晴天前夜

木風麦

前編

 とある生暖かい風の吹く夜明け。ようやく作り終えた会議資料を傍らに、会社近くの公園のベンチで独り、自販機で購入したブラックコーヒーを傾ける女がいた。

 メイクは剥げ、荒れた肌が表に出ている。加えて隠せないほどの真っ黒なクマを持つ彼女は虚ろな目をしている。

 始業まであと三時間と少し。眠ったら間違いなく、日ごろの疲れが顔を出し、遅刻するだろうことが容易に想像できる。

――眠っちゃだめだ。

 小野原おのはら吉海きみは、重たい瞼をこすりながら首を軽く左右に振る。

 首も肩も頭も腰も、身体の全てが痛い気がする。というか頭痛は日常に溶け込んでいて、いまさら違和感を覚えない。

 だが今日を乗り越えたら、明日はちゃんとした休日が待っている。このところ休む間もないほど忙しかったが、有給休暇を使って休める日がようやく来たのだ。

 「休暇」という響きに、吉海は頬を緩める。

 明日が待ち遠しくなり、今日を乗り越えようという気になる。

「さ、今日を乗り切らなきゃ」

 自身を鼓舞しながら、行きつけのカフェにてBLTサンドを購入するべく腰を上げた。



***



「明日さぁ、本当に休む気ぃ?」

「は」

 思わず声が漏れてしまった。当然先輩上司は「は?じゃないよ。口の訊き方がなってないなぁ」と目くじらを立てる。

 今朝作り上げた資料を持っていくと、人指し指をデスク上で落ち着きなく動かしながら切り出されたのだ。

 吉海の働く会社は、「クリーンな職場」がモットーだ。実際残業は少なめ、定時で帰宅といったことが徹底され始めている。勿論残業申請すれば残業はできる。

 有給休暇も、規定では前日の終業時刻までに申し出れば受理される場合がほとんどだ。当日の場合も、「熱、忌引き」といった理由であれば許容されることが多い。つまり会社そのものはクリーンな規定なのだ。

 ただ、吉海の上司である主任の諸田もろたはよく苦い顔になる。というか、苦い顔しかしない。

 吉海の大学の先輩であるということもあるためか、彼女に対しては何かと横柄な態度になるのだ。

「今忙しい時期だってわかってる?わかってるよね?なんでこのタイミングで休暇取れるの?すごいねぇ、その度胸!」

 そう言われるのを避けるため、吉海は二週間前から有給休暇の申請をしていたのだ。しかも時期的にいうのなら、本当はそこまで忙しくないはずなのだ。繁忙期は主に季節の変わり目で、現在はその準備期間。そのうえ彼女はまだ新人という括りに入るため、大きな仕事が割り振られることはほとんどない。場合として、繁忙期に処理しきれない案件を上司のフォローを交えつつこなすようなことくらいしかないはずなのだ。

 就職して二年目の彼女だが、雑務、手伝い、入力といったことから、簡単な小会議の資料作りにまで手を広げたこともある。つまりは結構有能な人材としての立ち位置を得たはずだった。

 だが小会議の資料作りは一度きりで、あとは諸田から「やっといて」と投げられた資料の作成に勤しむ日々が続いている。朝方まで作成していた資料も、諸田の指示で作っていたものだ。

