第10話 Day16-1

 day16                  


 一


 列車に乗り、私は四番街へと再び足を踏み入れる。

 大通りを歩いて、約十分間。それなりに人が行き交う通りを二度曲がった先に見えてきたのは、『カフェ・ユリフィドール』。今日は営業中だ。中からはたくさんの人の話し声が聞こえて、以前訪れた時とは大違い。

 なぜか私は緊張しているけれど、緊張する必要なんてない。ただ伝えるべきことを伝えれば良いだけなのだから。私はレーシャの干渉医で、責任を持って彼女の問題を処理する。相手が患者の母親であろうとも関係ない。ノーと言うべきことは、しっかりノーと言うのだ。一呼吸をしてから、中へ入る。


 カラン、と音がして扉が開く。

 甘ったるいパンと、さわやかな果実と、苦いコーヒーが混ざり合ったにおいがする。まず目を引いたのは、カウンターであたふたと動き回る若い夫婦。このカフェの店主、ユリフィさんとドールさん。


「おや、デートさん。おはようございます」


「ドールさん、おはようございます。今日は待ち合わせで……」


 彼に用件を伝え、私は店の奥へ進んで行く。

 店内を見回す。私が探している人は……一番奥の方に居た。写真で見たので、人違いではない。レーシャと同じ、絹のように白くて長い髪。瞳は娘と違った緋色。レーシャの母親と言うだけあり、美しい女性だった。

 彼女の座る席へと歩み寄ると、私に気が付いた彼女は顔を上げた。緋色の双眸が私の碧色の瞳を捉えた。


「……アイリスさん、ですか?」


「スプリングデート先生ですね。娘がお世話になっています。私はレーシャの母、アイリス・エイルケア・ブラックです」


 彼女は立ち上がり、礼をする。柔らかい物腰と、凛とした声。その動作だけで、私は彼女がしっかりとした人物であることを把握した。

 そして私たちは席に着き、話を始めることになった。前に座る彼女は少し憔悴しており、疲労の色を濃く感じる。やはりレーシャに関する件での疲労なのだろうか。私には子供が居ないので分からないが、自分の娘が『廃忘病』に罹ってしまったら、さぞ辛いことだろう。


「あの子は元気ですか?」


「ええ、とても元気ですよ。趣味のお料理や手芸も日頃から行っていて……この地区の住人には最大限のストレス軽減がなされていますから、心理的な負担は少ないでしょう」


「ふふ……そうですか」


 そんな話を聞いて、彼女は少し口元を綻ばせた。

 子供の話に喜ぶ善良な母親だ。しかし、私は予め決めた意志を曲げずに、現実を彼女に伝えなければならない。

 早速、本題を切り出す。


「娘さんに会いたいとのことで……理由をお聞かせくださいますか?」


「……理由、ですか」


「はい。正当な理由なくして、【安寧地区】では患者が外部の人間と接触することは禁止されています。貴女もそれを承諾して娘さんを収容したはずです」


 そして、もう二度とレーシャとアイリスさんは会うことが出来ないだろう。この事実をアイリスさんは知らないが、ここで伝えなければならない事の一つだ。


「親が子供に会うのに、理由が必要ですか?」


 ──その言葉は、私を少しだけ苛立たせた。

 ロストフィルズが似たような事を言っていた。父親が娘の仕事を助けるのに、理由が必要か……と。でも、これとそれでは話が別だ。

 彼女は自分自身の意思で、娘との別れを選んだのだから。いつまでも未練がましく娘に執着するのは。きっと傲慢だ。


「理由は必要です。貴女は二度と娘さんに会うことが出来ないという可能性をも承諾し、【安寧地区】への収容を選択しました。意地の悪い言い方をすれば、娘を見捨てたということに等しいかもしれません。……にも関わらず、一時の感情に流されて娘と会いたいなどと言うのは……傲慢ではないでしょうか」


 『廃忘病』を患ったレーシャを家で看病し、記憶を失った新しい彼女を娘として育てる……そんな選択肢をアイリスさんは選ぶことができた。実際、そうしている『廃忘病』患者の保護者もたくさん居る。

