第6話 Day7-2
二
「ただいま」
彼女は約束通り、正午に帰って来た。
コートについた雪を払って、寒そうに身を縮めながらリビングのソファに座る。私はココアを注ぎ、彼女に手渡した。
「レーシャ、お帰りなさい。迷ったりしませんでしたか?」
「うん、楽しかったよ。東側には人が住んでないんだね」
散歩では東側の区画に行ったらしい。
事前の情報によると、この坂の上にある家が七番街では最東の家……ということになるらしい。ここよりも東側の地区は人が住んでいない。
かつてこの【安寧地区】には多くの人が住んでいて、独自の文明を築いていた。まあ、この大地区も私達の世界……中央地区に制圧されて、無理やり文化を改編されてしまったのだけど。あまり良い歴史とは言えないが、時代の流れということで許容するほかない。
「東側には何かありましたか?」
彼女の表情はいつもと何かが違った。別に普段の彼女の表情が不自然という訳ではないが、今は何かが違っているのだ。
具体的には説明できない。無常を含んだいつもの表情がほんの少し安らぎ、落ち着いて見えた。
東側区画で何かを見つけたのだろうか?
「何もなかったよ。もう行くことはないかな」
まあ、無人の区画に何かある筈もない。
私はそう思い直し、作っていた昼食をテーブルに並べる。ふと私が向かい側に座る彼女を見ると、私が先程まで感じていた『違い』は消え失せていた。私の勘違いだったのだろうか?
「……どうしたの?」
「いえ、何でもありません」
彼女の顔をじっと見つめていると、疑問を孕んだ声で尋ねられる。やはり先程の違和感は消え失せ、可愛い顔だという感想しか出てこなかった。
すぐに私の中の違和感は霧散し、慣れつつあるレーシャとの食卓を囲んだ。
午後。
私は天才的な速度で作業を消化し終え、一階に降りる。まだ夕刻になる少し前だ。相変わらず政府……というか、政府の管理者は医務に無関係な仕事を押し付けてくる。八人の管理者の中に一人、私と親しい者が居て……あの人がとにかくうるさい。隙あらば仕事を押し付けてくる。畜生行政。
コーヒーでも飲んで息抜きしようとキッチンへ向かおうとした私は、リビングのソファで手芸をしているレーシャを見た。
彼女は集中して白いシルクを編んでいた。話しかけようか迷ったが、私の存在に気が付いた彼女の方から声を掛けてくる。
「デート、お仕事は終わったの?」
「はい、今日はもう終わりです。来週の分まで終わらせました」
「す、すごいね……」
「何を編んでいるのですか?」
「えっとね……秘密」
秘密、か。私は手芸に関して無知なので、彼女の手元にある布を見ても何を作っているのか分からない。まあ、何を作っていようが構わない。
私はキッチンでコーヒーを淹れ、一口飲む。
「……コーヒーって苦いよね」
「そうですね。ただ、その苦さが良いのですよ」
「分からないなあ……」
レーシャは無類の甘いもの好きだ。子供舌、というやつなのだろうか。私は幼少の砌から苦いものが食べられたけれど。結局、味覚なんて育った環境に依存する。幼少期から苦い栄養剤を飲んできたので、味覚が死んでいるだけだ。
頭を良くする為に、体調を保つ為に、思考力を強化する為に、色々と無機質な食べ物を口に放り込まれたものだ。まあ、二人目の父親に引き取られてからは甘ったるいスイーツや不健康なインスタント食品なんかも食べる機会が与えられたけど、その頃には手遅れで。味覚は大分衰えてしまっていた。レーシャはおそらく……豊かな環境で育ってきて、味覚が衰えていない。
ただし、生まれ育った故郷は彼女にとって忘れたい記憶であるようで、既に記憶から消去されているようだが。
「私もいつか飲めるようになるのかな」
布を編みながら彼女は呟いた。
『いつか』。彼女が呟いた『いつか』は、きっと彼女の『いつか』ではない。これから新しく誕生する、まっさらなレーシャを指し示しているのだろう。『廃忘病』が最終ステージに到達した後は、成長過程が全て焼却されて、新しい人生を歩み出す。
『廃忘病』患者には、記憶を失う前と後ではまったく違った性質を帯びるという前例もある。もしかしたら彼女も別人のようになって、味覚も変わるかもしれない。
「どうでしょうね。それは神のみぞ知るのでしょう」
「そっかー。でも、苦いものも食べられるようになったら、デートみたいなカッコよさが身に付くかな?」
カッコよさ。正直言って、私は自分がかっこいいと思ったことは無いし、レーシャみたいに可愛い女の子の方が憧れる。それならもう少し可愛く見られる努力をしろという話だけど。生憎とそんな暇は無い。
「かっこいいレーシャですか……あまり想像できませんね」
「……どういう意味?」
彼女は失礼だとでも言わんばかりに頬を膨らませた。その怒っている仕草すらも可愛いとは……可愛さの欠片も無い私とどこで差がついたのか。
「いえ……あなたはかっこいいよりも、かわいいタイプだと思いまして」
「そ、そうかな……? そんなことないと思う」
彼女は赤面して手元の布に目を落とした。そして黙々と編み物を再開する。
だから、そういう反応が可愛いのだ……私にはないモノです。
彼女は淡々と趣味に没頭している。私は空いた時間で何をしようか考えたが、暇な時間ですることと言えば専ら研究である。ただし、この家に研究道具はない。この地区ではネットワークも空間拡張も仕事以外で使うことは禁止されている。特に趣味もないので、本当に何をしようかと迷ったものだが……
「では、私は部屋に戻っています」
「うん」
寝よう。思えばこの七日間、深夜には仕事ばかりで碌に睡眠を取っていなかった。まあ、一般地区での平均睡眠時間が二時間程度で、私もそれに慣れているので、まったく眠気はないのだが。
睡眠は時間を潰すのに最適な行為だ。多少の疲労は取れるだろうし、良い夢を見れるかもしれない。同時に、貴重な人生の時間を浪費したという後悔も生まれてしまうけど。ただでさえ普通の人間は寿命が二十年しかないのだから、昼寝などしている余裕は無いだろう。私は干渉医だから寿命は長い。このディストピアで長く生きることが幸福なのかは分からない。
外の地区では、良い夢を見る為の道具が売っている。持ってくればよかったな。
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