 ちなみに資料を渡す際によく言われる文句が、

「え、まだ終わってなかったの?遅いなぁ。こんなんじゃ先が思いやられるよ」

 大袈裟な溜息と共に繰り出されるこの言葉に、何度心の中で拳を握ったことか。

 そして現在、働かない頭を必死に回しながら吉海は「あの」と遠慮がちに口を開く。

「私、休暇申請二週間前に出しましたし、主任にもその旨伝えましたよね?」

 その時も文句を言われた。

「自分だけ休もうとするなんて、小野原さんて意外と神経図太いよね」と。

「で?」

 返ってきた言葉に、

「……え?」と吉海は作り笑いを硬直させる。

「だから?それで?」

 眉間にしわを寄せ、諸田は大きく息を吐いた。

――くっっさ。ミ〇ティア噛んどけよ。

 吉海は内心毒づきながら、「ですから」と笑う。怒りと苛立ちからくる笑みだった。

「一度主任から許可いただいたわけですし、明日のことを今おっしゃられても」

 諸田はじろりとねめつけるような視線を吉海に向けた。

「あのさあ、本当に君って自分勝手だよね。わかってる?自覚ある?一度俺が許可したら何が何でも休むんだ?休めるんだ?普通さぁ、気ぃ遣わない?」

「気を遣う、ですか」

「うん。配慮ってのがないよね」

「……すみません」

「いや、謝罪なんかいらないよ。それで?君は?休暇とるの?」

 高圧的な態度に、吉海は肩を縮こませる。

「……いえ、返上します」

「うんうん、了解」

 打って変わってご機嫌になった上司に、吉海は爪を皮膚に食い込ませた。

 やり場のない怒りを鎮めるため、「明後日は土曜日だから休める、一日増えただけ」と自分に言い聞かせる。

 深呼吸して、自席へ戻ろうと腰を上げた時だった。


「あ、小野原さんが休暇取り消すっていうから、俺明日有給使うね!」


 信じられない言葉が、耳をすり抜けていった。

 脳みそが処理しきれない。いや、理解しようとしていない。

 頭が真っ白になったままの状態で、ゆっくりと主任の方を向く。

「いやぁ、明日奥さんの記念日の前日なのすっかり忘れてて!小野原さんが取り消してくれて助かったよ」

 小野原さんでもできる仕事だけにしとかないと、と嬉々とした表情で部署の人に触れ回る諸田を、吉海は死んだような瞳で眺めるばかりだった。



***



 その日も定時に業務が終わらず、結局また深夜帯までパソコンとにらめっこ状態だった。昨日は寝たら起きないという予感があったため眠れなかったが、それ以外の日は仮眠室や漫喫を利用して始業時間の三十分前までが睡眠時間になっていた。そんな生活が、今日でちょうど一週間続いていることになる。

 休暇を奪った張本人は言わずもがな、定時で帰宅している。

 明日もあるのかと思うと、やはり気分が落ち込むが、主任は休みなのだ。少しは気が楽になる。怒りや苛立ち、悔しいといった感情は、もはや忘れ去られている。

 ただ明らかにキャパオーバーなのだ。頭が働かず、小さなミスを頻発してしまった。おかげで主任に何度「こんなことも防げないの?」と顔をしかめられ、「いやいや、こんなミスするのほんと君くらいだから」と嘲笑されたことか。

 頭がぼんやりして、気が付けば眠りそうになる。

 仮眠室へ向かうと、いびきがドアのすぐ前まで聞こえてきたため無言で踵を返した。

 仕方なくいつもの漫喫に向かおうと会社を出ると、ちょうど朝日が昇り始めていた。

 眩しい光が目に痛くて、目を細める。普段ならこういった美しい光景を前にすると笑顔になれるのだが、そんな気力すら湧いてこない。

 だが不運は続くらしく、漫喫はすでに満員だった。

 昨日訪れたばかりの公園のベンチに腰を下ろす。新しくないベンチは、ミシッと鳴った。

――続けてオールはキツイな。

 目頭を揉みながらため息をく。

 仕事を辞めたいという思いが、日に日に強くなっていく。だがそんな無責任なことをできるはずがない。それに転職がそううまくいくだろうか。しばらくアルバイト生活をすることになるだろうか。それで生計を立てられるだろうか。

 辞めた後に、明るい未来が待っていることも想像ができない。

――それだったら、今の仕事を続けた方がいいのかもしれない。

 結局毎回この結論に至るのだ。

 すっかりぬるくなった缶コーヒーを両手で包み込み、目を伏せる。

 逃げてしまいたいという本心は、いつも理性によって隠されてしまう。

 友人とはしばらく連絡をとれていない。仕事が忙しく飲み会に顔を出せない日が続き、誘われる回数が激減した。それに加え、周りの友人は彼氏を作り日常を謳歌しているらしい。そのため吉海の方から連絡するのもためらわれ、結局休日は一人で過ごすことが多くなる。

