第五章 冬の窓
第二十一話
昼間とはいえ肌寒い北風が吹く午後、背の高い紺髪の男とそれよりさらに背の高い赤毛の後輩は、市場に足を運んでいた。寒さのせいか人通りはまばらであり、店員も分厚い上着のポケットに手を突っ込んでじっとしている。小さな木彫りの野うさぎを手に、アルヴァは店の前で両目をぱちくりとした。
「うさぎさん……」
「随分と小さな置物だな。書類の重しにも使えそうだが」
アルヴァはしげしげとうさぎを見つめた末、お金を店主に手渡す。手のひらに収まる小さなうさぎを、アルヴァは布の鞄にしまい込んだ。春の陽気を思わせる彼女の表情に、レオンは眩しさを覚えて少し目を逸らした。
生活に必ずしも必要ではないが、そうした物を買い求めるのはアルヴァにとって良いことに違いない。
次はどこを見るのかと尋ねつつ、彼は上着のポケットの中で指先を暖める。レオンは濃緑の丈の長い上着を着てきていたが、アルヴァの方は冬用の長袖とはいえ、上着を着ていない。薄着で出てきたことを心配しなかったわけではないが、レオンが見る限りアルヴァは寒さを特段気にしていないようだった。
「そんなに、色々見ても良いのですか?」
「見るだけならお金はかからないからな、気に入った物だけ買うといい」
レオンがそういって笑えば、アルヴァは通りの端にある小さな店に目を向ける。そこは古い雑貨屋で、ガラス窓の向こうには、シックな臙脂のワンピースが飾られていた。店の前まで来ると、アルヴァの視線がガラス窓の向こう側に向けられる。
臙脂の布に、黒い腰紐が結ばれたワンピース。
「ああいうものを着てみたいのか?」
「いいえ。私がファルロッテぐらい小柄なら、きっと着られるのでしょうけど」
アルヴァの言う通り、そのワンピースは彼女には丈が短すぎた。といっても、大概のワンピースは彼女にとって短すぎるのだが。
つ、と眉尻を下げたアルヴァは、しかしこの店を覗いていくと言う。アルヴァについで、レオンも店のドアをくぐった。店内にあるのはワンピースだけではなく、古い魔導書や算盤、花瓶、鏡台に棚など多岐にわたっている。埃っぽい空気が、レオンの鼻腔をくすぐった。
店員の気配がない店内を、彼女はちょこちょこと散策する。木製のテーブルに並べられた華奢なビーズの装飾品を前に、アルヴァは身を屈めた。
「隊長、このきらきらした紐は何でしょうか」
澄んだ水色のビーズが編み込まれた、緑の紐。
そっと両端を持っているアルヴァは、完全にそれを短い紐だと思っていた。値札がついたそれを、レオンはアルヴァの手首に止めつける。彼女が興味を持ったそれは、若い女性がよくつける安価なブレスレットだ。
「これはこうして腕につける飾りだ。街の女性たちがしているのを、見たことはないか?」
「そういえば、何か手首に巻いている方がいらしたような気がします。これだったのですね」
アルヴァはつけてもらったそれを外そうとしたが、上手く外れずに手首をくるくるまわすばかりだ。レオンが「じっとしていろ」と笑いながら水色のそれを外してやると、彼女はほっと息を吐いた。
あれこれとレオンに教えてもらいつつ、アルヴァは雑貨屋の中を一周する。一周の末、彼女が手にしていたのはガラス玉つきの髪留めだった。丈夫な革紐に、薄い黄色をした小さめのガラス玉が通っただけの簡単な作りをしている。店の奥で完全に気配を消していた……居眠りをしていた店主の老人にお金を渡し、二人は外に出た。
日が少し傾きつつある寒空の下、二人は兵舎に戻ろうと道を引き返す。商店街を抜けようかというところで、近くの路地から甲高い悲鳴が響き渡った。
「隊長、今のは……!」
「何かあったんだろう、行くぞ」
非番中の外出だったため、二人は剣を持っていない。だがそれでも、聞こえてきた悲鳴を無視するわけにはいかなかった。声がした路地を曲がると、腐った生ごみのような臭いが鼻につく。泥混じりの紫色をした奇妙な男の背中と、その奥で尻餅をついた女性が見えた。女性に向かっていこうとする、木の棒を握りしめた糸吊りの死体。アルヴァは荷物を置いて走り出し、糸吊りの死体の脚部を思い切り蹴り飛ばした。
「今のうちに逃げてください!」
ガクンと片膝をついたそれの後ろから、アルヴァはおびえた様子の女性に声を張り上げる。女性が逃げ出したのを見届け、彼女はほっと息をついた。だがそれにより、糸吊りの死体はアルヴァを新たな標的と認識し、唸り声とともにこちらに向き直ってしまう。後ずさったアルヴァの腕を、レオンは後ろに引いた。
「よく逃がしてくれた。お前は下がっていてくれ」
