第24話 火取蛾のようなわたし

 校長室の扉をノックする。そして「失礼します」と言ってから扉を開けて中に入る。

 校長室中央部に応接用の木製テーブルがあり、校長先生の机側を除いて、座り心地の良さそうなソファーで囲まれている。

 窓側にある校長先生の机は高級そうな木製で、その後ろにある椅子に校長先生が座っていた。

「いらっしゃい」

 校長先生は立ち上がって、少しばかり歩くと、応接用のソファーに腰掛けた。

 校長先生は、わたしが知っている校長先生ではなかった。

 わたしが知っている校長先生は、目の細いやさしそうな顔に眼鏡を掛けていて、髪の毛は白く、体は大柄という、まるでケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースみたいな姿をした人だった。

 けれども、今、目の前にいる校長先生は、冷めたような小さい目をしていて、お世辞にもやさしそうな顔には見えない。頭髪は薄く、体も小柄で痩せていて、わたしが知っている校長先生とは、似ても似つかない。

 わたしが知っている校長先生は異動したか、辞めたかのどちらかだろう。おかしな話ではない。

「さ、お座りなさい」

 校長先生がソファーに座るよう促したので、わたしたちは校長先生と向かい合うようにして座った。

「OGの日和塚葵と申します。よろしくお願いします。こちらは、わたしの友達で、麦穂星蓮と申します」

「麦穂星蓮と申します。よろしくお願いします」

 わたしたちは校長先生におじぎした。校長先生は簡単な自己紹介を済ませると「忙しいので手短にお願いします」とわたしたちに言った。

「それでは、お聞きします。この小学校に鵺通銭苔先生が勤務されていたと思うんですけど、その方について、どう思われますか?」

「ああ、あの先生の事ですね。残念の一言ですよ。面倒見がいいと評判の、出来る先生でした。ですから、不祥事を起こして辞めてしまった事は、本当に残念です。なかなか優秀な先生でしたので、厳しいかもしれませんが、職場復帰させてあげたいと考えております」

 職場復帰――わたしは、その言葉を信じることができない。仮にもこの小学校の教育の頂点に立つ人物なのだから、性犯罪者を職場復帰させるという冗談は、言わないで欲しい。

「その不祥事というのは、女子高生への痴漢行為で警察に逮捕されたことですよね。教員の人材不足はわかりますけど、鵺通先生の罪状は、強制わいせつ罪ですよ? さすがに、まずいのでは? それ以外に、鵺通先生に胸やお尻等を触られたことが原因で、不登校になってしまった生徒もいるみたいですし」

「正直な事を申し上げますと、胸や尻等を触られたくらいで騒ぎすぎだと思います。それで警察に逮捕されて、一生を棒に振るなんて割に合いません。鵺通先生も運が悪いですよ。最近の女子高生は発育が良い上に、あんな短いスカートまで穿いて。そんな娘が目の前にいたから、鵺通先生も欲情してしまったんじゃないですか? もちろん、痴漢行為は犯罪ですから、我慢しなければなりませんけどね。けれども、被害者の女子高生の方も少しは悪いんじゃないですか? きっと、先程話したような、男を誘うような恰好をしていたと思いますよ。校則を破って、そのような目に遭ったのなら、自業自得です」

「!?」

 なんという発言だろう。自業自得ということは、わたしも悪い? 確かにスカートは短くしていたけど、やられたのは胸の方だし、それは、あまり関係ないのでは? 何か反論したいけど、言葉を選ぼうとすると頭が真っ白になっていって、言葉が出てこない。

「校長先生! その言い方は、あんまりですよ。女子高生たちも好きでスカートを短くしているとは限りません。女子高生なりに事情があるはずです。理由は色々とあるかもしれませんが、少なくとも襲われるためにそういう恰好しているのではありません」

 蓮が、わたしの代わりに言ってくれた。その口調は冷静になろうと努めてはいるものの、熱気を帯びたものだった。「やられたのは胸の方だから、スカートは関係ない」と反論しようものなら「シャツのボタンを外して、胸の谷間でも見せつけていたんじゃないですか」とか「ぴっちりしたシャツを着て、体のラインを強調していたんじゃないですか」等と言いかねない。話が長引くだけなので、この反論のしかたでよかったのかもしれない。