 両親に退職の相談など持ち掛ける気にもならない。

 吉海の両親は、吉海からすれば「立派」な人なのだ。「常識」を幼いころから教えられ、厳しくも優しい両親。その二人が呆れた表情を向けてくることを想像しただけで吐き気が襲ってくる。

 本当に味方が一人もいなくなってしまうと思うと、絶対に言い出せない。


 身動きがとれない。


 呼吸をすることが難しく感じる。逆に、止めることのほうが簡単なように思えてくる。

 昨日と打って変わって冷たい風が吹き、耳を冷やしていく。


 ゆっくり目を閉じようとしたその時だ。


「だいじょうぶ?」


 柔らかい声音に、うっすらと目を開く。

 目の前には見知らぬ青年が座り込み、首を軽く傾けて吉海を見つめていた。

「大丈夫です」と、瞼をこすりながら吉海は微笑む。

「そうは見えないけど。めっちゃ濃いクマできてるじゃないですか」

 眉をひそめる青年に、ぼんやりとした頭を左右に振りながら「平気ですから」という。しかし青年は、

「いや、絶対平気じゃないです」と食い下がる。

「本当に大丈夫ですから……あの、放っておいて」

 覇気のない声で呟くと、青年は人差し指を突き出してきた。

「オネーサンさ、逃げたいって思ってる?」

 ぎくりと身体が強張る。

 その様子に、青年は「よかった」と笑みを返した。

 困惑している吉海に、青年は「あっちの通りにカフェあるっしょ」と指を右に向けた。

「俺そこのカフェで働いてるんだけど、オネーサン常連だから覚えちゃった。日に日にやつれていくし、顔真っ青だし、クマが濃くなるしで、気になって仕方なかったんだよ」

 話せてよかった、と彼は優しく微笑む。

 その瞬間、吉海の中で何かが決壊した。


 ぽろっと、左手に生ぬるい液体が落ちてきた。

 コーヒーをこぼしてしまったのかと、手元を見た。

 だがその液体は透明だった。

「……なみ、だ?」

 どうして、という疑問は声に出せなかった。嗚咽が混じり、言葉にすることができなくなる。

 青年はゆっくり立ち上がり右隣に座ると、そんな吉海の肩を一定のテンポで優しく叩く。

 吉海は俯きながら、堪えきれない涙を涸らすまで泣いた。



***



「あの、ありがとうございます」

 泣き腫らした瞳を逸らしながら、吉海はくぐもった声を出す。

「俺はなんもしてないよ。あ、でも……その顔じゃ、しばらく会社戻れなくない?せめて午前中だけでも休暇とったら?」

「……いや、でも」

「スーツもぐしょぐしょになってるし」

 全く持ってその通りで、スカートが悲惨なことになっていた。

 時計を確認すると、もうすぐ七時になるところだった。スマートフォンを取り出し、課長と主任に一報を入れる。その一分後、課長からすぐに「確認しました。」という返信がきた。

 その後部署ごとに分かれている相談窓口に電話をかけ、午前休暇を申請してからスマートフォンをしまった。

「さて、それじゃ朝市にでも行こうか」

 と、青年は立ち上がる。

「はい?」

「あ、帰って寝る?」

 差し出そうとした手を引っ込めながら、青年は眉を下げた。

「気が利かないな、俺。それじゃ、しっかり寝て……」

 吉海は「いえ」と短く青年の言葉を遮った。

 吉海は一瞬交わった視線を逸らし、

「あの……寝たら、たぶん起きれないので」

 その、と口ごもる吉海に、

「そんじゃ、午前中だけ俺に付き合ってよ」

 と、青年は嬉しそうに笑う。

「あ、伊月いづきまことです。以後、お見知りおきを」

 そう言いながら、再び青年は手を差し伸べてきた。

「小野原、吉海です」

 やわらかな金髪に目を奪われながら、吉海はゆっくりとその手をとった。



***



 吉海の家は会社の近所ではない。

 そのためここ一週間は帰宅することすらできていなかった。基本満喫で洗濯、シャワーを浴びてから出勤する。半ホテルのような満喫に、居座り続ける人がいるのにも納得できてしまう。

