後編

 検査も含め、吉海はしばらくの間入院することになった。

 医者がいうには、

「栄養失調と貧血もあるので、一か月は入院生活になると思います」

 とのことだ。

 会社に連絡をすると言い出した吉海に、

「何言ってるの」

 と都は呆れ顔になる。

「連絡なら誠くんが、倒れた日に入れてくれてたよ。いい子ねぇ、あの子。しっかりしてるし。息子になってくれないかしら」

「それは、誠くんが迷惑でしょ」

 苦笑しながら言い返すと、「え」とカーテンの奥から声があがった。

 カツカツと靴音を響かせながら、当の誠が姿を見せた。

 聞かれてたのか、と吉海は耳を赤くする。都は気にかけていないのか、しれっと「あら誠くん。来てくれたのね」と話しかけた。

「あ、はい。え、それより今、名前……」

「名前?」

 と親子二人して首をかしげる。その仕草がそっくりで遺伝を感じさせる。

「はじめて名前で呼ばれました」

 と顔をほころばせる誠をまじまじと見つめ、

「誠くん、やっぱりお婿にこない?」と都は真顔でいう。

「ちょ、おかあさ……ッ!」

 興奮した吉海はお腹を押さえて涙目になる。

「あらあら。だめよ、おとなしくしとかなきゃ」

 わざとらしく頬に手を添える母親を恨めしそうに睨みながら、「誰のせいよっ」と吉海は呻く。

「あ、お父さんは明日来るそうよ。仕事が忙しすぎて、抜けだせないんですって」

 母親の一言に、吉海は一瞬呼吸が止まったように感じた。

 肺が乾燥してスカスカして、胃はグラグラ煮えてるんじゃないかと思うほど熱くなっていく。

 吉海の異変を察した誠は、「都さん」と服の裾をつまむ。

 都は軽く目を見はったものの、特に口を出すことなく腕時計に視線を落とす。

「……あら、もうこんな時間。二人の邪魔するわけにはいかないわね。じゃ」

 と荷物を手早くまとめ、病室を出ていった。

 室内に、衣擦れの音が響く。

「……わたし、そんなわかりやすい?」

「うん」

 率直な感想に、吉海は「素直か」と眉じりを下げて笑う。

「何も聞かないの?」

 笑みを浮かべたまま、吉海は指先をいじる。

「俺は、吉海さんにとっての部外者だよ」

「そっか」

 再び、室内に静寂が落ちる。

 開いた窓から、さわやかな風が入ってくる。吉海は、

「気持ちいいね」

 と目を細める。細い腕を陽が当たる顔の前にかざしながら、

「時間、ある?」

 と目だけを誠に向けながら尋ねた。

「今日は店、定休日なんで」

大丈夫ですよ、と誠は応える。

「じゃ、ちょっとだけ付き合ってくれない?」



 吉海はまだ万全な体調ではないため、車椅子での移動が義務付けられていた。

「もうすっかり春だよね」

 木漏れ日を浴びながら、吉海は目を閉じる。

「明日はまた真冬みたいな気温になるそうですよ」

 と言いながら、誠は病院近くの散歩道に沿って車椅子を押す。

「それは嫌だなぁ。あ、あそこのベンチにでも座ろう」