 レーシャはこの地区に収容されると聞いた時、どんな気持ちだったのだろう。当時の彼女の気持ちを考えただけで、締め付けられるような思いがする。


 母親が自分と二度と会えなくなっても良いと言ったのだ。病に罹ってしまって、心細い状況の中で、見放されたのだ。そう考える度に、苛立ちは募ってしまう。別にアイリスさんは正式な手続きに則って、なおかつ娘の身を案じて選択しただけなのに。


「……分かっています。でも、私はあの子をずっと見てきたのに……碌に別れの言葉も交わせなかった。だから、せめて顔だけでも見たいと……」


 私は彼女の言葉を遮るように、告げる。

 苛立ちが言葉となって出てしまったのだろうか。本当はもっと後でこの事実を伝えるつもりだったのに、自然とその言葉を紡いでいた。


「娘さんは貴女のことを既に忘れています」


 その事実を告げた瞬間、彼女の瞳が揺れた。

 悲哀が、一瞬にして緋色の瞳に満ちる。だが私の口は無情にも事実を吐き出し続けた。はっきりと、彼女を見据えて。


「家族のことも、故郷のことも。『廃忘病』は忘れたい記憶から消去されていきます。つまり、レーシャさんにとって貴女は早く忘れてしまいたい存在だった、ということです」


「どうして……? あの子はそんな子じゃありません……」


 そんな子じゃない、か。

 私はアイリスさんよりもレーシャの事を知らないかもしれない。でも、母親である彼女だってレーシャを理解してあげられていないのではないか。だからこそ、『廃忘病』は母親の記憶を真っ先に消去したのだ。レーシャの心の深奥回路が、母親という闇を排除したがって叫んでいたのだ。

 もはや親子の関係性は確かめようがない。たとえ過去のレーシャとアイリスさんの関係を聞き出したって、それはアイリスさんによる一方的な関係の押し付けに過ぎないのだから。彼女がどれだけ娘を愛していたとしても、レーシャは母のことを早く忘れたかったのだ。


 人の心は測れない。かつてのレーシャの心も、目の前で泣き崩れるアイリスさんの心も分からない。分からないから、私には出来る事が限られている。『干渉医』の役目は患者と向き合うこと。だから私はレーシャの心を尊重するけれど、アイリスさんを慮る訳にはいかない。泣かれたって、私にとっては赤の他人なのだから。


「……これを読んでください。管理者からの文書です」


 ロストフィルズに用意してもらった封筒を取り出し、彼女に渡す。彼のような最高管理者は、世界において絶対的な権限を持つ。権力者からの文書に彼女は驚き、恐る恐る読み始めた。

 彼女は文書を読み終えた後、何かを尋ねるかのような視線をこちらへ向けた。そんなに悲哀に満ちた瞳を向けられても、私には何も出来ないのだ。


「患者の状態を考慮し、アイリスさん。貴女のレーシャさんへの接触を、『廃忘病』完治後も禁止とします。この決定は事前に承諾を得ていましたから、今から変更することはできません」


 レーシャは家族の記憶を忘れたいと思っていた。故に、彼女に対するアイリスさんの接し方が『廃忘病』を引き起こした可能性も考えられる。

 記憶をリセットし、新しいレーシャとして歩み出した際に、アイリスさんの存在は再び大きな障害となるかもしれない。それを考慮した上での決定だ。

 彼女はただ文書を握りしめたまま、目を伏していた。


「……よろしいですか」


 残酷な確認だ。いつしか私の苛立ちは霧散していた。

 賑やかなカフェの一角で、私達の席だけが静寂に包まれていた。陽の光が当たっているのに、暗闇に閉ざされている様な気分。

 やがてアイリスさんは顔を上げる。


「……分かりました。それがあの子の……レーシャの為になるのなら従います。管理者様の仰ることですから、信じるほかありません」


「ありがとうございます。娘さんの経過は私が責任を持って見届けます」


 ──強い親だ。

 私もこんな親の元に生まれたら……なんて考えてしまったけれど、今の境遇でも十分だと思いなおした。心を教えてくれた先生に、心を育ててくれたロストフィルズ。彼らは私を理解して、幸せに導いてくれたのだから。

 アイリスさんは何かを悟ったように微笑んで、窓の外を眺めた。雲の切れ目から漏れ出す陽光が、窓から見える通りを照らし出している。


「それにしても、こんなに若い人が先生だなんて。驚いたわ」


 話が変わる。

 彼女はもう娘に関しては諦めたようだ。これで良かったのだろうか……そんな疑問が沸々と心中に上ってくる。しかし私はその想いを押し殺し、彼女との会話に専念する。


「こう見えて、一級干渉医の資格を持っています」


「ええ、担当者の方から聞きました。私の地区では干渉医さんが不足していて、一級干渉医なんて雲の上の存在です」


 一級干渉医の人数はきわめて少ない。私はなるべくして干渉医になり、人工の天才として育てられた。だから、一級干渉医であることをあまり誇りには思っていない。

 『干渉医』は実績と試験によって評価される。試験なんてものは私にとっては児戯に等しいものだったが、実績を積み重ねるのは大変だった。狂人だと同僚に言われるくらい、働いた。ある意味ではその言葉は正しいのだけれど。最初の医務は大変苦労したものだ。


 まあ、私がそうまでして干渉医という職業に執着するのには理由がある。誰にも言えない理由で、話したことはない。私が私の道を歩むのをやめてしまった時……心が死んでしまう。だから、私は半ば強制的に干渉医という使命を背負わされているのだ。


「レーシャさんの出身は【沈静地区】でしたね。私は行ったことがありません」


「田舎の小地区ですから、人手が常に不足しているのです。観光資源も自然風景くらいしかありませんし……」


「【沈静地区】は常に晴天だと聞きました。雲一つない青空を一度は見てみたいですね」


 大昔の写真や絵画で、水色で塗りつぶした様な綺麗な青空を見ることがある。私は雲のない空なんて見たこと無いし、青の欠片もたまに見るくらいだ。見上げればいつもいつも灰色が広がっている。

 中央地区も、安寧地区も、今まで巡ってきたどの地区も。綺麗な水色で満たされた空を持っていなかった。


「私にとっては、むしろ灰色の空の方が珍しいですね。そういえば、娘は青空が嫌いでしたが」


「それは……何故です?」


「分かりません。幼い頃はよく外で遊んでいたのですが、次第に外に出なくなって。理由を聞いたら『太陽が嫌いだから』と言っていました」


 その理由が分かれば、レーシャが『廃忘病』に罹った理由が分かるかもしれない。不治の奇病は精神的な負荷を抱えている者が発症するとの説がある。理由を知ったとて彼女の『廃忘病』を治せる訳ではないが、今後の医療の役に立つかもしれない。

 ロストフィルズ曰く、奇病をこの世から根絶することは絶対に不可能とのことだが……私はまだ希望を捨ててはいない。そもそも、奇病が一斉に現れ始めた理由すら分かっていないのに、根絶が不可能だとどうして言い切れるのか。もしかしたら管理者は世界の真実を握っていて、奇病の治療は不可能だと断言したのかもしれないが……そこまで残酷な事実は認めたくない。


「あらデートさん、いらしていたのね」


 あたふたと店内を動き回っていたユリフィさんが私のもとへやって来た。彼女は赤色のエプロンを着こなし、繁盛する店の切り盛りをしていた。

 その時、私はこの店に来てから何も頼んでいないことを思い出す。


「おはようございます、ユリフィさん。そういえば、まだ注文をしていませんでしたね」


「ふふ……ゆっくりして良いのよ。そちらの方はご友人?」


「はい、レーシャのお母さんです」


 アイリスさんはユリフィさんに頭を下げ、挨拶を交わす。とても娘と似ているので、レーシャの母親と言われればすぐに特徴が一致していることが分かるだろう。


「まあ……! とっても美人な方で、レーシャちゃんに似てるわね!」


「娘もこの店に来たことがあるのですね」


「はい。その時は閉店していましたが、経営者の二人がお店を開けてくれまして……このお店は果物のメニューがとても美味しいのですよ」


 机に置かれているメニューをアイリスさんに渡す。話を聞くところによると、彼女も娘と同じく甘いものが好きなようだ。

 注文を終え、私達は談笑に花を咲かせる。話せば話す程、彼女がなぜ娘から忘れられてしまったのかを見失ってしまいそうになるのだった。子供想いで、誠実な人。かえってその親心が娘を傷つけてしまったのだろうか。

 まだまだ人の心は学ぶべきことが多い。

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