 満喫と会社との往復で済んでしまうことから、吉海が他の場所に赴くことはなく、近場にある商店街に足を運ぶのも初めての経験だった。

 商店街のアーチをくぐる前から、パンの香ばしい匂いがただよってきている。

「いい匂い」

 と目を細める吉海に、誠は「おいしいよ」と首肯する。

「ここの商店街、パン屋が結構入ってるから朝から店やってるところが多いんだ。あとはカフェも入ってるし、鮮魚店で頼んだら刺身と炭火焼出してくれるんだよ。おにぎりかパンを食べ歩きながら、その鮮魚店に向かうってルートがおすすめ」

 観光案内のような説明に、

「物知りなのね」

 と吉海は目を丸くする。

「小さいころ、この辺に住んでたから」

 吉海は「そっか」と呟きながら、目を伏せた。

「あ、オネー……吉海さん何食べたい?」

 唐突に名前で呼ばれ、吉海は「えッ」と後ずさる。

 吉海の反応に、「ん?」と誠は不思議そうに首をかしげる。

「どうかした?」

 無邪気なのか、天然なのか、ナンパ慣れしているのか。吉海が何に対して戸惑っているのか、彼は理解できていないようだ。

「いや……えと、じゃあ、おにぎり食べたい、かな」

 しどろもどろになりつつも、吉海は唇を動かす。

「おにぎりだとね、いまちょっと通りすぎた」

「え」

 それならパンでも別に、と吉海は先に進もうとしたが、

「こっちだよ」

 と腕を引かれた。自分よりも少しだけ大きく力強い掌に、心臓が音を立てた。

「あ、いや……通り過ぎたなら、別に戻らなくても」

 と渋る様子を見せる彼女に、誠は顔だけ振り返らせ、

「なんで?今食べたいもの優先させようよ」

 と笑いながら「べつに急いでないしさ」と付け足す誠に対し、吉海は首を縦にしない。

「でも」

「戻っちゃ駄目なんてルールないよ?」

 と誠は穏やかな声で応える。その声に、吉海は足をビタリと止めた。

 突然立ち止まった吉海に、「吉海さん?」と自身も足を止めて向かい合う。

「……いまさら、戻れないよ」

 か細く、透明感のある、芯が折れてしまったような声だった。

 誠は無言でその手を離し、一人先に進んでいった。

 あたたかな温もりが消え、彼女の冷えた指先だけが取り残される。


 そんな彼女の目の前に、湯気の立つ真っ白な物体が差し出された。

「止まって、戻ることも大事なことだって先生が言ってた」

 声の主は吉海の手をとり、湯気のたつおにぎりを握らせる。

「戻れないんじゃなくて、戻りづらいだけだ。そしてその選択は、吉海さんが、自分で選ばなくちゃいけないんだ」

 吉海はおずおずと視線を上げる。

 穏やかな眼差しで、誠は見つめ返す。

「しゃけと昆布とあるけど、他に欲しいのある?」

 胃的にはその二つで十分だ。だが、

「……お塩だけの、おにぎり」 

 今一番欲しいのは、しゃけでも昆布でもない。

「買ってくる」

 迷いなく一歩踏み出した吉海の背に、「うん」と誠は唇を弧の形にする。

 くん、とジャケットを引っ張られ視線を向けると、吉海が耳を赤くしながら俯いていた。

「ま、まっててほしい……です」

 蒸気の音が聞こえてきそうなほど真っ赤になっている吉海に、

「うん、まってる」

 と誠は自分の手の甲で口元を隠すように言った。



 数分後、指が火傷しそうなほど熱いおにぎりを片手に戻ってきた吉海は、もう片方の手に別のおにぎりを二つ抱えて戻ってきた。

「他のところも回るっしょ」

「ん。案内、お願いします」

 吉海は素直に頷き、おにぎりを頬張る。

「あつ……っん、おいし」

 目を輝かせた吉海は、ものの数秒でおにぎりを胃袋に吸収してしまった。