 備え付けられているベンチを指し、吉海は頭だけ振り向かせる。

「車椅子押すの、ほんとうに大変じゃない?」

 遠慮がちに上目遣いになる吉海に、

「平気ですよ」と誠は笑う。

 ベンチのすぐ横に車椅子を並べ、「ここでいいですか」と声をかける。

「うん、ありがと。誠くんも座って」

 と促され、誠はベンチの隅に腰を下ろす。

 吉海は「何から話せばいいかな」と唸る。

「私、中学までこの辺に住んでたんだ」

 想いを馳せるように、吉海は空を仰ぐ。

「あの時私は正義感が強くて、まぁ人からウザがられてたってことね。けど他の人から否定されても、両親は肯定してくれたから」

 だから私は正義のヒーロー気取りだった、と吉海は声を落とす。

「煙たがられることもあったけど、でもやっぱり感謝されることも多くて。私調子乗ってたんだよなぁ」

 持ってきていた水筒を傾け、付属のコップに白湯を注ぐ。

「私とその他大勢の人って、全員が全員違う思考を、感情を抱いてるってことをわかっていなかった。だから、一人の女の子の人生を変えてしまった」

 白湯が容器の中でかすかに揺れる。

 ふっと息を吐き、

「その子にとっての『最善』を、私は勝手に決めつけていたの」

 とカップに口をつける。

 誠は無言で手を組みなおした。

「この説明じゃよくわかんないよね」

 と朗らかに笑い、

「年が明ける、ほんの数日前のことだったな。受験期で、私は遅くまで塾で勉強してた。その帰り道に、ちょっと変わった女の子に会ったの」

 話しながら、吉海はカップを握る手に力を込めた。

「とても汚れていて、髪はぼさぼさ。しかもガリガリで、毎日ご飯食べてるのかなって感じだった。その子にね、話しかけたの。家に帰らないのかって。そしたら、遊んでるだけっていうの。明らかにお腹すかせてたし、お風呂しばらく入ってなさそうだしで、放っておけなかった。でも連れ帰ったら誘拐犯になっちゃうから。できることなんて思いつかなくて、とりあえずその子の話を聞いてた。そしたら」

 頭を下げ、言葉を切る。

「殴られたり蹴とばされたりって、明らかに虐待されてた」

 吉海は、ふと横を振り返る。

「どうしたの」

 誠が、真っ青な顔色になっていた。

 本人は自覚がないのか、気遣いからか、

「あ、平気。続けて」

 と無理に笑う。

 吉海は気にかけつつ「うん」と小さく頷き、

「その子、笑顔で話すの。自分のお父さんとお母さんのこと。私、その子が無理して笑ってるんだと思ってた」

 だから、と吉海は苦渋に満ちた声を発した。

「その子を警察に連れて行ったの。警察はその子を保護した。児相も動いて、ここの地域ではかなり大事になった。私は、その子と面会する機会があって……なんの疑問も抱かず、感謝されるのかな、なんて思ったりして……でも」

 長い爪が皮膚に食い込む。

 胃がキリキリと痛くなる。

 脳みそが揺れているように、視界がぐらぐらと定まらない。

 吉海は、ぎゅっと目をつむった。

 

