第5話 Day7-1

day7                      


 一


 レーシャとの生活に慣れてきた頃。

 曇天の朝に、彼女は私に言った。


「デート、ちょっと散歩してきても良い?」


「散歩、ですか? それは構いませんが……」


 正直、不安だった。

 道に迷ってしまうのではないか。事故に遭ってしまうのではないか。突然『廃忘病』の症状が現れるのではないか。そんな不安が波のように襲い掛かって来た。


「私のこと、心配してるでしょ? 大丈夫だよ、お昼までには帰るから」


「……分かりました。では、お気を付けて」


「うん、行ってきます」


 私は彼女の言葉に不安を少し払拭され、彼女を送り出すのだった。



 少し慣れてきた新居を出て、坂を下る。

 ……この寒さにはまだ慣れない。私が住んでいた居住区は年中晴れていたそうなので、寒いのにも慣れていないのだろう。足元の雪がサクサクと音を立てながら、私の足跡を模っていく。

 空は今にも雪が降り出しそうな灰色。こんな日には、不思議と外に出たくなるのだった。普通の人は晴れの日に外出したがるが、私の性質は反対だった。晴れの日は鬱屈とした気分になり、あまり外へ出たくなくなるのだ。どうしてなのかは分からない。もしかしたら分からないのではなくて、その理由を忘れているのかもしれない。嫌な事を忘れていく……『廃忘病』の症状は、見方によっては羨ましいものかもしれない。最終的には全てを忘れてしまうけど、世の中には幸福を捨ててでも、不幸な体験を捨てたいと願う人は大勢居る。

 だから、こうして忘れていくことを。自身が欠落していくことを。私は嘆いた事がなかった。もしかしたら私も、『廃忘病』の症状を羨ましく思う者の一人だったのかもしれない。


 坂を下り切ったら、東へ曲がる。西は駅があって、店が立ち並んでいる地域だ。

 東側の地域は未知。私は七番街のことを全く知らないので、少しは知ってみようと思い立ったのが昨夜の事。デートは私が一人で出歩くことを心配していたみたいだが、私だってちゃんとした大人だ。道に迷ったりはしない……と思う。


 西側の通りには店の類がまったく無くて、民家が立ち並んでいた。この家々には人が住んでいるのだろうか。ひどくひっそり閑として、人影一つ見当たらない。それに、空が暗いのに家から明かりが漏れていない。何かしらの理由があって、ここに住んでいた人は皆いなくなってしまったのだろう。取り残された数々の民家に感情があったとしたら、彼らは寂寞の中で虚しさを抱えているのだろうか。家主の帰りを待ちわびているのだろうか。

 なんだか不気味ではあるが、かえってその静寂が心地良かった。冷たい風が吹き抜ける音と、アスファルトの上を歩く私の足音だけが響く。このままどこまでも一人で歩いて行って、遥か彼方へ消えてしまいそうな気分になる。


「……」


 しばらく歩いて行くと、大きな敷地が見えてきた。

 入り口らしき場所には『閉鎖中』と書かれたプレートが立てかけられており、鎖が行く先を阻んでいた。遠くには古めかしい建築様式の大きな建物がある。教会だ。あれは……【氷丸地区】か、【聖印地区】の建築様式だったかな。

 ここがドールさんの言っていた花畑らしい。花摘みが終わって、閑散とした地が広がっている。春になれば美しい花々が咲き乱れ、人々の心を和ませることだろう。


 ──衝動。


 その花畑跡……無数の命の種が眠っている地に、寒空の下聳え立つ教会に、私は得も言われぬ衝動を覚えた。

 無意識の内、私は錆が侵食した銀色の鎖を乗り越え、その大地を踏み締めている。それを自覚してなお、私の足が止まることはない。花の種が眠っている土を踏み、衝動のままに歩く。一歩を踏み締める毎に、花という生命の種が私に踏まれて悲鳴を上げているような幻覚に襲われる。


 それでも私は止まらない。気が付けば、教会の前に立っていた。天を衝くような威容。かつては権威の象徴として扱われた歴史を持つ建物らしい。神が座するとされる建物はまるで生き物のように佇んでいて、どこか不気味で、どこか惹き寄せられる神性を放っていた。もちろん、そんな気配はまやかしに過ぎず、眼前の建築物は無機物の塊である。


「…………」


 扉に鍵は掛かっていなかった。両開きの扉が軋んだ音を立てて開く。まるで教会が大口を開けて私を迎え入れようと……いや、呑み込もうとしているようだった。

 中は薄暗くて、微かに窓から差し込む光だけが私の視覚を補助する。数歩、奥へと進む。赤い絨毯のふかふかとした感触が、靴を通して伝わってきた。


 ガタリ、と後ろから音がした。

 慌てて振り向くと、風で扉が閉まっただけのようだった。不思議と心臓は跳ねることはなく、私は至って冷静だ。


 ここは何の宗教の教会だったのだろう。別に私は宗教を信じている訳ではないが、カミサマは信じても良いと思う。ただ祈るだけで、人を救ってくれるカミサマ。人間の欲望という名の傲慢が創り出したカミサマ。私はそんな存在に縋ることで、心の暗雲を全て払いたいと思ったこともある。もしも現代に宗教が広く存在していたら、私は佯狂者になっていたかもしれない。

 そんな事を考えながらも、私は教会の長椅子に腰を下ろしていた。ちょっと冷たくて、その内に私の体温で温まった。


 視線を上げると、綺麗なステンドグラスが視界に入る。赤、青、緑、黄色。様々な色が使われている割に、ハレーションを起こしていない芸術。

 色とりどりのガラスの破片が模様を作って……雪の結晶みたいだ。何かを描いているのだろうが、あまり教養の無い私には何が描かれているのか分からない。人が何人か描かれていて、彼らは奇妙な物体を抱えている。


 何か、心が洗われるような感覚。カミサマが今、私の傍に居るのではないかと錯覚するほど、その瞬間は心が安らいだ。

……あたたかい。どこかで失ってしまった懐かしい感覚がこの身を抱擁する。これは、何時味わった感覚なのか。母親の抱擁か、春の陽気が与える安らぎか、友愛の温もりに触れた安堵か。或いは、その全てかもしれない。

万能の安寧を湛える無限の愛が、この身を包み込んだのだと錯覚した。


 ──ふと、何かが私の手に落ちた。

 水だ。あたたかい水が手に落ちていた。それは私の瞳から流れ出ていて、とめどなく溢れていた。

 ステンドグラスがぼやけて見える。それでも美しい。寧ろ、こうして幻惑の眼鏡を掛けた方が美しいかもしれない。


 私には、このあたたかい水が出てくる理由が分からない。もしかしたら……いや、間違いなく、理由は分からないのではなく、忘れているのだ。それで良い、どうせ最期には全て忘れてしまうのだから。

 もはや家族の名前も、故郷の景色も、幼少期の記憶も抜け落ちている。いずれは微かに残っている学校での記憶も、料理の知識も、手芸の楽しさも、ここでの生活も──全て忘れていく。


 全てが死んで、廃れて、忘れられていく。人を形作る記憶がボロボロと剥落していく。喪失がどうしようもなく、私の未来に横たわっている。

 そして、新しい『レーシャ』が誕生するのだ。


 だから、私は……


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