「ふふ……温かいごはんって、やっぱりおいしい」

「吉海さんて、幸せそうに食べるね」

「ご飯たべるの、昔から大好きだったから」

 そうだ、と吉海は吐息を漏らす。

――いつからご飯を蔑ろにするようになったんだっけ。

 仕事が忙しくなり、自炊も億劫になり、だんだん食に意識がいかなくなった。

 おいしかったはずの料理も、最近は味わうことを忘れていた。

「ここ、好きだな……教えてくれてありがとう」

 と満面の笑みを浮かべた。

「いーえ。あ、魚嫌いじゃなかったら、さっき話した鮮魚店いこう」

「いきたい」

 二人は肩を並べ、にぎわいつつある商店街の通りをゆっくりと歩いていく。

 できたてのパンを購入しては食し、朝から営業していた焼き鳥の屋台でたれのたっぷりかかったねぎまを購入し、例の鮮魚店ではほたてを焼いてもらった。



「吉海さん朝から結構食べたね」

 川沿いの堤防に腰を下ろし、買ったばかりのフルーツ飴をかじりながら話しかける。吉海は自販機で購入したあたたかい緑茶を揺らしながら、

「お腹すいてたみたい」

 と微笑しながら緑茶に口をつける。

 吉海はふと天を仰ぎ、

「こんなに楽しくても、明日は来ちゃうんだよなぁ」

 そう言いながら苦く笑う。

 誠は茶化すような口調で、

「あ、楽しんでもらえました?」と笑う。

 吉海は澄み切った笑顔を誠に向け、

「うん、楽しかった」

 立ち上がった吉海の右頬を、昇りきった陽が照らす。

「カフェにも、また顔を出す。今日は本当にありがとう」

「え、連絡先教えてくれないの?」

「教えてもいいけど、意味なくない?」

 吉海は眉をひそめるが、誠はいたって真面目な表情で「意味なくない」といった。

「今度はちゃんと、約束してから会いたい」

「あ、あいた……っ?」

 何の意図もないと言い聞かせても、吉海の頬は熱をじわじわと帯びていく。

「吉海さんは、俺にとって大事な人なんだ」

「え、会って間もないよ?会話したのもほんの数時間前だよ?」

 戸惑う吉海に、誠は目を細める。

「実は、初めてじゃないんだよ。会うの」

 誠の告白に、吉海は瞠目した。

「吉海さんは、覚えてないかもしれないけど」

 誠はそう言って目尻を下げる。

「今は……思い出せない。いつ会ったの?」

「教えない。今度会ったときに話すよ」

 と誠はいたずらっぽく笑う。

「ちゃっかりしてるなぁ」

 苦く笑って見せるが、吉海はすんなりスマホを取り出した。

「それじゃ、また」

 新しく入れた連絡先に目を細めながら、吉海は笑顔で手を振りながら会社へと足を向かわせた。

 足元がぼんやりとして見える。

 ふわふわとして落ち着かない。地に足着いた心地がしない。

――足がぼんやりしているんじゃない。

 頭がふわふわしているのだ。脳が、スリープモードに切り替えられているのだ。

 いかんいかん、と頭を振る。

 日差しが妙に暑く感じる。そのくせ、手足の先は氷のように冷え切っている。

 おかしい、とようやく頭が理解した。


 その時だった。

 喉が焼けるように熱く、たまらずに咳き込む。

 しばらくおさまらず、咳き込み続ける。

 異変に気付いたのか、「吉海さん?」と誠が駆け寄ってくる。

 その映像を最後に、吉海は意識を手放した。


 彼女の手は、鮮血に染まっていた。



***



――救急車のサイレンが聞こえる。

 ぼんやりとした意識のまま、吉海はうっすらと目を開ける。

「まだ溜まってます。吸引機ぃ!急いで!」

「小野原さん?聞こえますかぁ?」

 狭い室内に、複数人の声が聞こえる。