「余計なことしないでよ‼」


 警官に見張られた部屋の中、少女は絶叫した。

「お父さんとお母さんと離れなきゃいけなくなったじゃない!ふざけんな!ふざけんな‼」

 その子は、彼女の父と母と一緒に居られるだけで幸せだったのだ。

 そんな幸せを、吉海は想像もできなかった。

「あんたと会わなきゃよかった!あんたは私の人生を変えたのよ!私の一番大切なものを奪ったの‼返せよ!私の家族、返せよ……ッ!」

 少女は泣き叫んだ。

 部屋にいた警官は、今にも掴みかからんとする少女を取り押さえ、何か言葉を言っていた。

 だが、吉海の耳には届かなかった。


――ああ、取り返しのつかないことをしたんだ。


 それだけが理解できた。

 吉海は逃げるように、別の地域の高校を受験した。



 黙りこくった吉海に、

「しってるから、大丈夫だよ」

 と組んだ手を見下ろしながら、誠は男性特有の少し低い声を出す。

「え?」

 怪訝そうにする吉海に、

「実はその子には、年の離れた兄がいました」

 誠は指先を自身に向ける。

「なんと、それは俺です」

 誠の告白に、吉海は息を呑んだ。

「吉海さんが妹を警察に連れてってくれなかったら、俺たち兄妹は売られてたか死んでたと思うよ」

 誠はそう言いながら右腕の袖をまくる。

 皮膚に、痛々しい煙草による火傷の跡、切り傷が残っていた。

「夏でも長そでが手放せないんだよね。暑くてホント困る」

 と笑う。

「……なにが、部外者だよ」

 関係者じゃないか、と吉海は顔をゆがめる。

「……私は、その時気づいた。ヒーローなんかにはなれないって。私の一言で、行動で、誰かを深く傷つけてしまうんだって」

 だったら、何もしない。したくない。吉海はその日、心に誓った。


――できるだけ周りの景色を無視して生きていこう。


 吉海の良心は痛んだが、自分を守るためだと言い聞かせた。

 そうしたら、助けを求めることを躊躇うようになった。

 道端に落ちているごみ、いじめられている男子、けがをしている少女。全部を見て見ぬふりをしているのに、自分だけが助けを求めるなんて自分本位過ぎないか。

 そう思うと、前に進むことなんかできなくなった。

 茨が足に巻き付いて血を流そうと、それを取り除くすべを持たない彼女は、いつか痛みを感じることができなくなってしまっていた。

 悲鳴が聞こえなくなって、限界値がわからなくなって、血まみれになっても気づかない。


「逃げたんでしょ」


 誠の一言に、吉海は拳を握りしめた。

「吉海さん忘れてない?吉海さんがヒーローごっこしてたときに、多くの人が笑顔になってたんだよ」

 誠は「ごっこじゃなくて」と顔を近づける。

「ちゃんと、ヒーローだったんだよ」


 ヒーローだなんて恥ずかしい単語を、真剣な表情で言ってのける。

 真剣な瞳が、真摯な心が、吉海の心に響いて目を潤していく。

「何回、泣かせる気よ……」

 目元をこする吉海にハンカチを差し出しながら、

「何回でも泣かせるよ」

 と誠は意地悪く笑う。

「吉海さんて、責任感強すぎるというか……なんていうか、極端だよね」

「わかってるよ」

 むすっと口をとがらせる吉海に、誠は陽だまりのような笑みを向ける。

「吉海さんのそゆとこ、かわいくて好きだよ」

「そりゃ、どうも」

 とそっけなく返したが、じわじわと耳が赤くなっていく。

「……ほんとこういうの苦手なの。だからお世辞でそういうのは言わないで」

 と誠を振り返るが、誠は吉海の方を向いておらず、俯いて口元に手を当てていた。

 その耳は、吉海と同じくらい赤くなっている。

「じ、自分で言っておいて照れないでよ……」

 吉海の頬がさらに熱を帯びていく。

 互いに押し黙り、気まずい空気が流れる。

 そんな甘い空気に満ちた空間を、生暖かい風が遠慮がちに通り抜けていった。



***



 微妙な空気を醸し出したまま病室に戻ると、吉海のスマホがブルブルと振動していた。

「……っ」

 電話の相手を確認するなり、吉海は顔を青くした。

 未だ鳴り続ける携帯を、吉海は震える手でとり、

「ちょっと、電話するから」

 と笑みを引きつらせた。

「ああ、じゃあちょっとでてるね」

「うん、ありがと」

 誠が病室を出たことを確認し、深呼吸してから電話の応答ボタンを押す。



「……はい」

『ハイじゃねぇよ!』

 応答した瞬間罵声を浴びせられ、吉海は肩をすくめる。

『何回もかけたよなぁ?無視か?おい。先輩を無視していいんですか?』

 相手は諸田だった。明らかに堪忍袋の緒が切れている。

 倒れた日の翌日から、諸田による着信で履歴画面が一色に染まっている。

「意識がなかったもので……すみません」

『いや知らないよ。ちゃっかり俺がいないときに休んでたようだしさ、調子乗ってるよね?俺が文句言われたんだよ?お前みたいな無能な奴のせいで』

 すみません、と吉海は消え入りそうな声で謝罪する。

『君ってホントさ、謝ればいいとか思ってるよね?女の涙ってかわいい人しか通じないから。お前の涙なんか求めてないから。つか体調管理もできないようじゃ社会人失格だろ。サボろうとしてるのまじでまるわかりだから。資料送っといてやるからまとめておけよ?あ、明日までな』

 棘のある言葉に、吉海は胃のあたりの服をつかむ。

『おい聞いてんのか?返事くらいしろよ。常識だろ?常識って言葉知ってる?それもわからないんだったら社会人辞めた方がいいんじゃない?』

 せせら笑う声が、電話口から聞こえてくる。


 そのとき、何かが吉海の中ではじけた。


――戻っちゃ駄目なんてルールないよ?


