第3回 罪と罰

 ツァオ・ラングには、弟子がおよそ三十人ほどいる。

 皆、彼の邸宅に住み込んでいる。

 その大半は相部屋あるいは大部屋を割り当てられているが、メイフォンのように個室の者もいる。


 メイフォンは押入の天井を一部外して、屋根裏に隠した箱を引っ張り出した。

 両手で容易く抱えられるほどの大きさ。


 昔から大切なものは、これに仕舞っている。

 ほとんどインファから貰ったものだ。


 初めて貰った服の裏地には百合の指輪が縫い付けられている。

 その糸を切って、左の薬指に通した。

 そうすると、この三年間、恋人として過ごした思い出が鮮明に蘇ってくるようだった。


 だが今は、それに浸っている時ではない。


 半月ほど前のことである。

 インファを、ここ、連理の刑司長の息子に嫁入りさせる話が持ち上がった。


 刑司とは町守のもと町内の司法、警察を任されている役職である。

 今や連理で知る者のいない、ラング家との蜜月関係を思えば、この婚姻が表の暴力までも味方につけるための政略を含んだものであることは疑いようもないだろう。


 メイフォンとインファの関係を知るのは、ジンイン家の信頼できる使用人、ただ一人だけ。

 もしも父や母にも伝えていれば、そのような話はなかったろうか。

 いやいや、そんなことはあるまい。


 片や暴豪の徒アウトロー、片や大商人の娘ブルジョワジー

 この恋は元より叶え難し。


 メイフォンにしたって負い目はあった。

 生きるためとは言え、追い剥ぎをし、時には相手を殺めもした。

 ラング家の一員となってからは殺人こそしていないが、ジトンの命令で商売敵の輸送を妨害、強奪したり、取引先の弱みを握って強請ってみたり……そういうことの片棒を、担いできた。


 幸せになることなんて許されるのだろうか。

 いつか罪をあがなうときが来るだろう。


「――やっぱり、そうだった」


 婚姻の話を聞いた日、メイフォンは包み隠さず、インファに自分の気持ちを打ち明けた。


「それでも天は三年の猶予をくれた。情けをかけてくれたんだわ。そして、これは警告なのよ。罰が必ずしも、自分にだけ降りかかるものではない、と。だから、これ以上なんて、あたしは望めない。望んじゃいけない」


 彼女の部屋でのことだった。


「今、これで済んで良かったのかも」

「ふざけないで!」


 インファは椅子から立ち上がり目を潤ませながら叫んだ。


「わたしが他の人のものになって、本当に、それでいいの!?」

「……あなただけでも幸せになってくれたら、あたしはそれで」

「幸せになれるわけないじゃない! あなたが隣にいないのに!」


 メイフォンは絞り出すように、

「きっと、なれるわ。でも一緒になったら、もっと不幸になる。これが限度なのよ。あたしに許された最低限の幸せだった。あとは罪を償うときなのよ」


「そんなこと……!」


 唯一の理解者である使用人になだめられ、インファは腰を下ろした。

 お茶を飲み、気が落ち着いたのか。

 静かに口を開いた。


「わたしだって、あなたの罪の上に暮らしたきた。その罰なのだとしても……」


「あなたは、少しでも人に良くしようとしてきたじゃない。だから幸せになれるわ。彼は確か、人柄は悪くなかったはずよ。役人としても優秀だから、清濁併せ持っているけれど、身内には優しいわ、役人だから」


「そんなこと」

「インファは幸せになれる。最初は苦しくても、いつか、このときは大切な思い出になる」


 彼女は俯き黙りこくる。

 それから、どこか遠くを……。

 ここからは到底見えるはずのない、あの百合の丘を見ているようだった。


「ねえ、メイフォン」


 その眼差しのままメイフォンを映して、寂しげに笑う。


「忘れちゃったの?」


 メイフォンは目を逸らし、

「十年と三年、楽しかった。ありがとう」


 使用人が呼び止めるのも聞かず、逃げるように立ち去った。


 それから彼女とは会っていない。

 会えば必ず、覚悟が鈍る。


 そんな覚悟が一体どれほどのものだと言うのか。

 一昨日、使用人が届けてくれた、彼女からの手紙で思い知った。


『わたしの幸せは、あなたが傍にいてこそなのよ。あなたが本当にわたしを愛しているのなら、わたしの幸せを真に祈っているというのなら。一緒に町を出てください。健やかなるときも、病めるときも、そして罰を受けるときも。わたしは、あなたの傍にいたい。幸せを、苦しみを、分かち合うことは罪でしょうか。新月の夜、お待ちしております。メイフォン、愛しています』


 駆け落ちを考えなかったと言えば嘘になる。

 けれど言い出せなかったのは、ただ恐ろしかったからだ。


 罰を受けるのが自分だけなら構わない。

 それから逃れたいわけではないのだから。


 でも幸せになればなるほど、大きな罰を受けてしまう。

 そんな気がしてならないのだ。


 誰かを愛せば愛すほど、己の犯した罪の重さが、わかるようだった。

 その罰が彼女にまで降りかかってしまったら耐えられる気がしない。


 なのに、


「――あたしだって一緒にいたいよ」


 こんな手紙をもらってしまったら、愛という名の獣が体の内側から肉を喰い破って出てきてしまいそうになってしまう。

 無茶で無謀で、飢えを堪えることもできない愚かな獣。

 そいつは、生まれたときから内にいる。


 メイフォンは涙を流し、手紙を胸に抱いた。


 それに身を委ねていいものなのか。

 それこそが己の罪深さの象徴ではないのか。


 使用人の彼女が深々と頭を下げる。

「お嬢さまを、どうか、よろしくお願いいたします」


「でも、あたしは」


「少しでも、その決意が揺らいでおりましたら、どうか。どうか、わたしくを言い訳にお使いください。お願いします。メイフォンさまは、いずれ思い出になると仰られました。きっと、幸せになれる、と。……わたくしは、そうはならないと思うのです。ですから、お願いします。お願いします!」


 メイフォンは涙を拭って、

「そんな卑怯者に、あの子を任せることは、できない」


 だから、と続けた。


「必ず行く。そう伝えて」


 それが正しいことだとは思わない。

 でも、共に罪を背負おうと、愛する人に言われたのだ。

 その一握りの幸せを十八の少女に手放せるものだろうか。

 罪と罰に身を裂かれるような思いをしていれば、なおさら。


 なればこそ、彼女には覚悟を決めるほかなかった。


「なにがあろうとも、あたしはインファを守ります」

 どんなにインファが良いと言おうとも、彼女に己の罰を贖わせてしまうことがないように。


「わたくしは」


 使用人が優しく微笑む。

 年の離れた姉か、母のような慈愛に満ちた笑みだった。


「おふたりの幸せを願っております。他の誰もが望まなくとも、わたくしだけは願いましょう」


「……ありがとうございます、ユアンさん」

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