第二十八話

 また、傷つけてしまった。

 身の内に染みるような痛みを覚え、彼はぐっと目を閉じる。本当は、そんなことを言いたいわけではなかった。涙を拭う彼女を、レオンはそっと見上げる。

 これで、帰ってくれるだろうか。

 ややあって泣きやんだ彼女は、レオンが見たことのない表情をしていた。

「嫌、です……隊長を置いて、セロさんのことも助けられないのは、嫌です!」

 とても、強い瞳だった。黄金色の眼差しが、雨露をこぼしてなお目映く視線を穿つ。アルヴァの言葉に、レオンは一瞬肩を竦めた。

「私が足手まといなのは、わかっています。ただ、お怪我をした隊長を一人で行かせるわけにはいきません。立ち向かうなら、二人いる方がいくらかマシでしょう。緊急時には、私のことは捨て置いてください。セロさんを助けることを優先します」

 暗がりでなお明るい、黄昏の瞳。その瞳に見下ろされ、レオンは鳶色の双眼をふっと緩ませた。

 泣き虫だが、こういうときには譲らないのだな。

 意思を通す姿勢に好ましいものを感じ、彼は息を吐く。一拍の沈黙の後、彼はアルヴァを真っすぐに見上げる。そこにはもう、先ほどの鋭さはなかった。

「すまない、お前が足手まといだというのは訂正させてくれ。セロを助けて、三人で必ず戻ろう」

「……はい、ありがとうございます。隊長」

 二人で周囲を見渡し、手がかりがないかを調べる。ふと、レオンは石畳の地面に落ちている黒い水滴を見つめた。その暗い水滴は、ぽたりぽたりと一定の間隔で石畳を汚している。それは、二人のものとは別の血痕だった。

「これは……セロさんのものかも知れません。追いかけますか」

「そうだな、他に注意すべき物はない。ひとまずこれを追いかけよう」

 痛む脚を引きずりつつ、レオンは足下を照らす。数歩先を行くアルヴァを追いかけていくと、途中で細い路地に辿り着いた。血の後は更に奥へと続いている。そっとカンテラで奥を照らした刹那、路地の向こうに一瞬何かが動いた。

「急ごう。今、何か向こう側に見えた」

 歩く度に痛みを訴える脚を、暗がりに縮こまってしまいそうな心を無視し、暗い路地を通り抜ける。向こう側に出ると、通りをのそのそと進んでいる件の死体が見えた。その背には、青い衣装の塊が引っかけられ、しゃらしゃらと微かに音を立てている。鈴の音だ。レオンは一旦歩みを止め、負傷した方の脚に力を入れてみる。鋭い痛みとともに、この脚で素早い動きはできないとわからざるを得なかった。

「隊長、私がセロさんを奪還します」

 これぐらいの距離なら、まだ走れますから。

 そう言うや否や走り出しかけたアルヴァの腕を、レオンは慌てて掴む。次いで、彼は彼女の眼差しを真っ直ぐに捉えた。

「全面的に賛成だが、少し待ってくれ。もう少し近づいてからの方がいい。お前がセロを引き離し次第、私が奴を仕留めにかかろう」

「……わかりました、出来るだけ静かに近づきましょう」

 幸い、糸吊りの死体の歩みは酷く緩慢で、早足で十分に距離を縮められた。あと五メートルほどにまで距離を詰め、アルヴァが走り出す。その足下に血滴を散らしつつも、彼女の脚は力強く前に踏み出した。死体に追いついた刹那、彼女はセロを掴んで強引に死体の背中から奪い取る。

「!?……ソ、フィ……!」

 振り返ったそれが、危うく彼女の腕を掴みかけた。だがそれより一瞬早く、アルヴァは死体から走って遠ざかる。

「レオン隊長!」

「わかっている、セロを頼んだぞ!」

 セロの方へ向かう死体に向かって、レオンは剣を振るう。死体の背中に大きく傷が走ったが、それでもなおそれが止まることはなかった。

「グ……オォ……!」

 体勢を崩したそれが振り返り、レオンを力任せに殴り飛ばす。地面に倒れこんだ彼に、死体が右手を向けた。そこに魔力がほの明るく集まるのを目にし、レオンは急いで体勢を立て直す。刹那、レオンのいた場所に眩く白い炎が広がった。アルヴァがセロを地面に下ろし、レオンの方に向かおうとする。だが、それより先にレオンが声を張り上げた。