 脳裏に、誠との会話がよみがえってくる。

 その記憶に、吉海は小さく息をついた。


「辞めた方が、いいでしょうか」

 吉海の掠れた声に、諸田は「は?」と困惑をあらわにした。

「私、今まで逆らわないようにしてきたんです。いい顔して、穏便に済まそうとしてました」

『いやいや、いきなりどうしたんだよ』

 と諸田は嘲笑しながら言葉を遮る。吉海は浅く呼吸し、

「ちょっと変わりたくなりました」

 と明るく答えた。

 面食らったらしい諸田は、一瞬声を詰まらせた。

『いや……いやいや、何子どもみたいなこと言ってるわけ?頭打ったか?馬鹿になったのか?いきなり……』

 すぐに毒舌を取り戻した諸田に「なので」とわざと言葉をかぶせる。

「言いたいこと、言わせてもらいます。諸田さん、私のこと嫌いですよね?安心してください。私も諸田さんのこと大っ嫌いです」

 吉海の超低音ボイスに、諸田は言葉を失った。

「それと、お望み通り仕事辞める申請出しておきます。そうしたら会社に、諸田さんにモロに迷惑かけますよね?諸田さんだけに」

 ふふっと笑う吉海に、諸田の怒りに震えた呻き声が機械の先から聞こえてくる。

「当たり前だ!こんな時期に辞めようだなんてお前……!いったいどれだけ迷惑かける気だ!」

「あら、迷惑かけたくて辞めるって言ったんですよ」

 あっけらかんととんでもないことを口にする吉海に、諸田はうろたえ言葉を失った。

 全ての毒を吐き出した吉海は息を深く吸いこむ。

「それでは失礼します」

 と通話を切ろうとしたときだ


「待ちなさい」


 吉海のすぐ後ろから、低い男性の声が降ってきた。

「え」

 その人物は驚愕している吉海の手からスマホを奪い、「もしもし」と通話に出る。

『は?どちら様?俺の話はまだ終わってないんだけどって小野原に……』

 不機嫌な諸田に、その人物は「なんだその口の訊き方は」とピリッとした空気を醸し出す。

「わからないか、諸田くん。浜田はまだだ。小野原さんの見舞いに来たところだったんだが、タイミングがよかったのかな。君にはいろいろと訊きたいことがあるが……とりあえず、謝罪はないのかな?」

 浜田の剣幕に、諸田は「し、失礼しましたッ」と上ずった声で謝罪を口にした。

「なぜ勤務時間中に電話をしているのか、ということも明後日聞かせてもらおうか」

 横柄な態度はどこへやら、諸田は委縮して声も出せずにいる。

「それじゃ、要件はもうないようだから切るよ」

 と一方的に通話を切り、

「突然すまなかったね」

 苦く笑いながら、浜田はスマホを吉海に渡す。

「い、いえ。それより、どうして課長がこちらに」

 と戸惑う吉海に、

「見舞いだよ。倒れたと聞いてね。私がいない間、諸田くんがやらかしたそうだな」

 浜田は頭を抱え、

「気づくのが遅くなってしまい、申し訳なかった。辛い思いをさせたね」

 と慰撫いぶする。

「いえ……そんな……課長のせいではないので」

 吉海の笑みに、浜田は首を横に振った。

「いや、部下をつぶさないように仕事を割り振るのが僕たちの仕事だ。彼にはしかるべき措置をとろう。上には僕から言っておく。それでも君はやめる意思を曲げる気はないか?できるなら、君のような優秀な人材を失いたくはないんだが」

 吉海はすぐに答えを出すことができなかった。

 眉を下げ視線をさまよわせる吉海に、浜田は「考えておいてくれ」と柔和な笑みを浮かべ、

「これは見舞いだ」

 とフルーツバスケットを手渡す。

 踵を返した浜田はふと足を止め、「そうだ」と振り返った。

「良い人と巡り合えたようだな。その縁、大事にしろよ」

 と言い、背を向けて病室を出ていった。

 吉海はバスケットを抱える手にかすかに力を込めた。

 コンコン、と病室の扉をノックする音が耳に届く。

「吉海さん、入って平気?」

「あ、どうぞ」

 乾いた音を立てながら、誠は扉を閉める。

「大丈夫だったの?」

 と上目遣いに尋ねる誠に、吉海は笑顔を向ける。

「うん。ふっきれた」

 影のない笑顔に、誠は安堵したように「よかった」と目を細める。

「誠くんが、課長を引き留めてくれたんでしょ」

 車椅子を漕ぎ、吉海は「ありがとね」と誠に向き合う。

「仕事、上司とうまくいってなかったの。それでどんどん、追い込まれちゃって……助けてって、言うことが怖かった。ちょっとでも否定されたら本当に壊れちゃいそうで……親にも、言えなかった。仕事辞めたいなんて、無責任だって言われそうで怖かった。まぁ、実際無責任なことではあるんだけどね……。でも、会ったばかりの男の子を前にしたら、そんな考えはどっかいっちゃった」

