第三十一話

 深く雪が積もり、兵舎の周りで雪かきがされたその日、レオンは中庭を横切る赤い頭を見かけた。白い雪景色の中にあって、より目立つ赤。厚手の長袖を着た彼女は、未だレオンたちと同様、療養中の身のため雑務や稽古には参加できない。はず、なのだが。

 嫌な予感がするな。

 その背中に既視感を覚え、レオンは杖をつく左手に力を込める。雪で滑らないように気をつけつつ、彼は遠くに見える赤色を追いかけた。

「何をしている、アルヴァ」

 ようやっと追いついたレオンは、馬小屋に行き着いたアルヴァに声をかける。びくりと振り返った彼女は、レオンの顔を見て表情を強ばらせた。

「あ、その……ごめんなさい、隊長。馬の様子が気になって」

「……見に来ただけか?」

 アルヴァがおずおずと頷くと、彼はほっと息をついて表情を緩める。様子を見るだけだぞ。と笑えば、彼女の表情も幾分安堵したものになった。小屋の中に入ると、数日ぶりの世話係の姿に馬たちが嬉し気に嘶く。顔を寄せてきた一頭を撫でるアルヴァの表情は、穏やかだった。

「傷は、まだ痛むか?」

 馬を撫でる様子を見つつ、レオンはアルヴァの方を見上げる。顔色がすっかり良くなっているため、一見すると彼女が怪我人とはわかりづらい。だが、その腹部にはまだ治癒していない斬り傷が隠れていた。

 この怪我ですぐ動けたのだから、アルヴァの丈夫さには敵わないな。

 傷はあまり痛まないのだと答えたアルヴァは、レオンの脚の具合を心配していた。「じっとしていた方が良いのでは」と眉尻を下げる後輩に、レオンはこそばゆさを感じる。杖をついていることが手伝って、彼は兵舎内のあちこちで心配されていた。

「じっとしているというのも、なかなか退屈でな。かといって、兵舎の中をあまりうろついていると、ラトニクスに怒られてしまうかもしれない」

 お前さえよければ、少し暇つぶしにつきあってくれるとありがたいのだが。

 ぼそぼそと絞り出された言葉の端を、アルヴァが聞き取る。そわそわと馬の方へ視線を泳がせた彼に、アルヴァは「お出かけですか?」と首を傾げた。

 レオンがアルヴァと共に向かったのは、兵舎からほど近い市場だった。歩みが遅れがちなレオンに合わせ、彼女は普段より歩調を緩める。寒さもあり市場は閑散としていたが、道の端に寄せられた泥混じりの雪を、数人の子供たちが丸めたり固めたりして喜んでいた。

「セロさんに、お菓子をですか?」

「あいつは華奢な分、体力の戻りが良くないらしくてな。何か食欲をそそる物を渡せたらと思うのだが」

 セロは案外甘い物が好きなのだと、彼は伝える。冷たい晴れた青空に、薄く引き伸ばされた雲が流れていた。短く吐かれたレオンの呼吸が、白くなっては消えていく。途中、レオンは露店に並べられたアクセサリーの間で立ち止まる。青や白、黄色の髪飾りやペンダントに混ざっていたそれは、赤橙色をしたブレスレットだった。

 夕暮れどきの、泣きそうになる斜陽を彷彿とさせる終わりのあか

「レオン隊長?」

 数歩先を歩いていた彼女が、とたとたと彼の元に戻ってくる。そのことが、レオンには無性にうれしく感じられた。

「これは、お前の髪によく似ているな」

 そっと手に取られた赤いビーズの羅列は、褐色の大きな手のひらをキラキラと華やかせている。鳶色の眼差しがふっと緩められたのを、彼女は不思議そうに「そうでしょうか」と見下ろしていた。

「隊長は、赤い色がお好きなのですか」

「いや、そう……だな。そうともいえるかも知れないが。夕暮れの色は好きだ」

 彼はそれを買い求めると、上着のポケットにしまい込む。その少し先の店で、レオンはセロのために砂糖菓子を購入した。

 大通りのところどころにある休憩用のベンチに、レオンは杖を置いて腰掛ける。人通りがほとんどないため、ベンチはがら空きだ。隣にちょこんと腰掛けたアルヴァに、彼は砂糖菓子の袋を差し出した。

「こういったものを食べるのは初めてだろう? もう一袋買ってあるから、心配しなくていい」

 薄桃色の平たい砂糖の塊を、アルヴァはちょっぴりと齧ってみる。その強い甘みに、黄色い泣き虫な眼差しが丸くなった。

「これは、とても甘い……なんでしょう、嬉しい味がします」

 喜んで二つめを頬張った部下の横顔を、彼は満ち足りた心地で眺める。立っているときには少し遠い彼女の顔が、今はすぐ隣にあった。

 アルヴァ。

 ぽつり、とこぼれた名前に、彼女は首をかしげる。どうされたのですか、と息をした赤毛の部下に、彼は難しい顔をして砂糖菓子を口に放り込んだ。

 アルヴァは、私のことをどう思ってくれているのだろうか。

 少し開きかけた唇が、けれども迷って閉口する。頬の内側に残った砂糖の甘さが、彼の舌に染みた。

「面と向かって、こんなことを聞くのはおかしいのかもしれないが……お前は、私のことを苦手ではないのか」

 出会ってからずっと、私は彼女を泣かせてばかりだった。

 そんな自分のことを、アルヴァはどう思っているのだろうと、レオンにはそれが気がかりだった。さく、と砂糖菓子を齧ったアルヴァは、口元に手を当てる。ややあって紡ぎだされたのは、控えめな囀りだった。

「時々、苦手ではありますが……でも、優しい方だということも、知っていますから」

 僅かに微笑んだ口元は、レオンを安堵させるには充分だった。彼の手がすっと伸び、アルヴァの背に触れる。そのまま軽く抱きつかれ、彼女は短い間の抜けた声をもらした。

「レオン、隊長……?」

「お前さえ良ければ、この気持ちを受け取ってくれないだろうか」

 アルヴァは自分に縋りついた男の顔を伺おうとしたが、見えるのは紺藍の髪と赤らんだ褐色の耳だけだ。だが、その肩が微かに震えていることに気づき、アルヴァはそっとレオンの背を摩る。触れた身体越しに伝わる鼓動は速く、生み出された熱さが外気の寒さに奪われていった。

 やがて、赤らんだ顔を余所に向けたまま、レオンがそっと彼女から離れる。正確には、離れようとした。

 刹那、太陽が海に触れる音が、寒空に溶けて消えた。

 離れた斜陽は甘く、先ほどアルヴァが食べていた砂糖菓子の匂いがする。呆然と固まった傍らの男に、アルヴァは普段と変わらぬ穏やかさでこう告げた。

 そんな風に、思っていてくださったのですね。

 ありがとうございます、とはにかんだ彼女に、レオンはまだ言葉を紡げない。戸惑った様子で自らの唇に指をやる、不器用で優しい男だった。

「ごめんなさい。こういうお返事は、嫌でしたか……?」

 大切な人にはこうするものだと、母さんに教わったので……。

 しゅん、と黄昏の双眼が石畳に落ちる。レオンは慌ててそれを否定し、そっと彼女の手を取った。

「いや、そういうわけではない。ない、のだが……少し、驚いてしまってな」

 交わった視線に、レオンは控えめに笑ってみせる。それは、まだ雪解けには早い冬の日のことだった。

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