第9話
待ちに待った土曜日。
わたしは2階の自室で、階下の様子に耳を澄ましていた。
毎週土曜日は、わたし以外の家族はみんな出かける。母、義父、義妹そろって出かけることもあれば、両親のどちらかが休日出勤ということもあるみたいだけど、だいたい9時にはだれもいなくなる。そして、夕方まで帰ってこない。1週間のうちで土曜日の昼間だけが、わたしにとって羽を伸ばせる貴重な時間だ。
ぱたぱたと、大小のスリッパの音が、廊下を行き交っている。平日のような慌ただしさはない。今日は3人でお出かけコースらしい。
玄関の方から、パパ、ママ、と高い声で呼ぶ声がする。急かす声に、大きな足音が向かっていく気配もする。
わたしはドアに耳を当て、玄関の施錠される音を聞いた。毎週土曜日、この音を聞くたび、何となく心が脆くなっていく気がする。身体が透明に近づいていく気がする。こういうとき、早くひとり暮らししたいな、と思ってしまう。
ため息をひとつついて、立ち上がる。もたもたしている暇はない。壁にかけていたエプロンを掴み、身につけながら階段をおり、キッチンへと向かう。
今回は、モンブランタルトにする予定だ。まず、タルト生地とスポンジケーキを作り、それを冷ましている間にホイップクリームと栗のクリームを作る。
栗のクリームは、この前さとうさんにおつかいしてもらったマロンペーストの缶詰に、バター、ホイップクリームを混ぜて作る。いつもはこれだけだけど、さとうさんが大人だったのを思い出し、少しラム酒を加えてみることにした。ラム酒の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
味見してみると、いつもより大人っぽい味になっている気がした。ただ甘いだけじゃなく、ラム酒の香りのおかげで味が引き締まった。そっか、今まで何かもの足りないと思ってたのは、洋酒だったのか。また1歩、お店の味に近づけたかも。
冷めたスポンジケーキをスライスし、次は土台を作っていく。まず、タルト生地に薄くホイップクリームを塗り、スポンジを1枚のせ、今度は少し多めにクリームを塗る。そこへ、昨日買ったマロングラッセをぱらぱらとまき、スポンジをのせる。また同じようにクリームとマロングラッセをサンドしたら、なだらかな山型になった。クリームを塗り広げれば、小さなかまくらの完成だ。
ここで、本日の主役登場。
モンブラン口金だ。
栗のクリームは固いから、100均の使い捨て絞り袋では頼りなすぎて破れてしまう。布製の頑丈な絞り袋に口金を入れ、栗のクリームを詰めていく。
栗のクリームはホイッパーでよく混ぜて、空気を含ませている。そうすると、口当たりがやわらかく、滑らかになるのだ。
ここからは一発勝負。
今まではランダムに絞っていたけど、今回は挑戦したい絞り方がある。
山のてっぺんを中心に、綺麗な渦巻きを描く絞り方だ。まるで、コンパスで同心円を描いたような、精緻な美しさ。最近ハマっているお菓子作り動画で見てから、ずっとやってみたかったのだ。
その動画は何十回も見て、やり方は頭に叩きこんである。イメージトレーニングはばっちりだ。だけど、うまくいくかどうか……。
「失敗は許されぬ……」
試しに、ボウルの中でクリームを絞り出してみる。にゅーっと、ところてんを作っているところは見たことないけどたぶんこんななんだろうなといった感じで、クリームが麺になって出てきた。
やばい、モンブラン作ってる感、はじめて感じてる……!
回転台に置いた土台を、回転したときに中心がずれないように位置を微調整する。回転台を回して真上から見て、土台がブレなければオッケー。
あとは、これを高速で回転させ、クリームを絞り出しながらてっぺんから裾野へ口金を移動させていくだけ……。
「よし……」
回転台を勢いよく回し、両手で絞り袋をかまえる。中心に口金を、土台に触れるか触れないか、ギリギリのことろに保ち、指に力をこめてクリームを絞り出す。一定の力でクリームを絞り出しながら、そして口金と土台の距離感にも気をつけながら、4時の方向に絞り進めていく。回転台の回転が緩やかになる前に、何とかタルトのふちまで到達できた。
たった10数秒のできごとだった。
惰性で回っていた回転台が止まるころになって、ようやくモンブランが完成していることに気づいた。一瞬すぎて、試しに絞ったときよりもモンブラン作ってる感がなかったくらいだ。
すうっと息を吸い、今まで呼吸を止めていたことに気づいた。プールで息継ぎをした気分だ。
改めて見ると、クリームに隙間があったり、毛羽立ったみたいにがさがさになっているところもあって、上出来とは言えない。はじめてにしてはまあまあかな、くらい。
でも、すごく達成感があった。早くさとうさんに見せたい。すごいって言ってほしい。
ほめられる前提って、おこがましいかな。
「あ、そうだ、粉砂糖かけなきゃ」
モンブランの語源は『白い山』。粉砂糖で雪を表現するのがお決まりだ。
ノンウェットシュガーという、湿気に強い粉砂糖を、茶こしでうっすらと振りかける。普通の粉砂糖を使ってもいいのだけど、時間が経つとクリームの水分で湿って溶けてしまう。ノンウェットシュガーだと、翌日になってもしっかり残るのだ。
ノンウェットシュガーを知らなかったころ、トッピング用に急に粉砂糖がほしくなって、グラニュー糖をすり鉢ですってまで作った粉砂糖が、かけたそばから消えていったことがあった。素材の水分を吸って粉砂糖が溶けることを製菓用語で『泣く』と言うのだけど、泣きたいのはこっちだった。
あとはマロングラッセを飾りつけて完成……なのだけど、それだけじゃ色味に欠ける。とはいえ、モンブランにフレッシュな果物を使うという発想がなかったから、何も用意していない。
どうしようかなぁ……。
「あ、そうだ。さとうさんにもらった桃のドライフルーツ使ってみようかな」
何となくもったいなくて、さとうさんにもらってからまだ手をつけていなかった。部屋のテーブルに飾っていたドライフルーツを持ってきて、ひと口大に切っていく。マロングラッセと桃を、タルトの縁に沿って交互に並べてみる。
栗のクリームのマットな質感に、曖昧な色あいの桃が似合っている気がした。
「手は尽くした」
冷蔵庫で冷やし固めてから切ろう。モンブランを冷蔵庫にしまい、洗いものをしているときだった。
スマホが震え、通知音が鳴った。手の泡を流し、エプロンで拭く。少し湿ったまま、滑りの悪い指でパターンをなぞり、ロックを解除する。さとうさんからのDMだった。
『ミントちゃん、待ち合わせこの前の場所じゃ寒いじゃん?
駅ナカのフードコートとかで待ち合わせしない?
ミントちゃん、めっちゃ寒がりみたいだしさ』
あの激ダサな格好を、寒がりと解釈してくれたのか。よかった、センスを疑われてなくて。
返信を考えているうちに、追加の吹き出しが現れる。
『それに、交番の前じゃなくても安心だって分かってくれただろうし😁』
まじか。バレてた。
慌てて返信を打ちこむ。
『ごめん、失礼だったよね』
10秒と待たずに返信が届く。
『全然!
むしろ、しっかりしてるなって思った!』
『わかった、フードコートで待ち合わせしよう』
『ありがと!
じゃ、またあとでね!』
スマホの画面を落とし、洗いものを再開する。
……どうしよ、おしゃれしなきゃ。
いや、先週との落差がありすぎるのもどうなんだろう。控えめにすべき? やばい、ケーキを作るよりも時間がかかっちゃいそう!
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