、不意に何かに気付いたようにハッと息を飲んだ。


「もしかして……リウ? え、うそ。どうして……?」


 戸惑いながら、守るように自分を抱く。

 その仕草だけで、察するに余りあった。


「驚かせて、ごめん。ただ、信じてもらいたかった。父上を殺したのは、ぼくじゃない」


 チュミンは足をほんの僅かに、後ろへ引いて、震えた声で頷いた。

「ええ、信じているわ」


 リウの両目から雫が静かに落ちていく。


「――ありがとう。さようなら」


 踵を返してからは早かった。

 脇目も振らず、決して躊躇うことなく、元来た道を戻った。


 五分は過ぎていたように思えたが、メイフォンとインファは、まだ、そこにいてくれた。

 彼女たちはなにも言わなかった。


 今は、その気遣いがありがたかった。

 口を開けば、きっと嗚咽を漏らしてしまっただろうから。

 動けなくなってしまっただろうから。


 邸宅内が、にわかに騒々しくなる。


「あのリウが脱獄しただと!?」

「まだ遠くにゃ行ってねえはずだ! 追え!」


 三人は町の外へと急ぐのだった。

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