「なるほど。それでも校則を破ってまで、そのような恰好をする事は、理解し難いですがね」

「……それから、校長先生は鵺通先生からわいせつ行為をされた女の子の気持ちを、理解しようと思っていますか? ぼくは昔、いじめられていたことがあって、同級生からズボンを脱がされたり、股間を揉まれたりしたことがあります。はっきり言って、泣きたいくらい辛かったです。実際に泣いたこともあります。女の子たちがされたことは、これと似たような……いや、これよりももっと恐ろしいことだったかもしれません。自分よりも力の強いものに、逆らうこともかなわずに色々といじられるのですから。女の子たちが感じた恐怖は、相当なものです」

「今の話からすると、君はいじめを耐え抜いたようですね。立派です。私も昔、同級生のやんちゃに巻き込まれて、いじられた事がありますけど、あれより幾分きつい仕打ちを彼女らが受けたとしても、鵺通先生の一生を棒に振るのは、割に合わないと思います」

 校長先生は、あくまでも”あの男”を擁護する立場のようだ。一生を棒に振るのは割に合わないと言っているけど、少なくとも、わたしの望みはそれではない。

 二度とわたしの、いや、わたしを含めた被害者の前に姿を現さないこと。そして、二度と罪を犯さないこと――これが、わたしの望みである。

「ところで、日和塚さん」

「はい」

「話は、それだけですか」

 校長先生の考えは、よくわかった。もはや、ここに用はない。

「はい、それだけで充分です。今日は、ありがとうございました」

 もちろん、感謝の言葉は建前だ。それよりも、ここから早く出たい。校長先生の発言には耐え難いものがある。我慢の限界は近い。

 わたしは廊下側の出入り口に向かって歩き出す。

「葵、そっちは……」

 わたしは廊下側の出入り口を指差す。

「あそこの出入り口でいいの。あなたも一緒に来て、蓮」

「……わかった」

 再び歩き出す。蓮と共に。

「失礼しました」

 一礼してから扉を開け、わたしたちは廊下に出た。


 わたしは廊下にて蓮と正面から向き合う。

「蓮、ちょっといい?」

「何だい?」

「悪いけど、しばらく……」

 わたしは、ついに溜め込んだ感情を吐き出すことにした。ごめんね、蓮……

 わたしは右手で彼の左肩を掴み、左手で彼の右の二の腕を掴む。そして、自身の体を引き寄せて、彼の右肩に顔をくっつける。

「え!?」

「うっ……ううっ……うっ……う……」

「葵……」

「もうダメ……我慢できない……わたしは”あの男”から……いやらしいことをされた……服の上どころか……ブラジャーの中にまで……手を入れられて……いじられた……滅茶苦茶怖くて……気持ち悪かった……”あの男”は逮捕されたけど……証拠として……ワイシャツと……ブラジャーを……提出しなければならなかった……体中から火が出るほど……恥ずかしかった……小学校の前では……悪夢のような幻を見るし……夜の函館でも……見た……悪夢そのものも……何度も見た……学校では男子から……好奇の目で見られ……エッチな話のネタにされた……”あの男”の弁護士は……”あの男”を擁護して示談を求め……裁判では……わたしがされた……わいせつ行為が……暴露された……小学校の校長先生は……”あの男”を擁護した上……復帰を望み……わいせつ行為を……軽く見た上……襲われたことを……わたしのせいにする……」

 わたしの感情の爆発は止まらない。

「”あの男”の被害者は……わたしだけじゃない……ここの生徒たちの中にもいる……その子は……不登校になった……その子も……辛い思いを……しているのに……校長先生の……あれは無いよ……」

 こんな校長先生のいる小学校に通う生徒たちが可哀想だ。被害者の女子生徒が不登校になるのも当然だ。この性被害に対する意識が希薄な校長では、被害者の子を救うことはできないだろう。

「わたしは……馬鹿なのかしら……辛い思いをしながら……ここに来て……さらに辛い思いをする……」

 飛んで火に入る夏の虫ということわざがある。これは、闇の中の光を好む虫――火取蛾ひとりが――が、闇夜に輝く炎に飛び込んで、焼け死ぬことに由来するそうだ。まさに今のわたし。火取蛾と何ら変わらない存在なのだ。

「馬鹿じゃないよ」

「え?」

 わたしは彼の顔を見上げる。彼の目は、やさしそうな、そしてあわれむようなまなざしになっていた。その観音様みたいなまなざしを見たわたしは、何て素敵な目をするのだろうと思ってしまった。

「きみは馬鹿じゃない。辛い思いをするのは、覚悟の上だろ? ここに来て、先生たちの話を聞く、どのように考えているかを知る、そうしないとより後悔すると考えたから、きみはここに来たのだろう。だからきみは馬鹿じゃない」

「蓮……」

「葵……きみは頑張った。本当に、よく頑張った。辛い思いをしながら、よくここまで耐え抜いたね……」

 彼はブレザーのポケットからハンカチを取り出して、わたしの頬をやさしい手つきで拭く。

「ありがとう……それと、あなたのブレザー、右肩の所がぐしょぐしょ……」

 彼のブレザーを見ると、右肩の所が濡れている。わたしが涙で濡らしたからだ。

「気にしなくていいよ。すぐに乾くし。それよりも、後ろ」

 わたしが後ろを振り向くと、そこには那智浦先生がいた。口が少しばかり開いており、呆けたような表情をしている。


「那智浦先生……」

「日和塚さん、貴方、もしかして……」

 ここから先のセリフはわかる。

「ええ、の被害者です」

「やっぱり……」

 わたしは那智浦先生に”あの男”からされたことの詳細と、それが原因でわたしが味わった苦しみの数々――時折見る悪夢と幻、男子のエッチな話、司法がらみの話、今の校長先生の話等――を話した。

「ごめんなさい、気が付かなくて……」

「謝らなくても構いませんよ、先生。先生の本音を知るために、あえて隠していたくらいですから」

「私の本音?」

「そうです。鵺通に襲われたこともショックですが、その容疑者が母校の教師だったこと、そして事件が起こる前まで、容疑者による生徒に対するわいせつ行為を、学校側が否定していたこともショックでした。まるで、他の先生たちも犯罪に加担しているようで……それでわたしは、先生が容疑者のことをどのように思っているか、気になりました。今日、ここに来た主な理由がそれです。また、弁護士が、職場での容疑者の評判を強調していた、というのもあります」

「職場での評判?」

「はい、那智浦先生と校長先生の話からすると、確かに弁護士の言う通りでした。けれども、罪を犯したことに変わりはありません。教職に復帰しないで欲しいです。そして、わたしたち被害者の前に、姿を現さないで欲しいです。ところで、容疑者からわいせつ行為をされた生徒は、あれから登校してきましたか?」

「まだ一度も登校してきていないわ。鵺通も既に逮捕されていて、ここにはいないのだから、登校してきてもいいと思うんだけど……」

 そんなことだろうと思った。あの校長先生のことだから、被害に遭った子に、あまりケアをしていないに違いない。

「先生、なぜわたしが友達を連れてきたのか、わかりますか?」

「仲良しだから、というのじゃないよね……」

「未だに小学校の前が怖いからですよ。小学校の前を通ろうとすると、目の前が、わたしが襲われた時の光景になるんです。容疑者が捕まって、姿を現すことがないとわかっていても、怖くて通れません。そこで、友達と一緒に来ることにしました。今日も、あの怖い光景を見ましたけど、友達のおかげで何とかここまで来ることができました」

「そうだったの……もしかして、あの子が未だに登校していない理由というのは……」

 那智浦先生は何かに気付いたようだ。

「わたしが小学校の前に恐怖を覚えるのと同じ理由じゃないですか? 学校のどこかに、その子にとって恐怖の対象となるものが、あるのでしょう。それと、先生……」

「何でしょうか? 日和塚さん」

「お願いがあります。これは那智浦先生というよりも、その子の担任に対するお願いなんですが、きちんとその子に寄り添っていただきたいです。容疑者から変なことをされて、どういう思いをしたか、なぜ学校に来れないのか、きちんと理解していただきたいです。このことを担任の先生に、伝えていただけないでしょうか」

