第4回 百合の花は新月に散る

 そして今宵――新月の夜がきた。


 とても静かだ。

 町中が眠っている。


 メイフォンの荷物は最低限。

 左の薬指に輝く百合の指輪。

 そして思い出の詰まった箱を、風呂敷にくるんで斜めに背負った。


 あとはジンイン邸に行き、インファとふたり、静かに立ち去れば良い。

 邪魔する者はいない。


 そうであって欲しいと願っていた。


 メイフォンの頬を、冷たい汗がゆっくり伝い落ちていく。

 ラング邸の門扉の影から一人の男が、姿を現したのだ。


 星明かりに照らされ、その狼のような目が光る。

 男は静かに、それでいて圧を感じる声で言った。


「もう寝たほうがいいぞ、メイフォン。明朝から仕事があるんだからな」


 メイフォンが、ジトン家が遠方へ遣わす輸送隊の護衛の一員に選出されたのは、本日午後のことだった。

 普段なら真っ当な仕事に安堵するところ、今は事情が違う。

 なによりインファの婚姻が三日後なのだ。

 それまでには恐らく戻れない距離だった。


 思惑を感じずにはいられなかったが、当たっていた、ということか。


「お願いします、師父。行かせてください」


 男――ツァオ・ラングは言った。

「人生というのは選択の連続だ。このままとこに戻り仕事に備えるか、俺に敗れて投獄されるか。選ばせてやろう。お前も大切な娘だからな、命までは獲らん。ただし、だ。その指輪、ヒャクゴウの指輪は、どちらにせよ渡してもらおう」


 メイフォンの顔が驚きに染まる。

「これが百合経ヒャクゴウキョウに通ずる品?」


 武林ぶりんに身を置く者なら一度は耳にするだろう。

 数多の武芸を修め、また数多の武芸の始まりにもなった、天下無双の武芸者。

 時の暴君、賢陽ケンヨウ帝討伐の立役者であり、謎多き存在――百合ヒャクゴウ宝樹ホウジュの名を。


 その伝説の一つに、かの者が残したとされる武術書の存在がある。

 それが百合経ヒャクゴウキョウだ。


 手にすれば天下無双に至らん。

 百合がその在処ありかを知っている。


 誰が、いつ言い出したのかも定かでない。

 けれど武林の者どもは、その実在を信じて疑わない。


 悪鬼善神の欲してやまぬ秘伝である。

 ツァオも追い求めていることは、メイフォンは当然知っていた。

 百合にまつわる事物あれば、彼の元へ伝えるようにも言われていた。


「でも、まさか! だって土産の品って……なにかの間違いではありませんか」

「そもそも本物があるかどうかもわからねえ。ただ、それの過去の持ち主には、ちぃとばかし有名な武術家がいたんでな。世に蔓延はびこる無数の偽物と比べたら、小指の爪ほどの可能性がある」


 やはり確かとは言い難いらしい。

 しかし今、重要なのは指輪の真贋などではない。

 彼が指輪を欲しているということ。


「持ち主を辿るのに手間取っているうちに、お前の手に渡るとは思わなかったぞ、メイフォン」

「……でしたら師父、父上よ、指輪は差し上げます。だから」


「わかっているだろう? 二度と会わせるなと頼まれている。ジトンとの繋がりは、断つには惜しい。金、人脈、耳と目。百合経の捜索にも、さぞや役立つだろう。友の頼みでもあるしな。娘の頼み、聞いてやりたいが……力尽くで奪えばいいんだ。交渉にならん」


 メイフォンは腹をくくった。


 もはや打ち倒すしかない。

 よしんば、やり過ごせたとしても、彼女を連れる頃には追い付かれてしまうだろう。


 メイフォンにとって彼は命の恩人。

 愛しい人と出会えたのも彼がいればこそ。


 師父にして養父でもある。

 親子の情……ないとは言えない。


 だが今は――、


「さあ、メイフォン。俺に繋がれるか、獄に繋がれるか。選ぶといい」


 彼女との約束を断たんとする、強大なる敵。

 メイフォンは己を奮い立たせるように吼えた。


「あたしは、あの子と生きるんだ、ツァオ・ラング!」


「はっ!」

 ツァオが牙剥くように笑う。


「それでこそ、だ。生も愛も、その手で掴んでみせろ。この俺を打ち倒し!」


 構えらしい構えを取らずメイフォンは地を駆ける。

 対するツァオも当然という顔して構えを取らない。


 間合いに入った、瞬間!