 不思議なことに、声が出ない。自分の意志で、手も足も、指一本すら動かせない。

 そんな曖昧な意識も、徐々に薄くなっていく。


「……ん」

 うっすらと目を開くと、ずきりと腹部が痛んだ。思わずうめき声を上げる。

 眉をきつく寄せながらも、辺りをゆっくりと見まわす。

 薄暗い室内は、見覚えのない場所だった。

 アルコール消毒の匂いやベッド、ナースコール設備からして、病室であることは間違いない。

 起き上がろうとするも、腹部に激痛が走るため上体を起こすことすらできない。

「吉海さん?」

 もぞりと足元の方で音がした。

 影はもぞもぞと起き上がり、顔を見せた。

「目が覚めた?よかった。とりあえず医者呼ぼう。あ、しゃべっちゃ駄目だよ。あと無理に起き上がらないで」

 と制止をかけられる。吉海は眉を下げながらも小さく頷き、おとなしくした。

「いろいろ疑問はあるだろうけど、とりあえず医者の説明きいて」

 金髪をなびかせながら、誠は病室を出た。かと思えば、すぐに医者を連れてきた。


「胃潰瘍です。そう簡単には治らないので、気長に戦っていきましょう」


 医者は至極あっさりそう言い放った。

 吉海は事態をうまく呑み込めず、目を白黒させている。

「ひとまず薬で対応しましょう。穴が開くことも考えられるので、手術になる可能性もあります。今は食生活改善と、ストレス軽減に努めてくださいね」

 医者の指示に、吉海は小さく頷く。

「それじゃ、なにかありましたらナースコール使ってください。あ、しゃべっても平気ですけど、笑ったりすると痛いと思いますよ」

 足早に退室する医師を見送るなり、誠は「吉海さんが倒れた時」と口を開いた。

「生きた心地しなかったです。吐血してるうえ意識ないし」

 言い返す言葉もなく、吉海はうなだれた。

「やめてください、本当。めちゃくちゃ心配したんですから」

 声も、肘をベッドにつきながら頭を支える両手も、小刻みに震えている。

 小さな頭に、そっと手を伸ばす。が、届かない。

 まるで自分の身体ではないようだ。腕が震え、空中で数秒も静止できない。

 力尽きてベッドに腕を落とす。ボスンという音に、誠は顔を上げた。

「どうかしました?」

 首をかしげる誠に首を振ってみせる。


 壁にかかっていた時計の長針が六に差し掛かろうとした時だった。

 カラカラと戸が開く音がした。

 コツコツコツと絶え間ない速度でヒールの音が近づいてくる。


 二人の前に現れたのは、長い髪を緩く巻いた女だった。

「こんにちは。吉海さん、ほんのさっき……」

 起きたんですよ、と説明しようとする誠を無視し、反対側の通路に入って、じっと吉海を見下ろした。

「……おかあ、さん」

「は⁉お姉さんじゃなくて⁉」

 吉海の母親、小野原都みやこは、見た目は完全に三十路あたり。美魔女というほかない。

 誠が驚くのも納得だった。

「大丈夫なの?」

「……うん」

 吉海が頷くと、がばっと抱きつかれた。

「お、おかあさん……っ?」

 戸惑う吉海の頭を抱えながら、都は「このバカ娘!」と叫んだ。

「心配させないで‼子どもが親より先に死ぬなんて、これ以上の不幸はないのよ⁉」

 母親の叫びに、吉海は震える唇をかんだ。

 べつに死にはしないけど、という言葉は、小刻みに揺れる母親の腕に消される。吉海はそっと肩に手を添え、

「心配かけてごめん」

 鼻を啜る吉海の頬を涙が滑り落ちていく。

 柔らかな黄色い光が一筋、カーテンの隙間から病室に差し込んでいた。

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