第9話 Day12-2
二
枯れ木に囲まれた我が家を目指し、コートのポケットに手を突っ込みながら歩く。相変わらずこの地区は寒い。自動的に体温を調整してくれるコートが持ち込み禁止なので、外では寒さに耐えるしかない。これはこれで、旧文明の日常みたいで風情があって良いけど……健康に悪いのではないだろうか。
銀雪積もる坂を上り、家へ戻る。この道を通るのも慣れたものだ。家の扉を解錠しようとした時、違和感を覚える。
鍵が開いている。私が出た時に鍵は掛けて行った筈だ。レーシャが散歩にでも出かけたのだろうか。
「ただいま」
「デート、お帰り」
しかし、レーシャは家の中に居た。もしかしたら、家の近くの花を見る為に外へ出たのかもしれない。彼女はソファで寝ていた。顔をソファの背もたれに向け、身を縮めてクッションの角をいじっている。
「体調が悪いのですか?」
「ううん、何もやる気が無くて寝てただけ。デートにもそんな時あるでしょ?」
今は夜にも関わらず電気も点いていなかったので、長い間寝ていたのだろう。
彼女は起き上がり、私が手に持っている鞄を見つめた。
「なんかおっきい鞄……何が入ってるの?」
「上司から押し付けられた書類です。お気になさらず」
「大変だね……そうだ! デートも疲れてるだろうし、今日の料理は私が作るよ」
……どうしようか。患者に料理をさせるというのも考えものだが。
私はこっそりとレーシャのバイタリティをチェックする。脈拍、神経、体温、全て安定している。どうやら本当に体調は悪くないようなので、彼女の意を尊重して、今日は料理を任せることにした。干渉医としては、彼女の意思を最大限に尊重すべきだ。料理を作らせてしまうみたいで申し訳ないが、お願いしよう。
「ありがとうございます。では、私は上で仕事していますね」
そして私が部屋へと戻り、作業を進めてしばらく経った頃。
部屋のドアが叩かれ、レーシャが顔を覗かせた。
「デート、ちょっと聞きたいことがあって」
「はい、何でしょう」
「これは何?」
彼女が手に持っていたのは、野菜。
ナス目ナス科の青緑色の植物で、果肉は種子を覗けば空洞が大半を占める。味は苦く、ビタミンⅭとカリウムを多めに含有する植物。つまりピーマンだ。
質問をされた瞬間、私は彼女の身に起きていることを悟った。きっと、つい昨日まで……彼女はこの野菜の名前を知っていた。ピーマンの名前を知らない人なんてまず居ないだろう。記憶喪失の人を除いて。
「それはピーマンという野菜ですね。苦いのであまり料理には入れない方がいいかもしれません。レーシャは苦いもの嫌いですし」
「ぴーまん……これは有名な野菜?」
この植物の名前を彼女に教えたものの、数分後にはそれを忘れているだろう。『廃忘病』患者に物事を教えても、その知識がかつて削除されたものならば、すぐに忘れてしまう。完全に新規の知識を教え込んでも、患者がつまらない知識だと思えば、それもすぐに忘れてしまう。再び彼女がこの野菜の名前を覚えられる時が来るとすれば、『廃忘病』が完全に進行し、記憶がリセットされた後だ。
「それなりに有名です。世間の人がだいたい知っているくらいには」
「じゃあ、私が忘れただけなんだね。苦いものは嫌いだから、早めに忘れたくなったのかも。じゃあ、これはあまり使わないでおくね。ありがとう」
そう言って、彼女は何でもないように笑った。
もはや記憶を失っていくことを当然のように思っている。記憶を失うことを恐れて、発狂しながら残りの期間を送るよりは良いかもしれないけれど。
彼女の本心は分からない。忘れていくことに対する恐怖がこびりついているのか、諦観が横たわっているのか。もしも私を心配させまいと気丈に振舞っているのならば、それはやめてほしい……とは思うものの、それを直接彼女に伝える訳にはいかない。そんな事をすれば、彼女の心をますます傷つけてしまうから。
私は再び仕事に戻り、無心で作業を進めた。
目を逸らしたかったのかもしれない。干渉医の仕事は、患者と向き合うことなのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます