夜道を一人で歩けるようになっても

矮凹七五

第1話 小学校前の吸血鬼

 部活が長引いたせいで、とっくに日が暮れて、空はほとんど真っ暗になってしまった。昇降口が施錠されるギリギリのところで学校を出る。空は晴れている。宝石のようにきらめく星と白銀色に輝く月が綺麗きれい。九月中旬になってから、夜はだいぶ涼しくなった。昼はまだ暑いけど。先月の灼熱地獄しゃくねつじごくっぷりとはえらい違い。

 帰路に就くわたしは、やがて小学校の前に差し掛かる。わたしの母校、緑野国みどりのくに小学校だ。象牙色の校門は、今も変わっていない。

 あの頃の友達や先生は、元気にしているのだろうか。わたしは校門の前で小学校時代に思いをせた。

 ここで、嫌なことをふと思い出した。今日の昼休みにスマホで見たあの嫌なニュース。

 市内のどこかの小学校のことなんだけど、生徒にわいせつ行為をはたらく教師がいて、不登校になっている子がいるとのこと。親は必死になって訴えているんだけど、学校側は否定しているとのこと。もし、本当のことだったら許せない!

 ふと空を見上げると――

 あっ! 流れ星!

 

 ――例のわいせつ教師が二度と教壇に立てなくなりますように――


 あのニュースのことが頭から離れず、つい願い事をしてしまった。

 再び歩き始めようとしたその時、前の方から人が歩いてきた。三十代くらいの男の人で、浅黒く日焼けしている。太ってはいないけど、そこそこ筋肉質。四角い顔に七三分けの髪、口の周りに髭。服装はポロシャツにスラックスだ。じろじろとわたしの方を見ているけど、なにかしら?

 その男の人とすれ違った次の瞬間――


 お化け屋敷で沢山の手が障子を突き破って生えてくるように、わたしの両脇の下から手が生えてきた。その手は伸ばしきった直後に肘を曲げて、わたしの両胸を鷲掴わしづかみにした。

「!?」

 何が起きたのか、わからなかった。下の方に視線を移すと、そこには今しがたすれ違った男の人のものと同じ浅黒い腕があった。指が動き、わたしの胸をみ始める。すると、これから噴火せんとする火山のマグマのように、わたしの体の底から恐怖と嫌悪感が迫り上がり、口から噴出した。

「きゃあああああーっ!!!」

 痴漢だ! なんてことするのよ! 離せ! 離せ! 離せーっ!

 わたしは必死になって、男の腕を引き離そうとした。けれども、びくともしない! 男の腕に爪を立てても焼け石に水! なんという力の強さ!

 通報だ! わたしはかばんに手を伸ばして、ファスナーを開き、スマホを取り出した。しかし――

 そこにグーパンチが飛んできて、スマホを弾き飛ばした。

「あっ……」

 最悪の事態かも……

 この時、男の片腕はわたしの腹を押さえつけて、わたしの体を固定しており、もう片方の腕は宙ぶらりんだった。だから、男の攻撃の手は一時的に休まっていた。

 ――しかし、本当の悪夢はこれからだった。


 宙ぶらりんになっていた片方の手が、わたしのワイシャツのボタンを外していく。第三ボタンまで外したところで、男の手がワイシャツの中に入り込んできた。男のてのひらの感触が、わたしの肌に生理的嫌悪を伴いながら伝わってくる。

「やっ……やめて……!」

 男の手がどんどんスライドしていき、ブラジャーの中にまで入り込む。やがて、わたしの小高い山は、得体の知れないクリーチャーに包み込まれた。

「さすがJK。JSとは豊かさが違う。触り心地も素晴らしい。マシュマロのような感触。クリームのような滑らかさ」

 クリーチャーのうごめきと共に男が低い声でつぶやく。わたしがその声を聞くと、全身が悪寒に包まれた。

 JS……? JSと言ったよね。もしかして、女子小学生まで毒牙にかけたというの……? とんでもない話だ。高校生のわたしでさえ、これだけの恐怖を感じているのだから、その子が受けた恐怖は計り知れない。

 ここは小学校の門の前。もしかして……

 ――この男が例のわいせつ教師!? もしかして、ここの教師!?

 わたしは愕然がくぜんとした。目の前が少しずつ暗くなってきた。


 クリーチャーは怪しげな電気を帯びており、蠢きと共に刺激をわたしの中に走らせてきて、気色悪い感覚を与えてくる。

 泣きそう……いや、違う。頬に液体が伝ってくるのを感じる。わたしは既に泣いているのだ。

 再び視線を下に落とすと、男の腕が少しずつ動いているのが見えた。腕の動きに合わせてクリーチャーも蠢いている。心なしか外に向かって動いている?