「え?」

 怪訝そうに首をかしげる誠に、

「逃げてもいいって、言ってもらえた気がした。前ばかりみていた私に、戻って別の道を歩く方法を示してくれた」

 もう社会人なのだから、自分のことは自分で決めなくてはならない。

 だがその判断を、いつも人に委ねてしまっていた。その根本から、直していかなければならない。

 吉海は恐れていた。

 自分が間違うことを。取り返しのつかないことになることを。再び同じ過ちを犯してしまうことを。

 視線が交わり、互いの瞳に互いが映る。

 だが、引き返せる。やり直せる。全く同じ道にはならないが、その後の人生すべてが失われるわけではない。そんな当たり前のことがわかっていなかった。

 気づかせてくれたのは、弱りきった心に手を差し伸べてくれた人だった。

「誠くんは私にとってのヒーローだよ」

 誠の瞳が見開かれる。

 言葉が出てこない様子の誠を見つめながら「そんなに驚く?」と吉海はくすくす笑う。

「誠くんさえよければ、これからも仲良くしてほしいな」

 伸ばされた細い腕を眺め、誠は緩慢な仕草で手を握った。

 想像よりも柔らかく大きな掌が、かすかに汗ばんでいる。そっと手を引こうとすると、

「……それは、友人として?」

 離れかけた手をつかみ、誠はまっすぐに瞳を見つめる。

 心臓が耳の近くまで移動しているのではないかと思うほどにうるさいのに、誠の吐息が聞こえてくるほど耳は澄んでいる。

「ゆ、友人として……がいい」

 吉海の弱々しい声に、誠は手を放す。

「そっか」

 と少し残念そうに笑い、

「わかった。そりゃ会ったばかりだしな。ないよな。うん。あ、この後まだ検査あるらしいよ」

 と早口で切り上げ、背を向ける。

 遠ざかりかける背を、吉海はつかんだ。

 誠が口を開くより早く、「ちがくて」と目を伏せる。

「その、『今は』友人がいいってだけで……」

 耳まで真っ赤にしながら、吉海は目をつぶる。

「ぜんぜん、なしじゃない……っ」

 きつく閉じた瞳の向こう側から、かすかに笑う声が響いた。

「じゃあ、そのときは吉海さんから言ってね」

 え、と顔を上げる吉海に、

「期待しとく」

 と誠は満面の笑みを浮かべながら病室を出ていった。

 残された吉海は、しばらく頬の熱を下げることができなかった。



***



 医者の見解通り、吉海は一か月で退院できることとなった。

 無事に退院できるめどが立った頃のこと、浜田が病院へ再び訪れて返事を聞きに来た。今回の騒動の主な原因である諸田は、部下に自分の会議資料を作らせるなど、給料泥棒と等しい行為の常習犯だったことが発覚し、地方へと飛ばされるうえに降格、という処分になった。

「諸田と会わなくて済むなら戻る」

 という結論に落ち着き、吉海は会社に残ることとなった。

 医者の方からは、しばらくの間胃に優しい食、ストレスの少ない環境で生活するよう指示された。

「ありがとうございました」

 看護師と医者に礼を言い、花束を手に病院を出たところに誠が立っていた。

「退院、おめでとう」

「ありがと」

 いこうか、と誠は吉海の手をとる。

 吉海はその手を握り返しながら、

「まさか誠くんと同居することになるとは思わなかった」

「栄養士の勉強してたから、だいぶ力になれると思うよって言ったら、都さんから同居勧められたときは俺もびっくりしたよ」

 誠は眉を下げながら笑う。

「お母さん、誠くんのこと気に入ってるからなぁ……重くてごめんね」

 暗い表情になる吉海に、「いやいや」と誠は微笑を返す。

「そのおかげで吉海さんと一緒に暮らせるわけだし。まあ、まさかの半年っていう条件付きだけどね」

「お父さんがごめん」

 と吉海は額に手を当てる。

「吉海さんのお父さんにも認めてもらえるように頑張るよ」

 するりと手を滑らせ、手を絡ませるようにつなぎなおす。

「……誠くんは、そのままで十分だよ」

 と呟き、赤くなる頬を隠すように俯く。

「いや、気に入られたいから頑張る」

「頑固だなぁ」

 二人の間にさわやかな風が吹く。

 吉海は手を解き、一歩前に進み出て「誠くん」と声をかけ、

「これからも、よろしくお願いします」

 と花がほころぶような笑みを誠に向けた。


 強い風が吹き、辺りの桜を散らせていく。

 自然とできた桃色の絨毯の上を、二人は同じ歩幅で歩いていった。

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