 メイフォンは五指を鉤爪にして繰り出す。

 左目を狙うも躱された。返す手で追い――否、一旦離れる。

 ツァオの鉤爪で、危うく脇腹を裂かれるところだった。


 ここで攻勢を崩して相手の流れにしたくない。

 メイフォンは左右から次々、爪を繰り出していく。


 ツァオは僅かな動きで躱していった。

 メイフォンに焦りはない。

 落ち着いて相手を観察し……あえて隙を見せる。


 ツァオの豪爪が顔面に飛んでくる!


 メイフォンは寸でのところを躱しつつ肘に爪を引っ掛け、蹴り放つ。

 足は躱されてしまったが、人差し指と中指には確かに血がついていた。

 彼女は思わず口元に笑みを浮かべていた。


(通じる! あたしの内功は師父に、ツァオに効く!)


 武には二つの功がある。

 一つは外功――皮膚や筋肉の鍛錬、あるいは拳や剣を扱うすべを指す。


 もう一つは内功。

 呼吸や血流、臓腑、精神といった身体内部の鍛錬によって内息、すなわち氣が、経絡を流通することで生じる力――内力――の強化および制御を図る術である。内力を鍛えれば身体能力は向上し、五感も鋭くなる。

 他にも人並み外れた技を使えるようになる。


 メイフォンは今、硬身功なる内功の技で指先を鋼のようにしたのだった。


 相手が常人ならば、その傷は骨にも達したことだろう。

 それが叶わなかったのは、ツァオもまた内功で肉体を硬くしていたからだが、皮膚そして僅かな肉を抉っただけでも自信になった。


「メイフォン、お前を拾った日を思い出すな、そのギラついた目。あのとき問うたのは間違いじゃあなかった。思った通りに我が門派、いや、町で二三を争うほどに成長した」


 彼の腕の傷は、すでに血が止まっている。

 筋肉、あるいは内功によってだろう。


「やはり俺が待ち受けることにして正解だった。他の者では止められまい」

「町で二三?」


 メイフォンは一息に踏み込んで、彼が拳を繰り出すと見るや、

「一番は自分のつもり!? いつまでも!」

 頭上を跳び越えた。背後から首筋を狙う。


 が、しかし――ツァオは身を屈めつつ、メイフォンを蹴り飛ばした。


「当たらなければ如何いかなる内功も無力だぞ」


 言いつつ彼は追撃に動く。


「教えたろう。外功と内功は相反するものではない」

「むしろ、互いに補い合うもの! 耳タコよ!」


 メイフォンは即座に態勢を整え、ツァオに応えた。

 どうにかこうにか鉤爪をいなす。

 旋風のような攻めは絶え間なく、かと思えば突然に凪いで、下から跳ねあがる足!


 間一髪、横に躱す。

 頬を血が伝う。


(連撃が止まった!)


 狙うは脇腹。

 五本の指を喰い込ませ、肉を握り取るべし。


「――う、ぐぅっ!」

 呻き声と共に下がったのは、メイフォンのほうだった。


 読まれていた。

 ツァオもまた同じく五指で迎え撃ち、メイフォンは右手の親指以外の生爪を引っぺがされるばかりか、中指と薬指の先を折られてしまったのだ。


 しかし相手も無傷ではない。

 人差し指の爪剥がれ、中指が折れている。

 ただし顔色不変。


 両者とも、曲がらぬはずの方向へ反り返った指を無事な手で握り真っ直ぐに戻す。

 メイフォンの目に指輪が映る。


 彼女との大切な思い出……。

 父が欲してやまぬもの……。


(インファ、ごめんなさい!)


 心のなかで謝り指から引き抜くと、地面に落とす。

 ツァオが顔に焦りを浮かべて突っ込んでくる。


「待っ――!」


 メイフォンはももを上げ、勢いよく踏みつける。


 だが、そこに指輪はもうない。

 指輪を庇うべく飛び込んでくるかと思われたツァオが、剥がれた爪を投げつけ足元から弾き出したのだ。


 驚愕するメイフォンに“貪狼トンロウ”ツァオが迫る。

 虚を突かれた形になりながらもメイフォンは蹴りを繰り出す。

 彼は左拳でいなし、右肘を彼女の腹部へ深く突き刺した。


 息詰まり、膝をつくメイフォン。

 その後頭部をツァオは掴み、くつくつと喉で笑いながら地面に叩きつける。


「良い機転だ。流石に焦ったぞ。が、俺が一枚上手だったな」


 薄れゆく意識のなか彼女は、うわ言のように、インファに謝っていた。

 何度も、何度も。

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