「……っ!!」

 山の頂上に雷が落ちた! 強烈かつ形容し難い刺激が、わたしの中に走ってくる。あまりにも奇妙で、いやらしい感覚に頭が狂いそうになる。わたしは身悶みもだえしてしまった。悪寒がさらに強まる。

 わたしは金魚みたいに口をパクパクとさせていた。叫びたいし、言いたいこともあるけど、声が出ない。

 それどころか、体全体が金縛りにかかったように動かない。

 今、わたしを襲っているのは、吸血鬼ではなく痴漢。それなのに体中の血液がなくなっていくような気がする。ワイシャツの袖から伸びる腕とスカートからのぞく脚に視線を移してみる。肌が何だか青白い。それに目の前がさっきよりも暗くなっている。



 あれからどれくらい時間が経ったんだろう。目の前は真っ暗だし、体も動かない。

 カチリ、という金属音が聞こえた。誰か違う男性の声が聞こえる。

 胸にへばりついていたものが剥がされた。わたしの体を固定していたものも外された。

 けれども、血を失ってしまったわたしは、バランスも失ってしまい、その場に崩れ落ちた。

 わたしの耳元で、また別の声が聞こえる……



 わたしは警察署内の一室にある机の前に座っている。机はグレーで無機質な印象を受ける。

 わたしの向かいには刑事さん、そばには婦警さんがいる。刑事さんは中年くらいの真面目そうな男の人。落ち着き払っている。地味だけれども目つきが鋭く、まるでたかのようだ。婦警さんは若い人だ。刑事さんと比べると穏やかそう。けど、イメージ的にははとというよりもカワセミかな。綺麗な人だし。

 わたしは警察に保護された。近所の住民が通報してくれたらしい。それで警察が駆けつけてくれたとのこと。”あの男”は準強制わいせつ罪で現行犯逮捕された。準……?

 準強制わいせつ罪とは、失神するなどしていて何の抵抗もできなくなっている人に対し、わいせつ行為をした人に与えられる罪状。当時、わたしは意識をほとんど失っていたから、薬物でも飲まされたのかと勘違いされていたらしい。

「わたし、薬物とかそういうの、飲まされたりしていません! 歩いているところを、いきなり襲われたんです! 腕を離そうとしたり、スマホで通報したりしようとしました! けれども、腕は離れないし、スマホは弾き飛ばされるしでダメでした。それで、そのうち気分が悪くなって……」

 わたしは泣き叫ぶようにして言った。実際、涙が流れていたかもしれない。

 わたしは無理矢理いやらしいことをされた。断じて強制ではない。無駄に終わったけど、わたしは抵抗した。だと、わたしが何もしなかったみたいではないか。”あの男”からされたことを、わたしが受け入れていた、と思われているようで、嫌で嫌で、悔しくて仕方がなかった。

「まあまあ、お嬢さん、落ち着いて」

 刑事さんが、わたしをなだめる。その口調は落ち着いていて、いかにもこういうことには慣れっこの様子だった。

 襲われた時のショックで、脳貧血を起こしていたことがわかると、罪状を強制わいせつ罪に切り替える運びになった。


 ”あの男”からされたことは絶対に許さない! ”あの男”は世に出て欲しくない! ”あの男”に最大限の罰が与えられるよう全てのことを伝えなければならない。

 わたしは”あの男”からされたことを、ベソをかきながら、途中で声を詰まらせたりしながらも、洗いざらい話した。

 忘れてはならないのは”あの男”がつぶやいたこと――

「さすがJK。JSとは……」

 ――これも警察に伝えた。

 全てのことを伝え終えた時には、息も絶え絶えになっていた。

「ご協力、感謝いたします」

 刑事さんが、わたしに感謝の言葉を述べる。

「よくがんばりました。さぞかし、お辛かったでしょう。もうすぐお母様がお迎えに来ますよ」

 婦警さんは、わたしの背中をさすりながら慰めてくれる。


あおいー!!」

 お母さんが入ってきた。手に紙袋を持っている。

「お母さん!!」

 わたしは、お母さんに飛びついた。そして、お母さんに抱きついて、泣きじゃくった。

「怖かった! 怖かった! こんなに怖い思いをしたのは、生まれて初めてだよ……」

「もう大丈夫だからね! 葵!」


「あの……お取り込み中のところ、申し訳ございませんけど」

 婦警さんの声がした。わたしは、お母さんと同時に婦警さんの方へ振り向く。

「お母様、例の着替えは持って来られましたか?」

「はい」

 ……着替え?