「わかったわ、日和塚さん。担任の先生に伝えておくわ」

「お願いします」

 ようやく那智浦先生の表情が、いつものやさしいものになった。那智浦先生はやはり、わたしの記憶通りの先生だ。



 わたしたちは緑野国小学校を後にした。今は住宅街を歩いて自宅に向かっている。

「葵」

「何? 蓮」

「きみ、パソコンは持っているの?」

「わたしは持っていない。けれども、お父さんがパソコンを持っていて、それを家族で共有しているわ」

 お父さんのパソコンは、15インチのノートパソコン。外に持ち出すことはなく、専ら家の中で使っている。わたしも、たまに使わせてもらうことがある。

「それじゃ、今日、このままきみの家に行っていいかな。渡したいデータがある」

 蓮がわたしの家に来るのは、今に始まったことではない。これまで、勉強を一緒にやるために、何度か来てもらったことがある。

「……いいわよ。どんなデータかしら」

「それは後で説明するよ」

 一体、どんなデータなんだろうと考えながら、わたしは彼と共に自宅へ向かう。



 自宅に着いたわたしは、蓮を家の中に入れ、彼を和室に通した。

「お母さん、お父さんのノートパソコン、使ってもいい?」

「いいけど、何に使うの?」

「蓮が、渡したいデータがあるって」

「蓮くんが? 私も行くわ」

 わたしはノートパソコンを持って、お母さんと共に和室へ向かった。


 和室にあるテーブル近くの座布団に、蓮が正座して待っている。

「お待たせ」

 わたしはノートパソコンをテーブルの上に載せて、AC/DCアダプターでノートパソコンとコンセントを接続した。そして、ノートパソコンを立ち上げた。

 背後では、お母さんがわたしたちの様子を見守っている。

「蓮、渡したいデータというのは?」

 彼はブレザーのポケットから、長方形の電子機器と思われるものを取り出した。

「蓮、それって……」

「ICレコーダー」

 何を録音していたのかしら。もしかして……

 ICレコーダーにはUSBコネクターが付いているらしく、彼はそれをノートパソコンのUSBポートに接続した。すると、ノートパソコンの画面にウィンドウが表示された。

 ウィンドウの中に、ファイルのアイコンと名前が表示されている。彼は、そのファイルをノートパソコンのデスクトップにコピーした。

 ファイルは音声データだった。彼がファイルを再生すると、声が聞こえてきた。その声は、わたしたちや那智浦先生のものだった。

「小学校でのやり取りを録音していたのね」

「ああ」

「なぜ、ICレコーダーで録音していたの?」

「個人的に、あの小学校の印象は、あまり良くない。以前、あの小学校は鵺通容疑者のわいせつ行為を否定していたし、どこかで先生が問題発言でもするんじゃないかと思っていた。それが録音した理由」

 しばらく再生していると、小学校の校長先生の声が聞こえてきた。相変わらずの内容だ。こんな人物が校長かと思うと、悲しくなってくる。吐き気すら覚える。

「酷い校長先生ね……」

 お母さんも同感のようだ。

「葵、パソコンにコピーしたデータの扱いは、きみに任せるよ。ぼくも、この音声データを持っているけど、こちらの方は何もしないから」

「うん」



 休日に家族会議を和室で開いた。家族全員が集まっていて、みんな、テーブル上のノートパソコンに顔を向けている。議題は『緑野国小学校訪問時の音声データの扱いについて』である。

 音声を全て聞き終えた後、お父さんが口を開いた。お父さんの表情は、むっつりとしている。

「ところで葵、麦穂星蓮君とは何者かね? お前は友達と言っていたようだが」

 言うと思った。

「その音声の通り、わたしの友達よ」

「この音声を聞いた印象だと、ただの友達とは思えないのだが……」

 データには先日、小学校を訪れている間の全ての音声が入っていた。だから、わたしが泣きじゃくっていた時の音声も入っていたのだ。

「だから、友達だってば」

「今度、俺がいる時に麦穂星蓮君を連れてきてくれ。どういう男か見てみたい」

「機会があったらね」

 わたしは、お父さんを適当にあしらう。お母さんは、わたしとお父さんのやり取りを見ていて、ニコニコしていた。

 ちなみに、この音声データをどう扱ったかは、わたしの家族の秘密である。


 後に、緑野国小学校の校長は、マスコミやネットユーザーたちから非難されることになる。校長の発言が新聞や週刊誌、インターネットのニュース記事になったのだ。


 世の中、悪いことばかりではない。

 ある日、学校から帰宅すると、郵便ポストに、わたし宛ての手紙が入っていた。差出人は那智浦先生だ。

 手紙には、不登校になっていた子が登校してきた、という内容の文章が書いてあった。手紙によると、その子はある場所がトラウマになっているらしいので、担任の先生はそれに気を付けて授業を行っている、とのこと。その担任が、どういう先生かは知らないけれど、とりあえず那智浦先生が言うことなら信じよう。

 わたしは家の中に入ると、自分の部屋で着替えるために二階へ上がっていった。

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