「っ、大丈夫だ。お前はセロから離れるな!」

 ぐっと歯を食いしばり、糸吊りの死体に斬りかかる。一歩踏み出すごとに、レオンの右脚が引き裂けんばかりに痛みを訴えた。死体の胴に向かって乱暴に剣を突き立てたところで、ようやく死体は動きを止める。剣を突き刺した勢いで、彼はそのまま石畳に倒れ込んだ。

 何とか、倒しきったか……。

 真上に見える夜中の月に、レオンはほっと息を吐く。地面に手をつき死体から距離をとると、そこにセロを抱えたアルヴァが走り寄った。

「っ……アルヴァ、セロは無事か」

「無事かどうかはわかりませんが、呼吸はしています」

「そう、か。それならいい」

 腕の中のセロは、月明かりでわかるほどに青白い顔をしていた。彼は左腕を負傷しており、それによりアルヴァの懐が暗く潤っている。よたつきながらなんとか立ち上がろうとするレオンを、彼女が落ち着かない様子で見つめていた。

 澄んだ冬の空気が、レオンの肺に溜まっては吐き出される。アルヴァと交代でセロを抱えながら、彼はゆっくりと兵舎に戻ろうとしていた。灯りを手にしたアルヴァが、レオンの隣をとたとたと歩いている。痛みと疲労感はあったものの、レオンの隣には穏やかな黄昏が寄り添っていた。

「隊長、そろそろ代わります」

「いや、もう少し先でいい。お前も、疲れただろう」

 月影に白く映えるアルヴァの頬を見上げ、彼は息を吐く。膝から下が、酷い霜焼けのように疼いた。

 彼女は、大丈夫だろうか。

 腹部を裂かれたアルヴァの具合は、カンテラの明かりだけではよくわからない。少し早く歩きすぎては歩調を緩める部下に、具合を聞くことは憚られた。もし、もう歩けないと言われたとして、もう駄目だと言われたとして、レオンは彼女をどうすることもできない。できるのは、ただ共に歩いて兵舎に戻ることだけだ。

 今夜は月が綺麗ですね、隊長。

 ふとこぼれ出た囁きに、レオンは相槌を打つ。刹那、彼女の上体がぐらつき、レオンが肩口で彼女を支える。ぐっと掛かった重みに脚が悲鳴を上げ、彼は込み上げた呻き声を強く飲み込んだ。

「大丈夫か。兵舎までもう少しだ」

「っ、はい。すみません。頭が、ふわふわしてしまって……」

 もう少し、と言い聞かせてはいるものの、兵舎まではまだ距離がある。出血のせいでふらついているアルヴァが、彼は心配だった。

「お前の、故郷の話を聞かせてくれないか」

 レオンの言葉に、彼女は「故郷ですか」と目をしばたかせる。黙って黙々と歩くより気が紛れるだろうと言われ、アルヴァは穏やかな笑みをこぼした。

「私の故郷は、山奥でしたから。この街と違って、何もない場所でしたよ」

 やわやわとした声で紡がれる、故郷の話。山間の集落でのささやかな生活を、レオンは温かい思いで聞いていた。野うさぎのスープが好きだったと話す無邪気な声色に、彼はアルヴァが買い求めたあの木彫りのうさぎを思い浮かべる。あのとき、可愛らしいと思っていたのか、それともおいしそうと思っていたのかが少し気になった。

「私はまだ小さかったので、狩りに連れて行ってはもらえませんでしたが……村の弓使いたちは、三日に一度は狩りに出かけて、動物たちを仕留めていたものです」

 専ら畑係だったと笑った彼女は、「そろそろ代わらせてください」と立ち止まる。一度は断わった交代だったが、レオンの脚も限界だった。抱えていたセロをそっとアルヴァに引き渡し、呼吸を整える。彼の苦し気な吐息が白くなり、真夜中の空気に溶けていった。

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