「誠に申し訳ございませんが、お嬢様のワイシャツとブラジャーを提出していただきたいのです。証拠物件にしますので。あちらの部屋で着替えていただけませんか?」

「嘘でしょ……? 現行犯逮捕でしたよね……。ええ、わかっていますよ。わかっていますとも。証拠を固めておきたいんですよね……。でも……被害者であるわたしが、恐怖や羞恥心と戦いながら全力で警察に協力したわたしが、どうしてこんなにも恥ずかしい思いをしなければならないんでしょうか……?」

 羞恥心が体の底から再び込み上げてくる。ついでに、あの時の恐怖もよみがえってくる。

 目の前が再び真っ暗になる。羞恥心という熱と、恐怖によって生み出された暗黒の炎により、全身の血液が蒸発する。

「葵!」

「お嬢様!」

 わたしは、その場に崩れ落ちてしまった。お母さんや婦警さんたちの声が、遠くから聞こえてくる……


 わたしが着替える時に気付いたのだが、ワイシャツのボタンは第三ボタンまで外れっぱなしだった。

 あまりにも次から次へと驚くようなことが起きたので、外されたボタンを付け直すことを忘れていたようだ。

 もしかして、わたしの胸元は刑事さんたちにも見られていたのかしら。そう考えると、また恥ずかしくなってきた。

 そういえば刑事さんたちは、このことについて何も言っていなかった。証拠をできるだけ保持するために、あえて教えなかったのかもしれない。

 お母さんが持ってきた着替えのシャツは、Tシャツだった。再び学校に行くわけではないし、手っ取り早く着ることができるものを選んだのだろう。

 わたしは、お母さんが持ってきたブラジャーとTシャツに着替える。そして――

「わたしが身に着けていた……ワイシャツと……ブラジャー……です……これで証拠は……充分……です……よね……」

「充分です。ご協力ありがとうございました」

 わたしは警察にワイシャツとブラジャーを泣く泣く提出した。



 帰り際に刑事さんから聞いた。”あの男”は、やはり例のわいせつ教師だった。わたしの証言――あの時のつぶやき――を元に追及したところ、気が動転してボロが出てしまったらしい。これで学校側は言い逃れできなくなったわけだ。

 わたしが小学生の頃、あの教師はいなかった。わたしの卒業後に赴任してきたのだろう。

 わたしの母校にあの教師が入ってきた。わたしの母校は、あの教師の悪行を否定し、あの教師をかばっていた。

 わたしの小学校時代の思い出が汚された気分だ。まさか、わたしの恩師まであの教師をかばうようなことしていないよね……

 他の被害者の場合、下半身の方にも被害が及んでいたらしい。胸、尻、太腿ふとももを触られたと聞いたけど、実際のところ、どんなひどいことされたのかしら。

 なぜ、わたしだけ下半身が無事だったのかと言うと……

 ――こんなは今まで味わったことがなかったから、つい夢中になってしまった――

 それで手錠をかけられる直前まで気が付かなかったらしい。ふざけるな! 人の体を何だと思っているのよ! おもちゃじゃないのよ!

 屈辱感と怒りがマグマのように込み上げてきた。

 けれども、”あの男”が教壇に立つことは、二度とないだろう。現行犯逮捕された上、証拠物件もあるし。

 ”あの男”の教師としての生命を絶つため、わたしは犠牲になりましたとさ。


 ――どうして、わたし?

 わたしを見てムラムラしてしまったのが動機らしいけど、どうして?


 服装について考えてみる。当時の服装は学校の夏服。半袖ワイシャツにチェック柄のスカート、紺のソックス、黒いローファー。夏服の場合、ノーネクタイ可なのでネクタイはしていない。

 まず、ローファーとソックスは関係ない。スカートはみんなと同じように短くしてあるけど、マイクロミニというわけではない。……これも関係ない気がする。下半身は狙われなかったし。

 そして、ワイシャツ。第一ボタンのみ外していた。谷間が見えることなんてまずない。シャツの裾はスカートの中に入れていたから、体のラインは出るけど。もしかして、これ……?

 次に、わたしの体形について考えてみる。身長は女子としては真ん中くらい。体重は重くもなければ軽くもない。まあ普通。

 胸は……決して貧しいわけではないと思う。だからといって、グラビアアイドルやモデルほど大きいわけではない。それに、同じ二年にわたしよりも大きい人は何人もいる。小百合さゆりとか、獅子城ししじょうさんとか!

 だからといって、他の人が犠牲になるのも嫌だけど。小百合は、わたしの親友だから、酷い目に遭わせるわけにはいかない。獅子城さんなら”あの男”を返り討ちにできるかな。男子もビビるくらいだし。


 風呂場は白い湯煙に包まれている。湯船に溜まった暖かいお湯が、わたしの体を癒していく。

 湯船に浸かりつつ視線を下の方に移す。そこには何の変哲もない乳房があった。いつもと変わらない。あれだけ弄ばれても傷一つ付いていない。あざも付いていない。


 ――ふと、わたしは襲われる前のことを思い出した。わたしは流れ星に願い事をしたのだった。

 ――まさか!? 願い事をかなえるために、あんなことを起こしたの!?

 わたしは、信頼していた人に裏切られたような、何者かに突き放されたような、そんな気がした。

「ひどい! ひどいよ……! 神様……。あんな目に遭わせなくてもいいじゃない! ひどすぎるよ……」

 視界がにじんできた。涙が頬を伝ってくるのを感じ取ることができた。

 怪我をしたわけでもない、病気になったわけでもない、なのに……やけに苦しい。

 風呂に入っても癒されない何かがあるようだ。

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