レオンが手にしていたのは、錆びついた短い鉄の棒だった。どこかの家の窓についていたはずの、跳ね上げ用の棒である。長剣とは比べものにならない粗末な代物だったが、この際そんなことは言っていられない。言葉にもならない低い叫び声を前に、彼は鉄の棒を構えた。相手は、右手に持った木の棒を乱暴に振り回してくる。大味な前方からの一振りをかわすと、レオンが鉄の棒を振るった。それは糸吊りの死体の肩を直撃したが、相手はびくともしない。既に死んでいる相手をしとめるには、このような打撃では威力が不十分なのだ。
「やはり剣でなくては駄目か」
再度木の棒を振り上げた糸吊りの死体に、彼は素早く突進した。棒が振り下ろされるより先に懐に入り込んだ彼は、金属の棒を死体の胸部に深く突き刺す。動きを止めたそれが倒れると、レオンは長いため息をついた。
「隊長、ご無事ですか」
とたとたと駆け寄ってきたアルヴァに、彼は「大丈夫だ」と言葉を返す。地面には、死体が振り回していた棒きれが転がっていた。棒の先には装飾のガラス玉が――といっても、それは乱暴な扱いですっかりひび割れていたが――ついており、ただの木の棒にしては妙だった。
「これは……杖、か?」
不思議に思ったレオンが、それを拾い上げる。割れたガラス玉の中に、レオンとアルヴァの顔が逆さまに映っていた。
「確かにこれは杖だな。魔導師がよく使うやつだ」
兵舎の一室に居候していた墓守は、レオンが持ち帰ったそれを見て断言した。ヴァルシュは牢屋から釈放されており、今は兵舎の空き部屋に宿泊して糸吊りの死体を調べている。男の死体が何の変哲もない死体だった今、不可解なのはこの杖だった。
「遺体の方も見たが、あいつは多分生前も魔導師なんかじゃなかっただろう。どちらかというと肉体労働をしている男の体つきだったしな」
お前等が生け捕りにしてきたあの女の遺体も……まぁ、動き回っちゃいたが普通の死体だったし、今のところ怪しいのはこの杖だけだ。
ヴァルシュはひび割れた杖を手に取ると、しばらくそれを観察する。木製の杖はガラス玉がひび割れていたほか、よく見ると反対側も先が折れていた。
「特に何かある杖にも見えないが、なんか引っかかるから預かっててもいいか? そのうち何が気になるのかわかるかも知れない」
「そうしてくれるとありがたい。何か思うことがあったら知らせてくれ」
レオンが部屋を出ようとすると、ヴァルシュが彼を呼び止める。レオンが振り返ると、墓守は赤毛の騎士について尋ねた。
「あの赤毛のは元気にしてんのか?」
「しているが、どうした?」
何だろうかという様子で振り返ったレオンに、ヴァルシュは愉快気に笑った。
痛てぇ蹴りだったって、なんかのついでに言っといてくれ。
深緑の髪をした墓守は、手元で杖をくるくると回して楽しそうである。よくわからない伝言だと思いつつも、レオンはヴァルシュの元を後にした。
部屋を出たレオンは、書類を片づけに小隊長室に向かう。上へと向かう古い木製の階段を上ると、部屋の入り口に人が立っていた。
茶色い髪に、鮮やかな翡翠の双眼。
「どうした、オルトス。私に何か用事か?」
レオンを待っていたのは、部下のオルトスだ。彼がわざわざこんなところに来るのは珍しいと感じ、レオンはオルトスの前で足を止める。どうかしたのかと尋ねると、彼は口を開きかけて閉口し、視線を床に落としてしまった。出かかった言葉をもう一度紡ごうとする部下を、レオンは急かさずに待っている。ややあって、ぼそぼそと歯切れの悪い声がレオンに届けられた。
俺にも、追加で稽古をしてほしい。
気まずそうに伺ってくるオルトスの眼差しを感じ、彼は目を閉じる。再び開いてみても、彼の部下はじっと返事を待っていた。
「お前には、追加の稽古は不要だと思うのだが」
「あんたに一矢も報えないのに、不要なはずがないだろう」
むすっとした表情でそう言い返す彼は、真っ直ぐに隊長であるレオンを見ている。己の実力に納得がいかない様子だった。
「この前の手合わせを気にしているのか?」
「そうじゃなかったら、わざわざあんたのところには来ない」
それもそうだった。レオンは少し考えた後、アルヴァと一緒の時間でいいなら引き受けようと答え、この負けず嫌いな部下の様子を伺う。オルトスは眉間に皺を寄せていたが、ややあって「わかった」と息をついた。今度は気を失わないようにすると言い残し、彼はレオンが上ってきた階段を軽い足取りで降りていく。その背中は、まだ少し少年の名残を引きずっていた。
まったく、そういうところは真面目なんだな。
言わないことにした言葉を胸に留め、レオンは小隊長室のドアを開ける。そこにはまた別な来訪者の姿があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます