第9回 再会
まずメイフォンが頭を出して周囲の安全を確認。
手招きにリウも続いた。
久方ぶりの解放感。空気が美味しいとすら思う。
けれど味わっている余裕は、まだ、ない。
メイフォンが死囚牢の壁に背中をくっつけているのに
囁くような声で彼女は言った。
「看守の様子を見てくる」
不定期にではあるが監内をざっと見回ることがあるのだ。
壁にくっついたまま端の方へ歩いていき、角の向こうへ消えた。
間もなく戻ってきて、呆れた風に笑う。
「酒盛りでもしてるみたい。この十年、脱獄騒ぎの一つもなかったからって油断しすぎ」
リウは耳に意識を集中させてみた。
確かに、遠くから微かにだけれど、野太い笑い声が聞こえる。
素早く周囲の壁に近寄る。
石の具合は牢獄と同じようだった。
手と足の指で穴を穿ち穿ち、慎重に上がっていく。
屋根まで辿り着いてしまえば、こちらのもの。
屋根から屋根へ
ここから近いのはジンイン邸だ。
「でも」
とメイフォン。
「もしかしたら次はないかもしれないわ」
気づかれてしまえば騒ぎが大きくなって、余裕がなくなってしまうことも考えられる。
リウは言った。
「ジンイン邸に向かうべきです。ぼく一人では、ただ無為に時を過ごし処刑されるだけでした。まずは師姉の本懐を遂げてください。でなければ万が一があったとき、ぼくは獄に入れられた以上に苦しむことになるでしょう」
「……ありがとう」
ジンイン邸にはラング一門の者が五人から十人ほど常在し、敷地内の警護にあたっている。
というのはメイフォンが現役であった頃の話。
リウの時代には十五人程になっていた。
三年で減ることはあっても増えはしないだろう。
ふたりは長い塀をぐるりと回り、インファの部屋がある側へやって来た。
塀の高さは頭二つ分ほど高いだけ。一息で跳び越えられるだろう。
リウが足に力を込める。
それをメイフォンは制止して、塀に耳を押し当てた。
向こう側に人がいるか否かを確かめているらしい。
しばらくして、
「あたしが跳んだら、二拍置いて跳びなさい」
そう耳打ちしてすぐ、彼女は高く跳びあがる。
リウも戸惑いつつ言われた通りにしてみれば、メイフォンが邸宅の二階を見つめる一方で、その足元に二人の見慣れた顔が倒れている光景が待っていた。
不意打ちとは言え、声をあげる間もなく、のしてしまうとは。
彼らとて一門で中の上ほどの
(いくら元が一門で二番手とは言え。十三年、獄中にいた者の動きか、これが)
死んだ武術家を、ここまで蘇らせる鬼哭功の執念に
これでも全盛期に届かないだろう、メイフォンの実力の高さを畏怖すべきか。
リウは、どちらかと言えば後者だった。
(五割ほど修めたらしいぼくは、肩甲骨を穿たれていないし経絡もまったく無傷だけど、足元にも及ばないんだろうな。ツァオ師父が誇らしげにするわけだ)
尊敬しかない。
彼女が一階の屋根へと飛び移る。
リウもそれに続いた。
窓は装飾性の高いもので、色ガラスで鳥を、木枠で止まり木を表している。
中は見えない。
メイフォンが窓ガラスを軽く叩いた。
一回、二回。
三回目になろうというとき、ぼんやりと、室内に明かりが灯る。
ゆらゆら揺れる人影が、ガラスの向こうに現れた。
「……はれ?」
と、影は言った。
きっと、誰、と言ったのだろう。
『だ』と『は』の狭間のような発音だった。
メイフォンは答えない。
リウが窺えば、今にも泣きそうな、苦しそうな横顔をしていた。
「も
彼女はぎゅっと目を瞑り……どうしようもなく、恋しそうな顔をして頷いた。
「そうよ、インファ」
窓の向こうで息を飲む気配がした。
「……入って。鍵は掛かってないから」
そう言うと人影は奥へ消えていく。
メイフォンは静かに窓を開け、部屋の中へ。
ふたりを見送ったリウは、周辺の警戒に意識を集中させるのだった。
この再会が誰にも邪魔されぬように、願いながら。
* * *
メイフォンは、渇いた喉を少しでも潤そうと、微かな唾液を飲み込んだ。
心臓の鼓動なんて、どんな仕事のときだって、初めて人を殺めたときだって、気にもならなかったのに。
棚に置かれた蝋燭の、頼りなくも温かみのある明かりに、インファがぼんやり浮かび上がる。
彼女は寝台に腰掛け、頭からすっぽり布団を被っていた。
その隙間から、辛うじて右目だけが覗いている。
「インファ……」
愛おしさが溢れてきて、一歩、踏み出す。
しかし――、
「ま、待って」
とインファに言われて足を止めた。
やっぱり、そうなのか。
そういうこともあるとは思っていたけれど、いざ突きつけられると、どうしようもなく痛い。
胸の奥が、痛くて痛くて、泣いてしまいそうだ。
脱獄を決意したあの十三年前から、涙なんて一滴も流したことはなかったのに。
でも泣くにしても、それは今ではない。
「インファ、ごめんなさい。謝りに来ただけだから。すぐ出ていくから」
布団の中の彼女が慌て出す。
「ち、ちがっ! ちがう、違うの、メイフォン。そうじゃなくて……わ
メイフォンは、真剣な彼女には悪いと思うけれど、誤解とわかり胸を撫でおろしていた。
「顔を切り裂いたことなら、知ってるわ」
インファの右目が真ん丸になる。
「
「ユアンさんが、町を出る前に教えてくれた」
「
それでも彼女は、まだ決心つかないのか。
布団をぎゅっと握りしめ、目を伏せる。
メイフォンは歩み寄って、
「恨まれているんじゃないかって不安だった。あたしがもっと上手くやっていれば、顔だって」
布団の中から鼻をすする音。
「ばかね。
「へっちゃら。あたしも、好きでしたことだもの」
メイフォンは布団を掴んで、優しく、はだけさせる。
十三年ぶりに見る、彼女の顔は――痛々しくて、愛おしかった。
左の頬を、何度も切り付けたのだろう。傷跡は幾重にもなっていた。
口元が突っ張るのか、それとも痺れているのか。
歪んでしまっている。どうりで発音が変なわけだ。
メイフォンは、その頬をそっと撫でて軽く口づけをした。
そして、どちらともなく、唇を交わす。
互いの背に、首に、腕を回して、深く、深く……。
潤んだ目でインファが言った。
「絶対に来てくれるって信じてた。新月の夜には、鍵を掛けないで待っていたのよ。本当よ」
「ええ、わかってる。待っていてくれて、ありがとう。愛しているわ、インファ」
「わ
「ええ、必ず」
もう一度、唇を重ねるとインファは引きつった、けれど幸せそうな笑みを浮かべるのだった。
「じゃあ、安心ね。あなたの必ずは、必ずなんだもの」
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