第六章 銀の鈴
第二十三話
昼過ぎ、馬小屋の掃除を終えたアルヴァの元に、すっと長い影が伸びる。箒を壁に立て掛けた彼女は、訪れた相手に首を傾げた。
「どうかされましたか、オルトス」
「今日の仕事はこれで終わりか、日没」
澄ました翡翠の双眼が、干し草をズボンにくっつけたアルヴァをぐっと見上げる。頷いた彼女に、質問を質問で返した彼は稽古用の木剣を差し出した。
レオンが、今日はお前の面倒を見ろと言っていた。
外に出ろと促され、アルヴァは馬小屋を後にする。馬小屋から少し離れた中庭の隅には、枯れた雑草がいくつも地面に伸びていた。剣を構えたアルヴァは、つまらなそうな顔をしているオルトスへと間合いを詰めると、剣を振り下ろす。彼が難なく交わした次の瞬間、オルトスの耳の端を鋭い蹴りが突き抜けた。
「っ!? 前よりはマシになったな……!」
「そうだと、良いのですが」
ひりつく耳の感覚に、オルトスは舌打ちをする。そして乱暴に剣同士をぶつけ、アルヴァと距離を取った。再び向かってきた赤毛の騎士を、彼はさっと下がることでかわしてみせる。そしてがら空きになった脇腹を木剣の腹で叩き、ついでに足を引っかけた。どしゃっ、と地面に顎を打ちつけたアルヴァは、すぐに立ち上がってオルトスに向かう。顎から伝う土交じりの血液が、ブラウスの首元を汚していた。
アルヴァの何度目かの転倒で、オルトスは手にしていた木剣を踏み固められた土に突き立てる。立ち上がったアルヴァの胸元には、乾いた血糊の上から真新しい血糊が付着していた。顎の擦り傷と、鼻からの出血。頬にも一筋の浅い傷を作ったアルヴァは、剣を手放したオルトスを視界にとらえ、すっと構えを解く。ぱたっ、と地面に落ちた血滴を前に、オルトスは翡翠の眼差しを歪めた。
「どうかされましたか?」
「……酷い面だぞ。鼻もぶつけたのか」
顔を洗ってこいと言われ、アルヴァは自らの鼻に手をやる。指の腹を汚した色濃い血液の感触に、彼女は服の袖で鼻を拭いた。大丈夫だから続きをやろうと提案した彼女に、オルトスは面食らって沈黙してしまう。ブラウスの白い袖に、鮮やかな赤い軌跡が拭われていた。
「オルトス?」
続きをしないのかと首を傾げた、背の高い彼女。できたばかりの傷をまるで気に留めない様子が、オルトスには異様に映った。
「顔を洗ってこいと言っている。今日、お前の面倒を見るのはこれで終わりだ」
だいたい、痛くないのかその顔。
オルトスが大きなため息をつくと、アルヴァはぱちぱちと瞬きをした。突っ立ったままのアルヴァにしびれを切らし、オルトスは汚れていない方の袖をむんずと掴むと、彼女を井戸の前まで引っ張っていった。彼は井戸水を汲み上げると、アルヴァの前に水汲み桶を押しやる。暗い水汲み桶の中には、鼻の周りを暗く汚したアルヴァの顔が歪んで映っていた。
「見ろ、酷いことになってるだろ。鼻の骨が折れてないか、念のため医務室で診てもらってこい」
「鼻は、別に大丈夫だと思うのですが」
アルヴァは桶に映った自分と少し見つめあい、その後桶の水を掬って顔を濯いだ。ぶんぶんと馬のように勢いよく首を振るうアルヴァの足元に、水と混ざった血液の薄い赤が滴り落ちる。まだ出血が治まっていない鼻を摘まんだ彼女を見て、オルトスは眉間にぐっと皺を刻んだ。
「そんなに勢いよく頭を振るからだ。鼻を摘まんだままじっとしてろ」
「今日の稽古はもうおしまいなのですか?」
「……お前、その状態でできるわけないだろ。いいから動くな」
鼻を摘まんだまま、ふがふがと喋る彼女。彼女の蹴りがかすった耳の端を、彼はそっと指で触ってみる。多少ひりついてはいたが、皮が剥けたり血が出たりといった症状はなかった。
「血が止まったら医務室に行け。今日は俺が剣を直しておく」
そう言って、彼はその場にアルヴァを置き去りにする。自分より小さなその背中に、アルヴァは鼻声のお礼を投げかけた。
その日の夕方、戻ったヴァルシュが伝えたのは、かつて埋葬したはずの遺体の不在だった。ヴァルシュが護衛の騎士と墓地を見に行ったところ、墓地には何者かが土を掘り返して埋め直したような跡があり、棺桶には遺品が入った袋と上着しかなく、そこに寝かせたはずの魔導師の男の遺体は影も形もなかったという。遺品袋を手に戻ったヴァルシュの報告に、レオンは難しい顔をした。
「と、いうことは、先日私の部下が遭遇した魔導師の死体は、お前の墓地から出てきたと考えていいだろうか」
「多分、そうだろうよ。お前の部下が聞いたっていう『ソフィ何とか』についてもわかったぞ」
そう言ってヴァルシュが小隊長室の机に置いたのは、土で汚れた小さな封筒だった。遺品として墓に収められた、魔導師の私物の一つである。封筒の隅には、整った筆跡でこう書かれていた。
――ソフィレアへ、貴女の活躍を心よりお祈り申し上げます。
「これは……出せなかった手紙か?」
「封筒の中身は白紙だからな。書く前に死んじまったんだろう。で、原因はわからないが、この魔導師がほかの死体を糸吊りの死体にしてる可能性がある」
前に言ったかもしれねぇが、俺の墓地から結構な数の遺体がいなくなっちまってんだ。憶測だが、こいつのせいかもしれねぇ。
ヴァルシュの言葉に、レオンが鳶色の目を向ける。ため息をついた墓守に、レオンは言葉を投げかけた。
「糸吊りの死体が、糸吊りの死体を生み出していると?」
「あくまで可能性の話だが、魔導師の死体ならそういうこともありうるっつー話だ。生前に糸吊りの死体を生み出す魔法を覚えていたなら、動く死体になってからもそれを使っちまうことぐらいあるだろうさ」
そういうことがないように、一応埋める前に対策はしてあったんだが……多分、盗人が墓を荒らしたんだろう。荒らした後はちゃんと戻してくれりゃあいいのにな。
件の魔法を使う糸吊りの死体は、捜索もむなしく発見されていない。だがヴァルシュの仮説が的を射ていた場合、秋ごろから続く事件の根本はその魔導師の死体ということになる。レオンは少し考えた後、土埃で汚れた封筒を手に取った。
「これを、少し借りても構わないだろうか」
「後で返してくれるんなら一向に構わねぇよ。だが、そんな封筒一つでどうするつもりだ?」
首を捻る墓守に、レオンは「少し聞き込みをしてみる」と息を吐いた。
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