第二十五話

「まだ胴が甘いぞ。もっと脇を締めるようにと、前から言っているだろう」

「……っ……ごめ、なさ……」

 次第に潤んでいくアルヴァの両目を視界に捉え、オルトスは心底呆れたため息をついた。アルヴァとレオンが稽古をしているのを眺めつつ、彼は隅の方で休憩をしている。今は追加の稽古の最中だ。

 本当に、すぐ泣くなあの馬つなぎ棒は。

 汗を拭うようにして涙をぬぐい、彼女は再びレオンと剣を交える。身を翻すと同時にくり出された鳩尾への蹴りを、レオンは咄嗟に左手で受け止めた。鍔迫り合っては弾き飛ばすの繰り返しを眺め、オルトスはレオンの方を注視する。

 俺の相手をしているときより、蹴り技が多いな。

 相手に合わせて変えているんだろうかと、オルトスは考える。アルヴァが弾き飛ばされたところで、レオンが剣を降ろした。

「今日はこれぐらいでいいだろう。流石に二人相手だと疲れるな」

 大丈夫か。とレオンが手を貸すと、アルヴァは慌てて立ち上がり、礼を口にする。アルヴァは二人の木剣を回収すると、とたとたと倉庫の方に駆けていった。

「レオン隊長」

 俺が相手のときは、何故蹴りを使わない。

 眉間に皺を寄せた翡翠の両目が、ぐっとレオンを射抜く。オルトスの視線に、レオンは穏やかな様子で答えた。

「アルヴァの体勢を崩すには、お前を相手にするよりも強い力がいるからな。単純な話だ。彼女の方が、背丈がある分体勢を崩しにくい。それに、お前はそんなに大きな隙を見せてはくれないからな」

「……ならいい」

 ぶすっとした表情のまま、オルトスはため息をつく。態度は相変わらずだったが、黙々と剣技を磨くひたむきさは彼の長所だった。

 レオンから見て、オルトスの腕前はアルヴァの何倍も上だった。体格や体力の点ではアルヴァの方が優れていたが、それ以上にオルトスの腕前は冴えている。恐らく自分が彼ぐらいのころはもっとなまくらだっただろうと、レオンはかつての自分を思い出す。だからこそ、レオンにはオルトスの態度が不思議だった。

 これだけ優れた腕前があるにも関わらず、年上の私に勝てないのがそんなに不満なのだろうか。

 年上の相手に勝てないことは、経験の差からして今は仕方がないことだ。それはあと数年すれば逆転するかも知れず――レオンとしては、そうやすやすと越えられるわけにはいかないのだが――、何も今すぐ越える必要はない。それはオルトスの場合、剣の技術というよりは実戦を積むことで埋まっていく差だ。

「オルトス。今、私に勝てないことをそんなに気にする必要はないんだぞ。そのうち、私もお前に抜かされてしまうかもしれない」

「そのうちなんて当てにならない。ほしいのは今、このときの実力だ」

 だから、あんたに勝てないのは困る。

 目を伏した部下は、そう言い残して兵舎の方へ足を向ける。小さくなる後ろ姿を見送りつつ、レオンは肩の力を抜いた。確かに、自分にもそんなときがあったかも知れないと、彼は数年前を振り返る。より強く、より上を目指そうという気持ちばかりが前に出ていたころが。

「お疲れさまでした、レオン隊長。いつもありがとうございます」

 聞き慣れた声に振り返ると、アルヴァが倉庫から戻ってきたところだった。腫れぼったい瞼の彼女は、乾いた頬にほんのりと砂粒をつけている。顔を綺麗に洗ってくるといいと笑ったレオンに、アルヴァは不思議そうに自分の顔に手をやった。


 件の糸吊りの死体が未だ見つからないことを示す報告書を片手に、団長はふっと息を吐く。魔導師の死体に逃げられてから、かれこれ二週間が経とうとしていた。外はみぞれ混じりの雨が降っており、昼間だというのに薄暗い。落ち着かない様子で待機した後、踵を返そうとしたレオンを、団長はやはり呼び止めた。

「何か、話していないことがあるのではないか」

「いいえ。特に重要なことは、何も」

「重要でなくとも良い」

 赤く鮮やかな双眼がぐっと鋭くなるのを目にし、レオンはその場で立ち止まる。鷹のような鋭さを持つ団長の目つきは、対峙する者をいたく緊張させた。

「その、大したことではありませんが――」

 レオンが白状したのは、数日前にアルヴァが言ったことである。魔導師の気を引けそうな踊り子に身を偽れば、おびき出すことが可能ではないのかという、あの話だ。団長はその話に興味を示し、レオンに細かな内容を尋ねる。子細を聞いたその男は、少し笑って目を閉じた。

「その案、やってみるといい。どの道、他に良さそうな案もないのだろう? ならば、出来ることを試せるだけ試してみるほかあるまい」

 経費は多少くれてやろうと、団長はレオンにその案の実行を促した。戸惑った藍色髪の小隊長の様子を、彼は愉快気に眺めている。レオンが「わかりました」と言うまでに、少し時間がかかった。

「あの赤い髪のも連れて行くといい。何事も経験だ」

「アルヴァを、ですか? しかし彼女はまだ「生きた人間が相手でない分、やりやすいだろう。あれには早めに経験を積ませておいた方がいい」」

 どうにかしてセロを上手く説得するようにと言うと、団長は別の書類の隅にサインをする仕事を始める。一礼をして部屋を出たレオンは、この決定をどう説明すべきかと頭を抱えた。

 まさか、本当にあの案を実行することになるとは。

 アルヴァがどうだったかはさておき、彼の中でそれは単なる冗談のはずだった。ゆっくりと兵舎の階段を下り、廊下を歩く。レオンが頭を抱えたまま小隊長室に戻ると、開けっ放しにしていた部屋では見知った男が寛いでいた。

「あぁ、戻ってきたのか。この椅子、結構座り心地いいんだな」

「……鍵を閉めなかったのは悪かったが、勝手に入るんじゃない」

 背もたれつきの椅子に身を埋めたセロは、「誰か来ても居留守しとくから大丈夫だ」と笑う。半ば呆れつつも、レオンは彼に何から話すべきかと口の中で舌を丸めた。

 セロに衣装を見繕ったとして、果たして本当にその踊り子のように見えるのだろうか。いやその前に着てくれるのだろうか。

「なんだよ、不満か? いいだろちょっとぐらい座ってても」

 レオンの視線が気になり、彼は整った眉をぐっと寄せる。そうじゃないんだとため息をついたレオンは、以前セロがしていたように机の縁に腰掛けた。

「団長から、決行の指示が出たんだ」

「ん、何の話だ?」

「……アルヴァが前に話していた、お前が女装する話だ」

「はぁ……!?」

 刹那、酷く気の抜けた声がセロの喉から漏れ出たのを、レオンは笑いを堪えて聞き流した。窓越しに見える景色は、相変わらずどんよりと曇っている。

「経費まで出た以上、選択肢はないぞ」

「いや待て、それ何の経費だ」

 お前用の服だ。と返され、セロは声もなく机に突っ伏した。

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